第28話 起きて
瞼を閉じて闇の世界にいる最中、枕元にある携帯から音が鳴り響くのに気がついた。
「うう……ん」
寝ぼけ眼で腕を伸ばし携帯を掴む。朝のアラームかと思っていたが、音がアラームのものではないのに気がついた。
「なに……?」
ぼんやりとして手元のそれをみると、樹くんからの着信だったので驚く。時計は朝の五時を表していた。
こんな時間に電話? 昨晩も話したっていうのに?
疑問符で頭がいっぱいになりながらそれに出る。
「もしもし? 樹くん?」
『……あ、杏奈ちゃんごめんこんな朝に』
「それはいいけど、何? どうかしたの?」
彼の声はどこか暗いように感じた。一瞬で心に翳りができ不安が渦巻く。
小声で樹くんが言った。
『……巧の車が、事故を起こして』
一気に頭が真っ白になる。
耳に入った言葉を理解するのに時間を要した。
「……え、いまなんて」
『事故、起こして。後ろから玉突きされたみたい。それで今中央病院で……』
「た、巧はどうなの? 大丈夫なの!?」
縋り付くように電話相手に尋ねた。心臓が冷えたように感じる。
『…………』
「ね、ねえ? 樹くん?」
『早く、来てあげて』
「……は」
『目を覚まさない』
息をするのも忘れたのかと思った。
声を出したいのにまるで喉から溢れてこなかった。唇がわずかに震えているだけ。最後にみた巧の悲しそうな顔だけが頭に浮かんだ。
嘘だ、そんな。
次の瞬間、近くの机の上に置いてあったハンドバックだけを手に取って部屋から飛び出した。握りしめた携帯からまだ樹くんの声が聞こえている気がしたが、今はそれに出る余裕なんかない。
エレベーターに飛び乗って一階に降り、まだ薄暗いフロントを通り抜けて外へ出た。
早朝であるため車通りは少ない。それでもなんという幸運か、ちょうど目の前にタクシーが通るところだった。すぐさま右腕を挙げて停める。
「中央病院まで、急いで走ってください!」
乗り込んで自動ドアが閉まるより先にそう叫んだ。行き先が行き先なので、運転手さんも事情を察したらしい。無言で素早く車を発進させた。
タクシーに揺られながらぶるぶると震える手をしっかり抑え、未だ混乱している頭をなんとか冷静にしようと努める。
落ち着いて、落ち着いて自分。取り乱してはいけない。
そう言い聞かせても私の頭の中は巧でいっぱいだった。両目から涙が溢れ出、それを拭く余裕すら残されてはいなかった。
ああ、何で家を出たりしたんだろう。気まずくてもちゃんとあの家にいればよかった。もっと早く病院へ駆けつけられたかもしれないのに。
「巧……」
返事のない呼びかけが、虚しい。
彼が好きだとか、彼が誰を好きだとか、そんなことはもうどうでもいいと思った。なんてくだらない、と一蹴したい。そんな問題、大したことではない。
ついこの前、真っ白な顔をして眠ったおばあちゃんを思い出した。ばあちゃんも急だった、急に私のそばからいなくなってしまった。
一緒に暮らして、そんなに長い時間を過ごしたわけではないけれど巧との時間は居心地がよかった。私が一番辛い時にそばにいてくれた。自意識過剰で腹黒い男だけど、思えば自分に正直な人だった。
ああ、そうだよなあ……ぼんやりと思う。
いつだって完璧なキラキラ王子のオーウェンたちとは違う人間臭さ。口が悪かったり計算高かったりするその人間臭さこそが彼を好きになった理由だと思う。残念なところもいっぱいだけど、律儀だったり優しかったりする面も多くある。
私となんて書類上の夫婦なのに、一緒にばあちゃんを心配して結婚式まで考慮してくれたり、危篤時には仕事を放り投げて車を走らせてくれて、泣き喚く私をそっと見守っていた。そんな一つ一つの優しさが眩しかった。
「……巧」
返事をしてほしい。
タクシーを飛ばしてようやく辿り着きた病院へ走り込んでいく。早朝のためかまだ病院内は閑散としていた。病院独特の匂いが鼻をつく。
入ってすぐ、樹くんが待っていてくれたように立っていた。私の顔をみてハッとする。
「樹くん!」
「杏奈ちゃん、こっち!」
彼はそういうとなんの説明もなしに足早に歩き出した。必死にその背中を追いながら、ドキドキと心臓が苦しくてたまらない。
広い病院内の角をいくつか曲がり、樹くんはまっすぐ目的地に向かっていく。途中、一度だけ私を振り返った。それでも何も説明なく、そして私に質問する隙も与えずに足を進め続ける。
辿り着いたのは一つの白いドアの前だった。樹くんはそのドアの前に来ると、一旦立ち止まり私をみる。
「……こ、こ?」
少し乱れた息で尋ねると、小さく頷いた。その顔は暗く悲痛な表情をしていた。
ワナワナと震える唇を噛み締め、私は銀色のドアノブを握り一気に開く。中は個室だった。あまり広いとは言えない病室の中央に、綺麗な顔で眠る巧の顔がすぐに目に入る。
自分の呼吸が止まってしまったかと思った。
大きな窓から昇り始めた日が巧の顔を照らしていた。それがなんだか幻想的で美しくて、その光景を一生忘れないと思った。
ああ、そんな
「…………た、巧!!」
ようやく喉から声を絞りだした。不恰好にもひっくり返って震えた声だった。
横たわる彼に向かって駆け出す。シワのないシーツが寂しく感じた。
「……ん、杏奈??」
私が涙ながらに彼に駆け寄ってる最中、ベッドの上に寝そべる男はそんな寝ぼけた声を上げた。私は同時に力が抜けてコケた。盛大にコケた。マヌケみたいにコケた。鈍い音が病室に響く。
膝小僧を派手に床にぶつけて痛い。
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