第48話 おたのしみ

 私は過去の恋愛なんてほとんどないんだから、巧は気にならないでしょう。私だけもやもやしてるの、狡い。


 しばし無言が流れたあと、巧が立ち上がった。そしてビールの缶をテーブルにおくと、そっと私の方まで回り込んでくる。


 彼は何も言わずに、私の隣にしゃがみ込んだ。何だか恥ずかしくて、私は巧の顔が見れない。


「杏奈」


 低くて心地よい声が響く。


「悪いけど今めちゃくちゃ喜んでる」


「そ、そうですか」


「自分がこんなめんどくさい男だったとは驚き」


「私もめんどくさい女ですが」


「こっち向いて」


 呼ばれた方に恐る恐る顔を上げてみれば、突然口を塞がれた。冷えたビールを飲んだあとだからか、巧の唇がひんやりと感じる。


 胸がぎゅうっと苦しくなった。鼓動がうるさくて敵わない。


 食べるように何度もキスを繰り返したあと、彼が一旦顔を離す。その時見えた巧の顔はどこか切羽詰まったような、余裕のない表情だった。


 見たことない表情に息が止まる。苦しくて死ぬかと思った。


「俺はそのつもりで今日来たんだけど。いい?」


 小声で彼がそう囁く。


 いくら頭が残念で経験値がない私も、ここで『何を?』だなんて主語を尋ねるようなことはしない。


 私は慌てふためきながら何とか答えた。


「…………そ、ういうこと、聞くかなあ……?」


「ははっ。確かに」


 巧は短く笑うと、私の手を無言で強く引いた。引かれるがままに立ち上がると、すぐそばで敷かれていた布団に座らせられる。高級旅館のふわふわしたいい布団を感じた。


 何かを言う暇もなく、巧がすぐ隣に座り込む。


 きっと今の私は顔が真っ赤だ。熟れたトマト並みに。緊張で震えてきた手を何とか鎮めようと試みるも何も言うことを聞いてくれない。


 目の前に座る巧がいつもとは違う人のように思えた。浴衣の襟から覗く鎖骨が綺麗だ。


「た、くみ、あの」


「何も言わなくていいから」


 そう優しく言った彼は、私をそっと抱きしめた。


 ああついに。


 大人の階段登る。二十七歳とっくに大人のくせに。


 広々とした巧の胸は非常に熱く感じた。アルコールを飲んだからか、それとも、巧もこの状況に少しでも緊張してくれていたら嬉しいと思った。


「杏奈」


 その声が、心地いい。


 巧の大きな手が私の首筋を撫でた。


 時だった。




 ピンポーン




 部屋にインターホンの音が響き渡る。


 私たちはピタリと停止した。


「……誰だろうこんな時間に」


 私が言うと、巧は気にしてない、とばかりに首を振った。


「どうせ酔っ払いが部屋間違えてんだろ」


 そう言って再び私にキスをしようとした時だ。


 ピンポーンと再度、場にそぐわぬ高い音が響く。


 私は慌てて彼にいった。


「旅館の人かもよ? 何かあったのかも」


「何かって」


「わかんないけど。それかお義母さんたちかも」


「こんな時間にこないだろ」


「出るだけ出た方がいいって」


 私がそう言うと、巧は非常に不機嫌そうに立ち上がった。旅館の部屋にはカメラ付きインターホンなんか設備されていない。私たちはそのまま玄関へと向かった。


 閉めてある鍵を開け、いざ巧がその扉を開けた。


「こんな時間にどちらさ」


「はーいこんばんは!!」


 目の前に立っていたのは、樹くんだった。


 キョトン、と二人で固まる。樹くんはニコニコしながら片手にビニール袋をぶら下げていた。不機嫌そうだった巧の顔がさらに険しくなる。


「なんだよ」


「せっかくだからさー兄弟水入らずで飲もうかと思って!」


 彼は持っているビニール袋を掲げた。なんとも無害そうな笑顔である。


 巧ははあーとため息をついて言った。


「お前が俺を飲みに誘うとかどんな魂胆あるんだよ」


「失礼だなあ、そういうんじゃないのに」


「いや、さっきだって飲んだだろ」


「親がいないとこで飲んで親睦深めなきゃ!」


 あれだけ巧を毛嫌いしていた樹くんの発言に目をチカチカさせた。突然どうしたんだろう? この機会に巧と仲直りしようとしてるなら賛成だけど……


 うーんどうも違うような??


「でもこんな夜遅くに来るなよ、飲むならまた今度時間設けて」


「旅行先で飲むのがいいんじゃーん!」


「樹、あのな」


「いいじゃん、巧と杏奈ちゃんは別に家帰ってからでもいつだって一緒なんだし。これから先もいっぱい旅行とか行けるだろうし? ここは可愛い弟に少しは付き合っても。巧が事故った時杏奈ちゃん呼んであげたの俺だよ?」


 ぐっと巧が押し黙る。借りだ、と確かに樹くんは言っていた。


 巧が私を見る。まさか追い返すわけにもいかず、苦笑して言った。


「まあ、ちょっと飲もうか?」


「イエーいおじゃましまーす」


 樹くんはすぐさま中へ入り込んで履いていたスリッパを脱ぎ捨てた。隣にいる巧は頭を抱えている。


「ほら、仲直りするならいい機会だよ」


「あいつが本当にそんな目的できたと思ってんのか」


「え、だって……」


 小声で話す私たちを振り返り、樹くんがにこやかに言う。


「さささー! 三人で飲もう飲もう!」





 ちょっと飲もうか、と私は言ったのだが。


 それから缶チューハイ一本を飲み干した樹くんは、


 全然顔色の変わらない様子で「酔っ払ったー」と大声で叫び、並べてある布団にダイブして寝入ってしまったのだ。





 ぐーぐーと眠っている樹くんを、巧は虫けらを見るかのような目で見下げた。


「こいつ……

 嫌がらせで来たな」


 腕を組んだまま厳しい顔で言い捨てる。


 眠ってしまった樹くんの顔を覗き込みながら私は振り返った。


「嫌がらせ?」


「樹が缶チューハイ一本で酔うわけないだろ。新婚夫婦の旅行に突撃してお楽しみを奪おうって魂胆だ」


「おた、お楽しみって!」


 つい顔をかっと赤くさせて慌てふためいた。けれど巧は厳しい表情を一つも変えず、布団に寝転がってる樹くんの肩を強く叩く。


「おい、お前起きてるだろ。部屋行け」


「ぐー」


「無理矢理連れてってやる」


 巧は樹くんを無理矢理起こそうとするも、樹くんは寝言らしきものを言いながらするりと避けて布団に戻った。巧はイラッとしたように片眉を上げる。


 何度か巧が必死に樹くんを移動させようと試みるも、彼は華麗に避けて布団へ戻る。あ、うん、これ起きてるね。絶対起きてるよ。


 なるほど、嫌がらせか。確かに樹くんが考えそうなことだとも思ってしまった。やけに巧を敵視してる彼のことだもんな。


 巧と樹くんが攻防を繰り返した挙句、樹くんが断固として動かない決意だけが残った。器用にも一応寝たフリはしている。


 巧は目を座らせながら、樹くんを足蹴りした。


「ちょ、ちょっと、蹴るのは可哀想だよ!」


 慌てて私が言うも、巧は樹くんを踏みつける足を下ろすことなく言う。


「これぐらいしないと俺の気はすまない」


「あらら……」


「はあ、やっぱりインターホンなんか出るんじゃなかった」


 そうため息をついた巧はちらりと私の顔を見た。その目と合ってついどきりと心臓が鳴る。さっきまでの空気感を思い出してしまった。


 やっといい雰囲気になれたところだったのにな、これじゃあ無理だ。


 巧は再び大きなため息をつくと、ヤケだと言わんばかりに樹くんが持ってきたビールをあおいだ。そして一気に飲み干すと、私にいう。


「杏奈は樹の部屋に行って寝ればいい」


「え、でも」


「俺たち二人が移動したらどうせこいつは目が覚めたーとか言ってまた乱入してくるだけだから」


「でも私一人なんて……」


「俺は樹に杏奈の寝顔を見せれるほど心が広くない」


 そう断言したのを聞いてつい恥ずかしさで目線を下す。ちょっと嬉しい気がする自分はちょっと重症かもしれない。


「……じゃあ、そうする」


「鍵ちゃんとかけて寝ろよ。おやすみ」


 テーブルの上に置きっぱなしにしている樹くんの部屋の鍵を手にとり、簡単に荷物だけ手にした。ちらりと巧を見ると、新しいビールを開けてまたあおっている。


 その横顔が拗ねたような、不機嫌なような顔立ちで、なぜか私はちょっとだけ嬉しかった。

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