第51話 頭は真っ白
人間、キャパシティを超えるとただ呆然とするらしい。
私は今聞こえたセリフが理解できず、ただばかみたいに口を開けたまま安西さんを見ていた。反して彼女は涼しい顔でにっこり微笑み、腹部を撫でている。
妊娠?
ぽっこりとしているお腹を見下ろした。なぜ初めに気づかなかったんだと呆れるくらい、それは大きな腹部だった。
「はあ? 妊娠って……何言ってんだあんた」
反応したのは私ではなく隣の樹くんだった。
「もう六ヶ月です」
「はあ? 六ヶ月……!?」
「ふふ、驚かせてしまいましたよね。無理もありません」
頭の中がぐるぐると回って混乱する。何を言えばいいのか、何をきけばいいのか。情けないことに、私は感情すら失ってしまっていた。
巧の子供を、この人が宿している……?
「つき、あっていたんですか、巧と……」
最初に出たセリフはそれだった。
だが、安西さんはふふっと小さく笑う。
「いいえ。正式にお付き合いしていたわけじゃありません」
「え……」
「巧さんって、特定の恋人を作らないことで有名でしたから。だから結婚の知らせを聞いて驚きました、どうやってこぎつけたんです? 妊娠ではなさそうですね?」
安西さんは私の足元を見てそう言った。私の足はヒールを履いている。
そりゃそうだよ、私が妊娠してるわけがない。だって、巧とはそんな関係ですらないから。
ただ呆然と安西さんを見た。でも、この人とはそう言う関係だったんだ。
私の顔を見て、安西さんは微笑む。かばんから小さなメモを取り出して私に差し出した。
「今日は驚いて会話にならなそうですね。まあ当然のことです。頭の中が整理できたらまたご連絡いただけますか? いいお返事をお待ちしています」
何も言い返さずメモを受け取る。電話番号が記されていた。
「まあ……答えは決まっていますよね。だって、子供がいるんですから。ね?」
安西さんにそう言われ、何も言い返せなかった。樹くんがカッとなったようにして言う。
「突然きてなんだあんた……! 妊娠してたならなんでもっと早く言ってこなかったんだよ、今更になって……! 本当に巧の子かよ!」
「堕ろせ、だなんて言われないようにですよ」
安西さんは冷たい声で言った。樹くんも言葉をなくす。
三人沈黙が流れた。真顔になった安西さんが色の無い目で私をじっと見ている。威圧感のあるその眼力に、私は何も言えなかった。
安西さんは再びにっこり笑った。そして私に背を向けて歩き出したが、すぐに思い出したように振り返って言った。
「藤ヶ谷グループの跡取り、彼のお父さん早く欲しくて仕方ないみたいですね?」
それを聞いて樹くんが怒ったように安西さんに何かを言おうとしたが、私は黙って彼を止めた。相手は妊婦だ、それに妊娠しているのならその父親に認知を求めるのはごくごく当たり前の権利。安西さんに怒りをぶつけるのはおかしい。
「杏奈ちゃん……!」
「またご連絡します、すみません」
私が色のない声で答えると安西さんは頷いた。そしてゆっくりとした歩調でそこから歩き去っていく。
ぼんやりとその後ろ姿を見ていた。怒りだとか悲しみだとか、そういうものよりただショックだった。
巧の、子。
そう思ったと同時にふわりと体から力が抜けて倒れそうになる。それを樹くんがタイミングよく支えてくれた。慌てたような声が耳に入ってくる。
「杏奈ちゃん、大丈夫!?」
「……ごめ」
「あいつ……ふざけんなよ、何考えてんだよ!」
私と反して樹くんは険しい顔で叫んだ。冷静にそれを止める。
「安西さんは悪いわけじゃ」
「あの女じゃないよ! いやあの女もムカつくけど!
巧だよ、他の女孕ませて何やってんだよ!」
樹くんの腕は怒りで震えていた。顔も真っ赤になっている。
「そんな、結婚する前のことだから……半年前なら巧とは出会ってもないし」
そう、妊娠六ヶ月ならば巧が浮気していたというわけではない。私と出会う前にあったことだ。
だが、樹くんは険しい顔をして私を見た。
「え? 一年付き合ってたんでしょ?」
そう聞いてはっとした。
しまった、そういう設定だった……! 私は今更慌てて口を両手で押さえる。あまりの展開に冷静さを欠いている。
樹くんはじっと私の顔を見ていた。その真っ直ぐな視線が、全て見抜かれている気がした。
私は彼から顔を背ける。
「杏奈ちゃん?」
「……ごめん、今混乱してるの。何も聞かないで」
うまい言い訳すら思いつかなかった。ただ脳内は真っ白でなんの処理も行えない。フリーズしたパソコン画面のようだ。
樹くんは何か言いかけたが、すぐに黙り込んだ。私は無言でただアスファルトを見つめていた。
あの人が巧の子供を妊娠している。あまりにショックが大きいこの事実だが、私の心の中ではやや違う方向に意識が逸れていた。
形式上だけでも巧と結婚していて、まだ日は浅いけどキチンと付き合っている。それなのに私はくだらないことで巧からの誘いを断って未だ一線を越えられていない。
でもあの人は付き合ってもないのにちゃんと巧と男女の関係になれたんだ。
よくわからない劣等感だった。ただ、私には無理であの人はできたんだ、という謎の気持ちが胸にいっぱい広がっていた。
「……あ、安西唯って、思い出した!」
樹くんがはっとしたように言う。
「安西グループの令嬢だ!」
「安西グループ……? って、あの?」
「そうだよ、うん。巧と見合いしてたはずだよ」
「お見合い……」
そうだ、出会った頃巧は言っていた。私と会う前に何人も見合いや食事を取ったこともあるって。その相手だったんだ……。
樹くんは頭を掻く。
「はあ……そんな相手か」
「むしろ、私より相応しい家柄の人なんじゃ……」
「馬鹿なこと言わない方がいい、杏奈ちゃんが一番に決まってる」
私は力の入らない足でなんとか地面を踏みつける。そして樹くんに向き直った。
「今日、私から巧には言うから……樹くんは何もいわないでね」
「でも……! どうするつもりなの、あの女なかなか引き下がらなそうだったよ?」
心配そうに私を見てくる彼に、形だけ口角を上げて見せた。
「本当に子供がいるなら……引き下がるのはどっちが相応しいか分かる」
「杏奈ちゃん!」
そもそも、私と巧は確かに結婚している。でもそれは元々は契約上のことで、その後から付き合いだしただけのこと。私たち二人の歴史はあまりに浅い。
険しい顔をしている樹くんにもう一度釘をさす。
「ちゃんと今日、巧と話すから。樹くんは待っててね。これは私たちの問題だから」
何かいいかけるも、彼は黙り込んだ。
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