第29話 言わなきゃいけないこと

「うわ、大丈夫か? てゆうかなんでここに」


 頭上から聞き慣れた声がする。


 私は床に全身を預けながら、顔だけをあげる。


「…………」


「杏奈?」


「……た、巧?」


 私を覗き込む心配そうな表情はやっぱり巧の顔だった。傷一つない顔だ。


 あ、あれえ???


 死んじゃったか、もしくは重体で死にかけてるモンだと思ってんただが……???


 私は唖然としながらも、そのまま今度は背後にいる樹くんを振り返って睨んだ。彼はトボけた顔で肩をすくめる。


「あれー? さっきまで起こしても全然起きなかったんだけど」


「…………」


 ハメられた。


 私ははあーと大きなため息をついてそのまま体を起こすこともなく脱力した。わけがわからないというように巧が慌てていう。


「だ、大丈夫か? どうした」


「…………」


「起きれないのか? 病院の床なんて雑菌だらけだぞ」


 心配して駆けつけた人間を雑菌扱いかこの男。


 私は無言のままフラフラと立ち上がる。座った目でベッドに上半身を起こして座る巧をみた。彼は至って元気で、怪我も負っている様子はない。


「事故に、あったって」


「え、ああ……背後から追突されたんだけど、そんなスピードは出てなかったから。ちょっと首が痛いから検査だけしてもらってるけど」


「…………」


「どうした、樹が連絡したのか?」


 巧は眉をひそめて私と樹くんの顔を見比べる。そんな中、彼が無事であったことでぶわっと気持ちが一気に溢れ出た。


 安堵感と、苛立ち。


 人の気も知らないでキョトンとしている巧に怒りを覚えた私は、完全に八つ当たりだと分かっているが我慢しきれず持っていたハンドバックを巧に向かって投げつけた。それはちょうど巧の胸にヒットする。


「うわ、なんだよ!」


 そう言いながら私の顔を見上げた彼はぎょっとする。私の目から大粒の涙が溢れ出ていたからだ。


 よくよく考えれば私は寝起きのすっぴんに寝癖つき。おにぎりのTシャツにクタクタのズボン。それすら忘れてしまうほど頭がいっぱいだったのに。


「し、死ぬかと思ったあああ!」


 子供みたいに叫んで泣き喚いた。自分の情けない泣き声が部屋中に反響する。


 あんな終わり方でもう二度と巧とは会えなくなってしまうのかと思った。ばあちゃんみたいに、突然逝ってしまうのかと思った。


 ずっと我慢していた何かが爆発したように涙が止まらない。巧に怒りをぶつけてもしょうがないと分かってはいるのに、私は止まれなかった。


「杏奈……」


「し、死ぬのかって……!」


「杏奈」


「巧が死んじゃうかと思ったのに〜……」


 わあわあと泣きじゃくりながらただ巧みを責めた。彼は何も悪くないというのに。


 ふと気がつくと、鼻水すら垂らしながら大変に醜い顔で泣き喚く私の前の前に巧が立っていた。彼はいつかのように、着ている服の袖で私の顔をやや乱暴に拭き取った。


「ごめん、心配かけた」


「いひゃい」


「……ごめん、ほんと」


 拭き取られて少し視界が見えるようになった私が見上げたところに、巧の顔があった。彼はどこか嬉しそうに微笑んで私のことを見ていた。


 その顔を見た途端心臓がどきりと大きく鳴り響いた。それは未だかつて感じたことのないほどの高鳴りだった。オーウェンにさえ感じたことがないくらいの。


 そして同時に今更恥ずかしく感じた。鼻水だらけの顔に馬鹿げたTシャツ、すっぴん。何回も見られているはずの格好なのに、今はひどく恥ずかしくて穴があったら入りたい。


 慌てて顔を伏せた。近くで見ないでほしいと思った。


「あのさー。俺二人の仲を取り持つつもりで登場した覚えはないんだよね」


 背後から声がしたため二人で振り返る。樹くんが入り口で扉にもたれながら腕を組んでこちらを見ていた。彼の存在をいつのまにかすっかり忘れていた私はさらに恥ずかしさに襲われる。


 樹くんは不機嫌そうにこちらを見ながらいう。


「これ本当に。どちらかと言えば邪魔してやろうって立場だから。杏奈ちゃん気に入ってるし」


「樹」


「すんごいでかい借りだから巧。昨晩俺に電話で言ったことちゃんと杏奈ちゃんに言えよ」


 私は隣にいる巧の顔を見上げた。彼はどこか気まずそうに視線を逸らし、それでも小さく頷いた。


 樹くんははあーあと大きなため息をついて頭をかく。


「今日は帰るわとりあえず。今度改めて杏奈ちゃんは口説くわ」


「おい」


「そのTシャツ本当に着てるんだね。てかスッピン可愛いー。今度ちゃんとお茶しようね!」


 巧の存在は無視しています、というように樹くんは私に笑いかけて小さく手を振った。私はイマイチ状況についていけず、とりあえず手だけ振り返した。なんか騙された感じはあるけど、巧の事故を連絡してきてくれたのは感謝すべきことだ。


 樹くんはそのまま病室から出て行った。嵐が過ぎ去ったように病室内はシン……と沈黙を流す。私は巧に向かって尋ねた。


「私にいうこと、って?」


「それは、ここじゃなんだから……家に帰ってから話す」


 巧は未だ私から目線を逸らしたまま答えた。普段堂々として自信にあふれている彼らしくないなと感じる。


 それ以上何も追求はしなかった。巧が私に伝えなくてはならないこと、ということに心当たりはあった。


 シングルマザーのことだ。そのことを話すと約束したまま、この男は未だそれを果たしていない。


「分かった、ちゃんと聞く」


 どんな答えでも真実を聞きたいと思った。


 巧は私の力強い返事に何も答えなかった。






 検査を終え、特に大きな怪我もなく打ち身程度だと診断され私たちはそのまま帰宅が許された。


 巧の車は事故により使えなかったため二人でタクシーに乗り込んで帰った。この格好で電車に乗る勇気がない私のためでもある。


 普段と違って巧はずっと無言だった。私の方を見もせずに考え込むようにして暗い顔をしている。それがいい話でないことは容易に想像がついた。


 でも……どうして? 彼の好きな人について話すだけなのに、なぜそんな暗い表情をしているのか。


 もしかして私の気持ちがバレているのかと思った。だから彼は困って言い方を考えているのだろうか。


 万が一この気持ちが巧にバレてそれが彼を苦しめることになるのなら———やっぱり、彼のそばにはいられないと思った。




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