第31話 過去の話
広々とした部屋には大きな窓に広いクローゼット。だがその広さを無駄にしていると思うほど彼の部屋は物が少なくて閑静だった。仕事用デスクにベッド、難しそうな本が並んだ本棚のみ。テレビだのクッションだの夢の世界だのと溢れている私の部屋とはまるで違った。
そんな部屋に、完全に浮いているものが一つあった。未だ一度も着ているところを見たことがないおにぎりTシャツが一枚掛けてあったのだ。なんでこれだけクローゼットから出してるんだ、一気におしゃれな部屋がアホっぽく見えるじゃないか。
「物ないんだね巧の部屋」
「普通だろ」
「で、この部屋が何?」
私がキョトンとして尋ねると、彼は気まずそうにある場所を指さした。それは彼の仕事用デスクだった。
首を傾げながら部屋に足を踏み入れてデスクに近づいていく。一台のノートパソコンが置かれているだけの片付いたデスクだ。
至って普通のデスクだけれど、何が……
「ん?」
近づいてよく見てみると、シンプルなデスクの上に水玉模様が目に入った。それはクリアファイルに入れられて、パソコンの隣に置かれていた。白い背景にピンク色の水玉模様。どこか懐かしさを感じる可愛らしいデザイン。
私は何気なくそれを覗き込んだ。水玉模様の紙はぐしゃぐしゃになった跡が見られる。それを丁寧に伸ばしてファイルに仕舞われている。
ほとんど消えかかっている鉛筆の文字が少しだけ見えた。
『たっくん ひっこし も、元気で てね』……
「 !! 」
はっと息を呑んで両手で口を覆った。全身に鋭い電流が走ったかのような感覚に陥り、そこから一歩も動けなくなった。
待って。
待ってほしい。
この手紙、もしかして……
頭がぐるぐると混乱する。眠っていた記憶を必死に起こそうと考える。
私は知っている、この拙い字を。
でもどうして? どうして……
私はゆっくり振り返って巧をみた。彼は気まずそうに両手をポケットに入れたまま床を見つめている。
「ねえ、これ……」
「覚えてるか」
「覚えてるかって……」
それは私の幼き頃の思い出。少し苦くて悲しい思い出。
小学生の頃引っ越しをすることが決まり、同じ塾に通う好きな男の子に手紙を書いた。ラブレターと呼ぶほどのものでもなかった、それでも子供ながらに緊張して鉛筆を握ったことは覚えている。
帰り道それを渡した。だがどうしても二人きりになれるタイミングはなかったので、周りに友達がいる中でのことになってしまった。
『なんだよこれいらないし』
彼はそう言って、私の手紙をくしゃくしゃにして道端に捨てた。今考えると、異性から手紙を貰うなんて場面を友達に見られたことが恥ずかしかったに違いない。
でもやはり当時の私はあまりにショックで泣きながら家に帰った。直後近所に住んでいた麻里ちゃんに『これでも見て元気出して!』と見せられた二次元にどハマり。立派なオタクが仕上がったのだ。つまり三次元に興味なくなったきっかけだ。
目の前にある水玉の便箋は紛れもなくその時のものだ。さすがに間違えるわけがない。
私は頭を抱えて記憶を呼び起こす。
相手の子って、なんて名前だった? あの思い出が辛すぎたせいで脳が防御反応を起こしたのだろうか。単に時間の経過のせいだろうか。相手の男の子の名前はちっとも覚えていなかった。
ちらりと再び水玉を見る。『たっくん ひっこし』……
たっくん。そうだ、
相手の子は確かにたっくんって呼んでいた。
「覚えてないかと思ってた。俺の名前聞いても全然気づく気配なかったし」
小声で言ったのを聞いて彼の顔を見上げる。困ったような顔で巧は笑っていた。
「え、ま、待って……その、出来事は覚えてるよ。でもその、相手の子の名前はすっかり忘れちゃってて」
「まあ二十年近く前だしな」
「あ、あの時の……子なの? 巧が??」
彼は静かに頷いた。あまりの驚きに言葉を失くす。
「巧は、気づいていてたの私だって……!」
「俺は記憶力いいからな」
「すみませんね馬鹿で」
つい反射的に言い返してしまったが、すぐに口をつぐむ。そうなの、そうだったのか……あの時の相手が巧だったなんて。
もう当時の顔なんて全然思い出せない。でも確かに大好きな憧れの男の子だった。
巧がゆっくり歩み寄り、クリアファイルを手に取ってそれをじっと見つめた。
「俺は名前聞いてすぐ分かった。顔みて再確認。あああの時の子だって」
「い、言ってよ……てゆうか、そんなものよくこんな長く持ってたね、あの後持って帰ってたことにもびっくりだけど……」
「捨てられるわけない。俺はあの時、嬉しかったんだ。でも周りの男友達がニヤニヤみてて、恥ずかしくなってつい捨てた」
懐かしむように巧が目を細める。その横顔をみて、何だか一気に懐かしく感じてしまう私は単純にも程がある。彼の子供の頃の姿を思い出せそうだと思った。
「捨てた瞬間泣いた杏奈をみて後悔したんだけど。その後引っ越しちゃったし、謝ることもできず」
「そう、だったんだ……」
答えた後、私はふっと笑いをこぼした。巧が私を見る。
あの頃の場面が蘇った。悲しくて辛くて三次元に興味なくなるくらい二次元にハマったきっかけでもある。
幼心に傷ついた。でもそれはもうずっと昔のこと。
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