第50話 衝突
翌日から再び仕事が開始した私たちは、またほとんど顔を合わせない日を送っていた。
巧は夜遅いし、帰ってきてもどこか私に距離を置いている気がした。
もう何度目かわからないスマホで検索をかけてみると、『男は実は繊細な生き物で強く誘いを拒絶されると立ち直りに時間がかかる』と読んだ。まじか、私はほんとにやらかしてしまったらしい。
それでもまさか自分からあの夜について話題に触れる勇気もなく、どうしていいのかわからないままだった。
「杏奈っちゃーん」
金曜の夜。仕事を終えて外に出ると、聞き覚えのある声がした。私はげっそりとした顔でそちらを見る。
やはり、またしても樹くんが私を待ち伏せていた。
彼は私の顔を見てキョトン、とする。
「あれ。金曜の夜だからかな? 顔疲れてるねー?」
「そうかな……」
旅館で私たちの部屋に突撃してきた樹くんを、あの時は呆れながらも笑って見ていられた。だが、その後あんな事態になってしまったので、私は今更ながら樹くんを少し恨んでいた。あの突撃がなければ、今巧とこんな気まずくなってなかっただろうに。
自分が悪いくせに、私は心の中でそう思っている。心の狭い女だ。
私が歩き出すと、やはり樹くんが横をついてくる。
「いやーこの前の旅行楽しかったね! できればあのあと一緒に観光も行きたかったのにー」
「樹くん起きてたでしょ、あれ」
「あはは、やっぱバレてるよね? いいじゃん、どうせ二人は家に帰ったら好きなだけ一緒にいれるんだしさ。あんなのちっちゃな嫌がらせでしょ?」
私は目を座らせて樹くんを見る。好きなだけやれてたら今こんなことになってない。あいにくだが巧とはプラトニックな関係ですなんか文句あるか。
私の様子に樹くんはキョトンとした。
「どうしたの、なんか機嫌悪い?」
「いや……ちょっとね。ごめん、自分が悪いんだけどさ」
私はふうと小さくため息をついて歩みを進める。樹くんはそれでもついてきた。
「ね、今度こそ二人でご飯行こうよー」
「今日は急いでるのごめんね」
「ええー。結局一度も杏奈ちゃんとご飯二人で食べれてないんだからさー」
「別に二人じゃなくてもみんなで食べたでしょ」
「みんなじゃなくてさー」
口を尖らせてる樹くんを置いてスタスタと足を進めていく。明日は休日だし、巧とちゃんと話せるかな。また料理でもしようか。ワンパターンだな自分。
そんなことを考えていると、ふと目の前に立つ人影に気がつく。
その人は私の行く道を塞ぐようにして立っていた。そして、じっとこちらを見ていたのだ。
綺麗に手入れの行き届いた黒髪のロングヘアだった。質の良さそうな生地のワンピースを身に纏っている。
日本美人、と呼ぶのにふさわしい女性だった。
彼女は微笑みながら私を見て立っていた。
「……?」
ゆっくり足をとめる。私の背後にいた樹くんもつられて止まった。
初めてみる顔だ、知り合いではないだろう。仕事上色々な人とも会うので、顔を覚えるのは得意なはず。
黒髪美人は私を見つめてにっこり笑った。とりあえず、訳もわからないまま頭を下げる。
「初めまして。高杉……いえ、藤ヶ谷杏奈さんでよろしいですか?」
高い声が響く。私はなんとなく背筋を伸ばして、持っているバッグを握り直した。どこか威圧感のある女性だ。
背後にいた樹くんが不思議そうに女性を見ながら私の隣に移動する。視線で知り合い? と尋ねられる。小さく首を振った。
初めまして。あの人は確かにそう言った。
女性は丁寧に頭を下げた。サラリと艶のある髪が落ちる。
「突然すみません。私、安西唯と申します」
「安西唯……?」
隣の樹くんが呟いた。私は聞き覚えのない名前なのだが、とりあえず丁寧に頭を下げ返した。
「藤ヶ谷杏奈です、私に何か?」
頭を上げると、安西さんが目を細めて微笑んでいるのが目に入った。その顔を見た途端、なぜかは分からないが一気に緊張感が高まった。
その笑顔は、どこか敵意と、見下した感情が感じられたのだ。
「単刀直入に申します。藤ヶ谷巧さんと離婚していただけませんか」
「は……」
ぽかんとして理解に苦しんでいると、安西さんがそっと手を出して自分の腹部を撫でた。ワンピースでわからなかったが、そのお腹は明らかにぽっこりと膨らんでいた。
どきっとする。
彼女は愛おしそうにお腹を撫でながら言った。
「私、巧さんの子供を妊娠しているので」
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