第52話 言えない
家に帰り未だ呆然としたまま巧を待った。
食事は喉を通らなかった。かろうじてお風呂だけは入り済ませておく。ここ最近帰りの遅い巧とは少し顔を合わせる程度か、もしくは先に寝てしまっていることもあった。
今日ばかりは寝ているわけにもいかず、私はリビングでぼうっとしながら椅子に座っていた。
日付が変わりそうになる頃、玄関のあく音がした。びくっと体が反応する。そのまま立ち上がることもせず、私は座ったまま巧を待った。
廊下から足音が聞こえ、リビングへの扉が開いた瞬間、驚いた巧の顔が目に入る。
「なんだ、起きてたのか」
「……おかえり」
とりあえず、微笑んで挨拶を交わす。巧はふうとため息をつきながら中へ入ってきた。
「ただいま」
「忙しそうだね」
「ああ、ちょっとトラブルがあって。明日から急遽出張に行かなきゃならなくなった。せっかくの休日に最悪だ」
心底嫌そうな顔をして巧がいう。私は一旦口を開くも、すぐにそれを閉じた。
冷蔵庫から飲み物を取り出しながら巧が続ける。
「多分三日くらいで帰ってくる。帰ってきた後は流石に休み入れるから。しばらく一人になるから戸締りちゃんとしとけよ」
「……わかった」
「飲みすぎないように」
「うん」
グラスに氷とお茶を注いでその場で飲んでいる巧を横目で見る。なぜか、安西さんと巧が並んでいる姿を想像してしまった。それを振り払うように頭を振り、テーブルの上に置いた自分の拳を握る。
「ねえ」
「ん?」
「安西唯さんって、知ってる?」
私がそう言った瞬間、巧が驚いたようにしてこちらを振り返った顔が視界に入った。せっかく入れたお茶をキッチンの隅に置きっぱなしにしたまま、巧が寄ってくる。
随分と険しい顔で、彼は私を見下ろした。
「……どこでその名前を?」
やや切羽詰まったその声を聞いて、これまで感情を失ったようになっていた自分の心が一気に動いた。
こんな反応が返ってくるなんて。正直、予想外だった。きっとすました顔で「知ってるけど何で」ぐらいの答えを想定していた。
そう思った瞬間、私はようやく自分で気がついたのだ。
巧の子供を妊娠しているだなんて心のどこかで信じたくなかった。実は安西さんの狂言で、巧ははあ? という顔で答えて欲しかったんだ。きっと今のいままで、私は心の底でそんな展開を待ち望んでいた。
でも巧のこの反応を見て、安西さんとただならぬ関係があったのだと確信させられる。
もしかして、
本当はずっと安西さんの妊娠を知っていた、とか??
「杏奈?」
心配そうに名を呼んでくる巧を見てはっとする。
ううん、それはない。きっとそんなこと巧に限ってあるはずがない。ちょっと性格に難ありだけど、でもこの人は私を騙すようなことだけはしない。不器用だけどまっすぐだから。
だから……
そんな焦ったようなあなたの顔、見たくない。
「……お見合い、したことあるって聞いて」
「あ、ああ……杏奈と会う前にな。他にも何人かしたことはあるから、そのうちの一人ってだけ」
「そう……」
「まさか、安西唯と会ったのか?」
うわずった巧の声と珍しく焦る表情は、疑惑を確信に変えていく。
いつも涼しい顔をしてる巧が、あの人の名前を出しただけでこんなふうに狼狽えている。本人は気づいていないのだろうか。
安西唯さんっていう人が彼にとって『ただの女性』でないことは明確。
『寝たの? あの人、巧の子供妊娠してるって』
そんな言葉、私の口から出せるわけがない
私は不器用すぎて初めてのデートでも失敗して、その後のステップアップすら上手く対応できなくて、そんな私の口から出せるわけがなかった。言いたくなかった。残酷すぎる真実を、言える余裕がない。
話すべきことはたくさんある。私との関係は? 安西さんとの関係は? 親にも一体なんて説明するの?
なのに、臆病すぎる私からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
「……いや、お見合いしたって聞いて、どんな人だったのかなって」
苦笑しながら答えた。巧がほっとしたのが伝わる。私と安西さんが直接会っていないことに、随分安堵してるようだ。
「そうか、噂で聞いたのか」
「……うん」
「見合いしたけど好みでもなんでもない人だったよ。親が強引に開いただけ」
チクリと胸が痛んだ。巧が嘘をついたから。
付き合ってないにしても、あの人とは深い関係になったはずなのに。彼は平然と嘘をついてみせた。……いや、普通は隠すか、そんなこと。私に隠す過去が無さすぎるんだ。
ふ、と口から笑みが溢れる。
「そっか」
「杏奈が気にすることはなにもないから」
「……うん」
「さ、俺は風呂に入ってくるわ。出張の準備もしないと。めんどくせ」
巧は大きなため息をつきながらそう言うと、そのまま浴室へと向かっていった。リビングの扉が閉まったあと、誰もいない無音の部屋に一人残される。
つい、涙がこぼれた。
樹くんにちゃんと私から話すから、なんて言っておいて。結局怖くて何も聞けないなんて、臆病にも程がある。でも巧の反応で分かった、安西さんは狂言をしているわけじゃない。きっと本当に巧と深い関係にあって、妊娠してるんだ。じゃなきゃ、巧があんなに狼狽えるはずがない。
そうなれば結末はとんでもなく恐ろしいものになる。
私と巧が離婚しなければならないという最悪のもの。私はそれをきくのが怖くて、何も言えないんだ。
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