第40話 チキン南蛮の味
「……杏奈?」
「……ごめん」
「え、いや、俺も連絡しなくてごめん、杏奈が飯作ってるとは思わなくて」
「ごめん、巧……なんか私色々ちゃんと出来なくて、怒らせてごめん……」
「は? 怒る?」
またしてもじんわりと出てきた涙を見て、巧がぎょっとしたように仰反る。彼は焦ったように言った。
「ど、どうした」
「昨日から……なんか全然上手く出来ないから、巧も呆れたかなって」
「何が?」
「せ、せっかく初めて出かけたのにすぐ帰りたいみたいなこと言っちゃって……わた、私ほとんど男の人と出かけたことなんかないから緊張して全然わかんなくて。気の利いたことも言えないし……」
「……え」
「ごめん、私本当に恋愛ってよくわかんないんだよ。スマホでデートの仕方を調べるくらい偏差値が低いんだよ」
鼻声で震えた私の声が部屋に響いた。巧は返事をすることもなく無言で私を見ている。
ついにこんなタイミングで言ってしまった。全てが計画外だ、巧の分の料理もほぼ完食して半泣きでこんな暴露をするだなんて。
しばらくそのまま棒立ちになっていた巧は、次の瞬間踵を返してリビングから足早に出ていった。突然の行動に、私は涙も止めてキョトンとする。
ドタドタと足音を立てながら巧が戻ってきたかと思うと、手には何やら本を持っていた。巧はテーブルの上にそれらを乱暴に置いた。
並んだ本達を見て目が点になる。
『おすすめデートスポット』『レストラン特集』『ケーキ特集』…………?
巧が持っているとは思えないラインナップ。
私はぽかんと目の前の巧を見上げる。そのとき、巧の顔を見てはっとした。
巧はどこか赤い顔をして私から視線を逸らしたまま言った。
「そんなの俺もだよ」
「……へ」
「思えば昨日、杏奈にばっかり意見聞いて、つまらなかったんだろうなって。反省して、買ってきた」
「……え!?」
「今日はそこの雑誌に書いてあった場所見てきて、帰りにケーキ屋行って買ってきた。昨日買い物も俺の好み押し付けたし、なんか、自分よがりだったから杏奈が呆れてるのかと思って」
予想外の言葉に開いた口が塞がらない。
私はなかなか頭がついていかなくて、意味もなく目の前の雑誌たちと巧を交互にみくらべた。巧が、これ買って、下見に行ってたってこと……?
あのいつだって自信家の巧が? すました顔してる巧がそんなことしてたの?
「で、でも巧は今までもたくさんデートしてきたんじゃないの……」
「どうでもいい相手だったから何も考えてなかったし、適当に過ごしてただけ。今思えばデートっぽいことなんかしてない」
「そう、なの?」
「だから俺もよく分からないんだ。杏奈をどこに連れて行けばいいのかとか、全然分からなくて……」
そこまで言うと、巧は手で口元を押さえた。泳ぐ視線が彼の戸惑いを表している。
まさか、巧も私と同じこと考えてた? 呆れてたわけじゃないの?
少し間があった後、巧は私の隣の椅子に座り込んだ。そしてこちらの顔を覗き込む。
「……俺も本当の恋愛に関してはど素人だ」
そんな台詞を頂いた私は、彼の赤面が移った。一気に顔が熱くなって心臓が躍りだす。
涙は引いてただうるさい心臓に体が支配される。
「……もうちょっと話そうか、俺たち」
「そ、だね……」
「なんか、俺ら始まりが普通じゃないから、戸惑うことも多くて。もっと会話がないといけないな」
「同意します」
そこまで言うと、巧は少しだけ口角を上げてふっと微笑んだ。そして目の前に並べてあった箸を手に取る。
「まずはその余ってるチキン南蛮二切れをよこせ、俺のものだ」
「え。こんな食べかけ食べるつもり!?」
「だって俺のだろ。てゆうか二人前もチキン南蛮食べるな、太るぞ」
「残したらもったいないと思って」
「連絡しなかった俺も悪い。色々考えてたら携帯の充電切らしてることにも気がつかなくて」
綺麗な箸遣いで、巧は食べかけのそれらを頬張った。とっくに冷えてるし、美味しいわけがないのに。
それでも彼は白い歯を出して笑いながら言った。
「めちゃくちゃ美味い」
子供みたいに笑うその顔があんまりにも反則だった。
私の脳内にポンと選択肢が浮かぶ。
▷(無言で抱きつく)
▷(無言で抱きつく)
▷(無言で抱きつく)
選択肢に任せて私は彼の首に自分の腕を巻きつけた。箸を持ったまま体を固める巧の様子が伝わる。恋愛偏差値ゼロの自分が、自分から相手に抱きつくなんてできたことに自分自身驚いた。
「……杏奈」
「ごめん、本当はた、楽しかったから。靴も嬉しかったし、映画もよかったし、ご飯だって美味しかった。巧と出かけたの、楽しかったから」
かろうじて早口でそれだけ言うと、ゆっくりと腕を解いた。巧の顔を見上げるのがなんだか恥ずかしくて、私は俯いたまま離れようとする。
それを、腕を掴まれて止められた。
「あのさ、あんまり煽らないでくれる?」
低い声でそう言ったのが聞こえて反射的に顔を上げる。一瞬見えた巧の顔は、少し口角を上げて優しく笑っている顔だった。
その瞬間、また彼の顔が見えなくなる。同時に柔らかな感触が唇に伝わった。
以前の無茶苦茶な状況のキスと比べて全く違う、優しさでいっぱいになるようなキスだった。
本当の初めてのキスはあの事故みたいなキスだけど、それはもう忘れてこれをファーストキスにカウントしよう、と心で思った。それくらい幸福感に満ちた時間で心臓の音がうるさいほどに響き渡っている。
少し経って巧が離れた後、彼はすぐにぷっと吹き出して笑った。
「チキン南蛮の味」
「……ちょっと、ムードないな!」
「いつものことだろ。杏奈にムードなんて一番遠いもんだろうが」
「それでもチキン南蛮の味はないよ! もっと他のもの作ればよかった」
「そういう問題かよ」
巧はそうまた笑った後、残っていたチキン南蛮を頬張った。それはそれは美味しそうに食べるもんだから、今度もっとちゃんと作ってやろうと心に誓った。
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