第44話 客室露天風呂は永遠の憧れ
『別に何もいらないんじゃない、一番大事なのは気持ちの問題でしょ』
「気持ちとは……? さすがに私もいい大人だしその階段ぐらい登るつもりはある」
『成長したねえ杏奈! じゃあ大丈夫よ、ヨレヨレの下着だけ避けときゃいいって!』
「ほんとにい……? もうわかんないよ、吐きそう」
『いい悩みだね杏奈! 初々しいわ〜私までワクワクしちゃう! 楽しんできてね温泉!』
完全に面白がってる麻里ちゃんをちょっとだけ恨みながら電話を切った。相談したのが間違いだっただろうか、私っていつも麻里ちゃんに赤裸々すぎだよね。
はあとため息をついたところで、突然部屋にノックの音が響いて体が飛び跳ねた。巧が私の部屋を訪れるのは非常に珍しい。
「は、はい!?」
「杏奈、行けるか?」
「あ、う、うん大丈夫!」
扉の向こうからそれだけ声をかけてきた巧は、そのまま玄関へと向かっていったらしかった。私は荷物の最終確認を行うと、しっかりオーウェンに挨拶をしてから自室を出る。
ちらりと玄関をみると、もう靴も履き終えた巧が立っていた。そして私の持つ鞄を見る。
「忘れもんないか?」
「あ、多分大丈夫」
「ま、忘れたら買えばいいからな。行こう」
私も靴を履いて玄関の扉から出た。巧と並んで駐車場を目指して歩いていると、困ったように彼が言う。
「悪かったな」
「え?」
「うちの親、強引で。こんなことになるとは」
「いやそんな、温泉は楽しみだよ! 別にお義母さんたちとはほとんど別行動だっていうからそんなに色々バレるか心配しなくてよさそうだし。最悪巧が一緒だから誤魔化せそう。この前巧がいない時はいつボロが出るか心配だったから……」
「まあな、今回は一緒だからなんか聞かれたら俺に合わせておけばいい」
エレベーターに乗り込み、駐車場まで降りて行く。なんとなく隣の巧を見上げた。彼は腕時計を眺めている。
変に一人緊張感が増してしまった私は自分を落ち着かせるためにゆっくり深呼吸をした。大丈夫だから、落ち着いて行こう。
エレベーターの扉が開き、ふんっと鼻から息を吐いた。
温泉旅行、きっと楽しいものになるはず!!!
藤ヶ谷家が泊まるということでやはりいい旅館だろうなと想像していたが、到着してみると開いた口が塞がらないレベルだった。
部屋は広々とした和室に客室露天風呂付き。景色最高、アメニティ豪華。こんなところに泊まれるだけで感謝しなくてはいけないと思った。
(……いやいや、てかお風呂付きって!!)
初めて泊まる! 私はワクワクしてそれを覗き込んだ。大浴場とはまた違った楽しみが出てくる。風情のある檜の露天風呂は雰囲気が最高だ。
「見て見て巧! お風呂ついてるーーー!」
子供のように大声で巧を呼びつけた。彼はノロノロとこちらに足を運び、さして驚く素振りもなくお風呂を見る。
「別に珍しいもんでもないだろ」
「珍しいでしょ、これがついてるとお値段一気に上がるんだから! 少なくとも私は初めて!」
「そうなのか、子供の頃から風呂がついてない部屋になんか泊まったことなかった」
「金持ちの感覚怖すぎ」
呆れてそう突っ込みながらも、私はすぐに顔を綻ばせる。
「いいお部屋だなーこれなら夜中でもお風呂入れるね!」
ニコニコしながらそう話して巧を見上げた時だった。バチっと目が合った彼は、少し間があった後気まずそうに視線を逸らして、なんともわざとらしい咳払いをした。
…………あっ、決してやましい意味ではないのだが!!
自分が考えなしに出してしまった発言に自分で赤面する。いや、普通の発言だよ、でも状況が状況だからなんか変な感じに聞こえるって!
「ほ、ほら、温泉来たらお風呂たくさん入らなきゃ損みたいな感じあるじゃない!? 大浴場は閉まっちゃうから……!」
「まあ、そうだな」
私の言い訳も聞いてるのかいないのか、巧は短くそれだけ返事をしてくるりと背を向けてしまった。それを追いかける気にもなれず、私はそのまま意味もなく露天風呂を見つめた。
「はあ〜…………」
いつもとどこか違う。同じ部屋にいるだけなのに、私も巧もどこかよそよそしい空気なのを流石に感じている。
一応夫婦なんだけどなあ。温泉にきただけでこんなにガチガチに緊張してる夫婦なんかいないよね。
お風呂の戸を閉めて部屋に戻ろうとした時、鏡に自分の顔が映り込んだ。そこにはやっぱり、頬を引き攣らせて困り果てている自分の顔がある。
こんなんじゃだめだ。リラックスしないと。夕飯は義両親たちと一緒に食べることになってるし、ちゃんと妻を演じなきゃ。
私は鏡に向かって笑顔を向けて練習する。大丈夫、ビジネススマイルは得意のはずでしょう!
背筋を伸ばして平然とした顔で部屋に戻る。巧はすでに座り込んで机の上にあるお茶菓子を漁っていた。
「夕飯はお義父さんたちの部屋で食べるんだよね」
「ああ、十八時から」
「じゃあ私早速大浴場行ってこようかなあ。温泉楽しみ、美肌の湯!」
「女は風呂好きだよな、俺は他のジジイと風呂に入るなんて趣味じゃないから苦手だ」
「言い方!」
笑いながら置いてあったバッグを引き寄せて中身を漁る。ええと、着替えの下着を……
奥底にしまってあった小さな袋を見つけた。持ち運びのために下着を袋にしまっておいたのだ。
それを取り出した時、ふと、そういえば巧と暮らし始めた最初の頃は干してある下着を見られたけど笑ってどうでもいいと思っていたことを思い出す。巧だけが困ったような顔をしていた。
でもなぜか今はそれができない。彼の前で堂々と下着を運ぶ勇気はなかった。これは自分が成長した証拠なのかなあ、なんて。
「杏奈、俺も少ししたら行くけど多分こっちのが早いから鍵俺が持っておくな」
「え、あ、うんよろしく!!」
「のぼせるなよ」
巧はそういいながらお茶菓子を頬張った。そのリラックスしてる姿がなんだかおかしくて、私は笑いながら部屋を出た。
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