第35話 オタク、いい靴を買う




 義父の高級車に緊張しながら車で移動し、映画館へと向かう。


 思えば巧と街並みなど歩いたことはなかった。偽装夫婦だったので当然と言える。


 駐車場に停めてとりあえず私たちはぶらりと繁華街を歩き出した。同時に、一人で歩く時よりやたら注目を浴びていることに気づく。


 原因は巧だった。女からの羨望の眼差しが痛い。まあ外見はなかなかイケてる男だと思うが、まさかこんなにチラチラと女が見てくるとは。


 以前の私だったら、『はいはいこの男の中身を知らずに騙されて』って冷めた目で見ていただろうが、今はただくすぐったい気持ちになっていた。


 彼氏……いや、夫? どう呼べばいいのかいまいち安定しないが、特別な人になったのには間違いなかった。そんな人の隣に歩いている。


 違和感。変。ムズムズする。


 こういう時ゲームとか漫画ではどうだったっけ、いやだから付き合う前のデートシーンばっかりなんだよなあ。でもあれか、漫画で言えば不良に絡まれるとか、突然巧の元カノと遭遇したり、急に大雨が降ってきて手を繋ぎながらびしょ濡れになってホテルで待……


 …………


「どうした、顔が青いぞ杏奈」


「ちょっとね、朝から自分の経験値の低さに辟易しててね……脳内お花畑って感じで」


 自分で考えてゲンナリしてしまった。現実と二次元の境が混乱してるぞ、そんな展開三次元で起きるわけがないだろ。雨降ったら車があるわ。コンビニで傘買うわ。


 そんな私を不思議そうに隣から巧が見ていた。なんでもない、と答えてしゃんと背筋を伸ばす。


「上映何時からだっけ」


「11時半。それまでどっか行きたいとこあるか」


「え、ええ……ううん、か、買い物とか……?」


「オーケー。ようやく俺のカードの出番がやってきたな」


 巧はそう満足げにいうと、突然すぐそばにあったブランド店に方向転換して入っていった。ぎょっとして目を丸くする。あまり私自身はブランド物なんてそこまで身につけるタイプの人間ではないのだ。それを、誰しも知ってる高級店に!


「巧、私そんな店は特に!」


 慌てて追いかけて彼の背中にそう言って見せるが、聞こえているのか無視されたのか。巧はするりとガラスの扉をくぐり抜けてしまった。


 そうなれば私もついていくしかできず、とりあえず足を踏み入れる。やはり、あまり居心地のいい店とは言えなかった。基本二次元にお金を使うのが優先だったので、ブランド物はあまり持っていない。


 中は人もまばらだ。上品に飾られた靴や鞄が並ぶ。つい体に力が入ってしまった。私は小声でいう。


「巧、私こういうとこよりさ、もっと……」


「靴とかどうだ。この列全部買っちまえ」


 彼は適当にそう言った。卒倒しそうになるのを懸命に堪える。列全部て!


 そういえばマンションも1日で購入してきたりしたし、巧は買い物に時間をかけないタイプらしかった。


 そりゃ藤ヶ谷グループの時期社長さんになるわけだけど! なるわけだけどさ!


 私は慌てて彼の袖を引っ張って非難する。


「列全部って! 私ムカデじゃないんだから!」


「ムカデどきたか。さすがだな、返しがいい」


「どこに感心してるのよ!」


「好みじゃないか?」


 不思議そうに私に言ってくるやつは本気でなぜ私が焦っているのかわかっていないらしかった。生粋の金持ちはこれだから困る。今まではルームシェア状態だからあまり実感がなかったが、今更彼とはだいぶ感覚がずれているのだと気がついた。


「いや、そうじゃなくてね? 私こんな高級な靴買っても勿体無くて使えないよ、こんな値段を踏むことなんてできない」


「結構貧乏性なのか」


「ねえ、もっとこうリーズナブルな店の方が私自身はのびのびできるというかさあ……」


 私が言うのを彼は黙って聞いていたが、店を出ることなく再び靴が並ぶ棚に注目した。そしてその中の一つを手に取ると私に差し出す。


「じゃあ列は買わなくていいから。せめて一足くらいは買え。これはどうだ、似合うと思うけど」


「え、いやだから買っても勿体無くてさあ……」


「俺の妻が安物の靴ばかりなんて困るんだよ。経済DVでもしてるのかと思われるだろ」


 巧の言葉を聞いてすうっと目を細めた。出たよ、この男の世間の目を気にするところ。やっぱり性格に難があるな、私何で好きだなんて思ったんだっけ?


 いやしかし、最もだった。巧はしっかりブランド物を身につけているのに、私だけ庶民じゃ浮いてしまうか。


 丁度めざとく接客をしにきた店員に巧がなれた様子でサイズを尋ねる。私に合うものを用意して貰うと、すぐそばにあるソファに腰掛けて試しに履いてみた。


 ひいい、こんな高いものを踏みつけて歩くのか私は。恐ろしい経験だ。


 ただそれでも、履いてみた瞬間安物とは圧倒的に違うデザインとオーラに女として少しうっとりした。履き心地もよい。足先がしゃんとするだけで、こんなにも気分が変わるのか。


 巧は立ったまま私を見下ろし、満足げに笑った。


「似合ってる」


「……あ、どう、も」


「それでいい?」


「は、はい」


「決まり。これを」


 近くの定員が頭を下げて笑顔でお似合いですよ、などと述べてくれる。なんだかむず痒くて、ただ必死に会釈した。こういった店でも動じないように訓練が必要だなこれは。


「意外だな。杏奈がこういう店に慣れてないとは。でもまあ確かに身につける物にブランドものあまりなかったな」


「鞄くらいちょっといいの持ってるけど……別に今まで必要な場面もなかったし」


「これからは必要だろ。俺と出かけるのに」


 自分の靴に履き替えながらふ、と笑ってしまう。確かにこれだけ一緒に暮らしておきながら初めてのお出かけだもんな。でもこれから先も続くのか。


 立ち上がろうとした瞬間、自然な動作で巧が手を差し出した。ぎょっとして見上げる。


「? どうした」


 キョトンとして彼が言う。

 

 目の前に差し出された大きな手を見つめて少し戸惑った。


 そういえばオーウェンもこういうシーンがあった、あれは靴の試着じゃなくてヒロインが転んじゃったのを手を差し伸べて助け、そのまま自然と手を繋ぎながらデートをするっていう鉄板の流れ……


 ってそんなことを考えている場合じゃない。


 私はなるべく平然を装ってそれに自分の手を重ねた。思えば抱きしめられたことだってキスされたことだってあるのに、手を握るのは初めてだった。


 自分よりだいぶ大きいその手は思ったより熱かった。やたら緊張してしまったのを隠すように視線を下げる。


 そういえば巧は知ってるだろうか。私がこんないい年にもなって男の人と手を繋ぐのが現実世界では初めであることを。あの事故みたいなキスが、ファーストキスだってこと。恋愛に興味がなかったとは言ったが、そんなやばい女とはさすがに知らないのでは。


 手を繋いで街を歩くだなんて、そんなの妄想の中でしかしないかと思っていたのに。


「お会計をよろしいですか」


 私が立ち上がった直後、店員が声をかけてきた。同時に巧が返事をして私の手を離す。その手は黒いクレジットカードを取り出すのに使われてしまった。


 なんだか気まずくなって興味もないのに他の商品を見るフリをして背を向けた。離れてしまった手が名残惜しかっただなんて、口が裂けても言えないと思った。一瞬くっついだだけの掌がやたら熱を持ったように感じた。


 恋愛ど素人はこれだからいけない。


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