第43話 決定された

 お義母さんが前のめりになって言った。


「今ね、杏奈さんと新婚旅行の話してたのよ〜まだもう少し先になっちゃうと思うけどね。予約は早くしたほうがいいわよって」


「ああ……まあ、式もまだしばらく先になるし、ゆっくり考えつつな」


 巧はサラリと交わす。あっさりとした返答にどこか不満げなお義母さんが、あっと思い出したように言った。


「ねえ! 今度この人と温泉に行こうと思ってるの、よかったら巧たちも来なさいな! たまには杏奈ちゃんゆっくりさせてあげなさい!」


 ギョッとしてお義母さんを二度見した。気づいていないのかそれでも続ける。


「ちょっと息抜きに、プチ新婚旅行! どう?」


「いや、仕事休めないし」


「温泉なら一泊二日でもいいじゃない、土日でいけるわよ。ねえ杏奈さん?」


 振られてしまった。ぐっと言葉に困る。きっと普通の夫婦なら、喜んで妻は温泉に賛成するだろう。断る理由なんかない。でもここで賛成するわけには……!


 巧が困ったように言う。


「義実家と一緒の旅行じゃ杏奈も休めないだろ」


「やあねえ、一緒にって言ったけど、もちろん別行動よ。私たちそんな野暮なことしないわ。あ、子供は結婚式までは我慢しなさいね」


「ぶっ!!」


 烏龍茶を口から噴き出してしまったのは私だった。いやそうだ、温泉なんか一緒に行ったら巧と同じ部屋になる! それはつまり、


 そういうことでは……!?


「母さん、そういう話は別に口に出さなくていいから」


 樹くんが呆れたように言った。私は慌てておしぼりでテーブルを拭く。胸がドキドキしてしまってどうしようもない。


 つい先日付き合い出してようやく軽いキスを済ませただけの女にはレベルが高い話だ。


「あらごめんなさいね。ねーいいじゃない? いい旅館予約取ってあげるわ、リフレッシュにもなるわよ杏奈さん!」


「あ、ええっと、そ、そうですね……」


「あなたたちいつなら空いてる? すぐに予約取るわよ! ゆっくり温泉浸かって美味しいご飯食べるだけで気分は変わるわよ〜」


 完全にお義母さんのペースになっている流れを、私も巧も変えるだけの力がなかった。むしろ、普通の夫婦なら喜んで食いつかねばならない事案なのだ。

 

 するとずっと黙っていた隣の樹くんが言った。


「俺も行っていい?」


「……え!?」


「まあまあ! 家族全員で旅行なんていつぶりかしら!? 杏奈さんが来てからほんと仲良くなって嬉しいわ。樹も来なさい、あんたにはあんた用で部屋一部屋取ってあげるわ、昼食くらいみんなでどっかで食べて、夜はそれぞれって感じでいいかしら、いいわね!」


 決定した。口を挟む間もなく。


 顔を引きつらせている私と、頭を抱えている巧はもう言葉を発する気力すらなかった。


 こうして私たちの温泉旅行は急遽決定してしまった。








「麻里ちゃん、私は何を準備したらよいだろう」


 私は旅行バッグの前に正座をして、背筋をピンと伸ばしたまま無表情で尋ねた。


 電話口の麻里ちゃんはキョトンとした様子で答えてくる。


『え、着替えの下着とかースキンケア用品とか、メイク道具もいるしー』


「そうじゃない。麻里ちゃん、そうじゃない」


『あー夜に向けてってこと? あれ、むしろまだ済ませてなかった?』


「オフコース、済ませてたら温泉行くのにこんなに緊張してない!!」


 私はつい焦って声を荒げた。すぐにはっと冷静になり咳払いをする。落ち着け、落ち着くんだ。


 あれからお義母さんの仕事は早く、食事をした三週間後に温泉旅行の日が来てしまった。これから巧の車で隣県の温泉旅館まで向かうことになっている。


 旅行カバンに着替え等しっかり準備を行った後、私は耐えきれない緊張と混乱で麻里ちゃんに電話を掛けていた。


 部屋割りは巧と私二人の部屋となる。それが普通だ。今までだって一つ屋根の下に過ごしてきたわけだが、お互いの部屋はあったし寝る時だって無論別々だった。


 同じ部屋で男性と並んで寝るだなんて、お父さんしか経験していない。あとはオーウェンの抱き枕をカウントしていいだろうか。


『え、だって。仲直りしてキスできたって報告してきたの三週間も前じゃん。その後何してたのよいい年の男女が同じ家に住んでて』


 信じられない、というように麻里ちゃんがいう。私は正座を崩して膝を抱えた。口を尖らせていう。


「え、ええと……週末は出かけたりしたよ。買い物したり、ケーキ食べに行ったり……」


『ようやくカップルらしいね』


「でもそれだけで、別に何も……家でもご飯食べたりテレビ見たりしてるだけで……」


 ゴニョゴニョと小声でいう私に、麻里ちゃんがため息をついたのが電話口から聞こえた。


『それだけ? それだけなの?』


「それだけですよ。むしろキキ、キスすらあれ以降してない」


『キスでどもるな』


「なのに急に温泉とか言われて私はパニックの最上級なわけですよ!! やっぱりすんごい下着とか持ってった方がいいの、どうしよう買ってないよ!」


『とにかく落ち着いたらどうかな』


 私は携帯を耳に当てたまま床に倒れ込んだ。そう、チキン南蛮味のキスだけしたまま、それ以降結局何もしてないいい大人の私たち。


 だってしょうがない、私から動くわけにもいかないし。でも確かにまあ、一般的に考えてかなりスローなペースであることは流石に理解していた。


 付き合うとなって一ヶ月。一つ屋根の下にいながら、たった一度のキスのみとは。


 だがしかしさすがに同室で過ごすとなれば状況は変わるだろう。てゆうかむしろその状況で何もなかったら私たちはきっと永遠に何もない。


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