第27話 ここにはいられない
「なん、で最初から言わないんだよ……」
弱々しい声が聞こえてそちらを向いた。巧は項垂れるように肩を落としていた。なんだか気の毒になりながらも、私は強気に言う。
「言う必要ないかなって」
「散々そう噂されてたからてっきりそうなんだと」
「今どき同性愛者も珍しくないし、そう思われてデメリットはないから放っておいた。恋愛に興味ないのは本当だったし。だからって別に私は……」
言っている最中、隣に置いておいた携帯が鳴り響いた。反射的にそれを見ると、先ほど登録したばかりの樹くんの名前が出ていた。心配になって電話を掛けてくれたらしい。
あっと思ったのも束の間、私が手を伸ばすより先に横から携帯を取られた。見上げれば、巧が携帯の画面を見て驚きの顔をしていた。
「ちょ、ちょっと勝手に」
「……樹と連絡先交換したのか?」
「え?」
「お前、樹のことが好きなのか?」
呆然としたように言ってきた巧に少し驚いた。まさかそんな考えになるとは想像していなかった。
そんなわけないのに。ほとんど会ってもない樹くんを好きになるだなんて。そう思いつつ、巧への気持ちがバレるくらいならそうしておいたほうがいい気がした。
私は立ち上がって巧から携帯を奪う。未だ着信音を鳴らすそれをポケットに仕舞い込み目を逸らしたまま言った。
「恋愛は自由なんでしょ」
契約内容はそうだった。お互い恋愛は自由。現に巧だって他の女と付き合い続けているんだから。
「……けるな」
「巧だって自由にし」
「ふざけるなよ」
低い声が響いてはっとした。巧を見れば、見たことない座った目で厳しく私を見ていた。あまりの顔についたじろぐ。そりゃ普段からプライベートはニコニコしてるタイプじゃないけど、それにしてもこんな表情の巧は初めて見る。
どうして、怒らせた?
「……え」
「なんで樹なんだよ」
そう怒りの声を漏らした瞬間、ただぽかんとしている私に巧の顔が近づいた。一瞬の出来事だった、彼の熱い唇が自分の唇と重なっていることに気がつく。
頭の中は真っ白だった。何がなんだか分からず、驚きで情けなくもふわりと後ろに倒れ込んでしまう。
丁度背後にあったソファに着地した瞬間、それを追うように巧が近づき、私の肩を掴んで体を背もたれに押しつけた。そして追い被さるようにして再び私に深く口付けた。されるがままその柔らかな感触を受け入れた。
待って、どうして、何がどうなってる。
ぐるぐると頭の中が回る。樹くんに押し倒された時とは全く違う。自分の混乱と戸惑いがぐちゃぐちゃだ。
自分は他に女がいるくせに、恋愛は自由だと言っているくせに、仲の悪い弟と付き合うのだけはそんなに許せないのか。その怒りをこんな形でぶつけているのか。
一気に頭が冷えた。
体が言うことを聞くようになった瞬間巧を強く突き飛ばす。彼は後ろによろけながら私から離れた。反射的に手で口元を覆う。
「ばっ……かじゃないの! 最低!」
そう叫んでようやく巧の顔が目に入る。さっきまで怒りを抑え切れないと言った顔をしていたその人は、今はなぜか視線を落として叱られた子供のような弱々しい表情をしていた。
それもまた見たことのない顔で、ぐっと言葉を飲む。なんでそっちがそんな顔してるのよ、傷ついたみたいな顔してるのよ!
もっと罵倒してやりたかったのに言葉が出なくなってしまった私は無言で立ち上がって巧の隣をすり抜けた。背後で私の名を呼ぶ声が聞こえたが無視し、足早にリビングを出ると自室へ入って鍵をかけた。
相変わらずキラキラしたスマイルをした王子たちが私を受け入れたけれど、少し前なら癒してくれたそれらは今はもう飾りにしか思えない。
ふらふらとする頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
何で、何が、どうして、意味が分からない。
もはや何も考えられなくなった私の目からなぜか涙が溢れた。何で泣いているのか自分でも分からない。
ただ、たとえ好きな人からでも、私のことが好きじゃないのに落とされるキスは虚しいだけなんだと学んだ。
流石に同じ家にはいられないと思った。
バッグに簡単に荷物を詰めて夜中にこっそり家を出た。巧と顔を合わせるかもしれない環境から離れたかった。
かといっていくあてはない。実家は荷物をまとめて帰ってきたとなれば両親は大騒ぎするだろうし、麻里ちゃんの家は離れているから仕事に通えなくなる。友達も、なあ……巧と喧嘩した理由とか聞かれたら上手く誤魔化せる自信がない。
仕方がないので安いビジネスホテルに泊まった。翌朝そこから出社し、またそこへ帰宅した。
正直これから先どうするのか見当もつかない。巧は連絡なんてしてこないし、私だってする余裕はない。婚姻関係を終えるとしてもあまりに早すぎて親が卒倒しそうなので避けたいと思った。
部屋を借りようか。別居、って形。
それしか思い浮かばなかった。仕事終わりに不動産屋へ駆け込み条件に合った部屋を探す。流石に毎日ホテル泊まりは出費が痛いので急いだがそう簡単に部屋が見つかるわけもなく、うなだれながら味気ないホテルへと戻る。
困ったぞと一人ベッドで寝そべりながら携帯で部屋を見ていた時、樹くんから電話がかかってきた。
そういえばあの日の夜も掛けてきてくれたんだっけ。
思い出して憂鬱に陥る。あの馬鹿男の考えていることが今でもまるで分からない。
「はい」
私は気分を切り替えて電話に出た。耳元で樹くんの声が聞こえる。
『あ! 杏奈ちゃん、よかった!』
「この前も電話貰ってたのに出れなくてごめんなさい」
『それは全然構わないけど! あれから大丈夫かなって心配になって』
巧の言うように私がお気楽でなければ、樹くんはやっぱりそんなに悪い子には思えないと考える。そりゃ最初はかなりやりすぎたけど……。
むしろ巧とどうしてあんなに仲が悪いのか不思議なほどだ。樹くんなら兄弟に懐いていそうなのに。
「ええと、うん大丈夫だよありがとう」
『離婚とかしちゃうの?』
「ううん今のところは」
『今のところ?』
「ま、まだ様子見してるの!」
『ふうん、巧のマンションに帰ってないもんね』
突然放たれた言葉につい息を呑んだ。
「な、何で知ってるの?」
『あ、本当にそうなの? ごめんカマかけただけ。もしかしたらそうなのかなあって。杏奈ちゃん意外と引っかかりやすいんだね』
ベッドに倒れ込んだ。この前から思ってたけど樹くんって意外と鋭いし頭が回る! 年下の男の子に振り回されている自分に辟易しながら言った。
「やめてよもう……」
『今どこにいるの? ちょっと会えない? あーもちろん人が沢山いるようなカフェとかでいいから』
「…………」
むくりと起き上がる。ホテルの窓から見える街並みを見渡した。
「ビジネスホテルに泊まってるけど、心配してくれてるなら本当に大丈夫だから」
『下心ないよ?』
ストレートな言い方につい笑う。それ、下心ある時に使うやつ。
「別にそんなこと考えてるわけじゃない。でも、……巧が嫌がるから」
苦笑しながら言った。
結局はね、そこ。あんな最低な男だけど、やっぱり彼を裏切りたくはない。
電話口からため息が聞こえてきた。
『健気だねえ。ねえ巧の何がいいの? 性格悪いじゃん』
「同感だね」
『頭いいけどずる賢さもあるっていうかさ』
「超同感だね」
『はは、同感してるよ』
つられて笑う。樹くんがいうことよーく分かるよ。私だって分からない、オーウェンと比べたら月とスッポンなのにね。
「でも樹くん、巧が付き合ってた女の人にちょっかいかけるのはいつもだって聞いたよ。何でそんなことするの」
思ってたより悪い子じゃないと思うけど、私にだって最初そうだった。ちょっと軽率というか、悪ふざけがすぎる子なんだな。
彼は拗ねたようにいう。
『そんなこと聞いたの? まあ事実なんだけどさー……最初は嫌な兄の彼女どんな子だろうって近づいてみただけなんだけど。しかしあの巧って男はね、杏奈ちゃん以外はほんと女見る目なくてね。みんな俺がちょっかいかけてまんざらでもなそうにしてた』
「わお」
『彼氏の弟に手出されて喜んでるような女ばっかりだったよ。あいつ女運ないよね』
「そうだったの、意外だ……」
『多分言い寄ってきた女適当に選んでたんだと思うけど。でも最後結局いい奥さん捕まえたからずるいよあいつは』
最初、確かに言っていたな。シングルマザー以外の女性とも沢山会ったけど結局ダメだったって。
つまりは好きでもないのに付き合ってみたんだろうな。でも無理だった、と。
……それだけ忘れられない女の人に、敵うわけないよなあ。
『まあとりあえず会うのは諦めた。でも一人で外泊繰り返すのも危ないから何とかしなよ。俺みたいなのに押し倒されるよ』
「あは! ありがと。樹くんって本当はいい子だよね、お調子者だけど」
『……いい子なんて初めて言われたよ』
困ったように呟いた彼に微笑む。ああ、本当に弟みたいに思ってきちゃった。
「電話、本当にありがとうね。また機会があればみんなで食事でも行きましょう」
『はいはい、みんなでね。おやすみなさーい』
電話を切ったあと、ベッドにごろりと寝そべった。いつも使っている感触とは違うので違和感を感じる。
充電が残りわずかになった携帯を翳して見つめた。
「樹くんだって心配して電話くれるのに……あいつは何も言ってこないんか」
散々好き勝手したくせに。
ごろりと寝返りを打って目を閉じる。
これからどうしよう。もう巧とは会わないまま別居して婚姻関係を終えるんだろうか。でもそれが最善のような気もしてきた、叶わぬ恋を抱いて一緒に暮らすのは流石に辛い。
「明日は部屋を探すぞ」
そう強く決意して、私は目を閉じた。
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