第30話 答えは部屋に
少し久しぶりにあのマンションに足を踏み入れた。
ホテルに置きっぱなしの荷物をまた取りにいかなきゃなあ、と考えながらリビングに入る。相変わらず広くて綺麗なリビングだった。
無言で冷蔵庫に直行し飲み物を取り出しながら気まずさに困り果てる。巧が一体どう切り出してくるだろうと気になって仕方がない。
とりあえずこの部屋着を着替えてきた方がいいだろうか、と心の中で考えながら一杯水だけ飲むと、未だソファに座ることすらせずにぼんやり考え込んでいる巧の背後に近づいた。
「あの巧、私着替」
「まず最初にいいか」
私の言葉は切られた。乱暴な話の切り出し方に目をチカチカさせながら、私は巧のどこかピリピリした空気に頷く他なかった。
巧は鋭い目つきで私を見つめている。
「樹から聞いた。俺が女とホテルに入ってくところを見たって」
「え、あ、ああ……そうだね、偶然なんだけど。綺麗な人だったねシングルマザーの人」
無理矢理顔に笑顔を浮かべて答えた。脳裏にあの日の光景が蘇る。高級ホテルの前に歩く二人は大変に絵になっていた。隣の女性は本当に綺麗な人で妖艶で……
「馬鹿か」
巧のそんな声が聞こえて、持ち上げていた口角が固まる。なんだか懐かしい人を小馬鹿にしたその言い方。
巧は呆れたように私を見ていた。
「え、今なんと?」
「馬鹿かって言ったんだよ。俺がそんな堂々と不倫するか、やるとしたらもっと場所とタイミング考えるわ」
その言い方にイラッとしたけれど、すぐにそれは消え去った。怒りより、確かにそれもそうだという納得の感情が大きかったからだ。
巧はいつも計算高くてキッチリしている。考えても見ればあんな有名ホテルに堂々と女の人入って行ったら注目されるよなあ。巧がそんなやり方するとは到底思えない。
「え、じゃああの人は……」
「最近力入れてるプロジェクトになくてはならない相手の会社の奥さんだよ。普段はアメリカ暮らし。仕事の話が長引いてしまいそうだったから奥さんは俺がホテルまでエスコートしてたってわけ。ホテルマンにでも聞いてみろ、俺はエレベーター前までスマートに送ってサヨナラしてる」
「あえてスマートって自分でいうかな」
「事実だから」
普段のテンションで彼はそう言い放った。ああ、いつもの巧だ。これでこそ巧だよ。憎たらしい。
でも彼のいうことは最もだった。普通に考えて、巧がそんなばかなことをするはずがない。きっと完璧に手回ししておくはず。
私は小さく頷きながら納得した。
「確かに言われてみればそうだ……じゃああの人はなんの関係もない人なんだ?」
「樹に電話で怒鳴られた時は何かとおもったよ。あいつも俺の性格知ってるのにアホだな」
「ふうん、まあそれは分かったよ。何、私に言いたかったことってそれ? 相手について教えてくれるんじゃないの?」
あの女の人じゃなかった。それは冷静になってみればすぐに納得した。じゃあ、本当の愛人さんは? まさかここまできてなんの情報もくれないってことはないよね。
私は巧の目を見てしっかり見つめた。そんな視線から逃げるように目を逸らしたのはあいつだ。
「いや……」
「別に、どこに住んでるかとか知りたいわけじゃないよ? どんな人なのかぐらい分かっておきたいってだけで、関わったりしようとしないし」
「それは分かってるんだ」
どこか歯切れの悪い言い方で口籠ると、巧は再び考えるように黙り込んだ。私は何も言わず隣でそれを見守る。なかなかの長い時間、そうして沈黙を流した。それを破ったのは巧だ。
意を決したように顔を上げて私の方を見た。
「杏奈」
「なに」
「俺今から結構引く話すると思うけどいいか」
「別に普段から巧には引いてるから大丈夫だよ」
私が言い返すと、こんな時だというのに巧はぶはっと吹き出して笑った。笑顔を見たのは久しぶりなきがして、つい私の頬も緩んでしまう。
どこか子供みたいなくしゃっとした顔で笑った巧は、少しだけ緊張がほぐれたような顔で足を踏み出した。
「俺の部屋、いけばわかる」
その言葉を聞いて目が点になる。
「……へっ!」
「こっち」
お互いの部屋は出入り禁止。契約した時に書いてあった条件。私にとってもかなり嬉しい条件だったから今でも鮮明に覚えている。
その巧の部屋に……?
オロオロと慌てる私をよそに、彼はリビングの扉を開けて廊下へ出た。私は慌ててその後を追いかけた。
廊下を出てすぐにある巧の部屋の前に二人でたつ。私がチラリと顔を見上げると、彼はもう腹を括ったような顔をしていた。
「開けて」
「え、私?」
「開けて」
言われた通りおずおずとドアノブに手をかけて開く。私の部屋と同じ間取りの部屋が見えた。
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