第26話 隠したいこと



「私には、好きな人がいます」


 巧が私に契約を持ちかけた時、彼は堂々とそう言っていた。本当は他に結婚したい人がいるけれど断られ続け、形だけの結婚相手を探していると。


 私にとっても好都合だと思った。両親は結婚結婚てうるさいし、ばあちゃんも闘病中だったし、オーウェンの趣味を辞めなくて済むし。


 実際この結婚をしてもよかったと思っている。巧との生活は不思議と気をつかわないし、ばあちゃんを喜ばせることもできた。たった一つ誤算があったけど。




 家に帰りシャワーを浴びて頭を冷やした。お湯を張るだけの気力はなかった。


 髪を乾かすのすら適当にして部屋着に着替える。愛用してたあのおにぎりは今日は使えそうになかった。巧に散々馬鹿にされつつも笑われたあれを着るのはなんだか辛い。

 

「……巧はあれ着てるとこ見たことないな」


 まあ、あれ以降ゆっくり顔を合わせていないからというのもあるけど、時々見かける彼の姿はいつもの黒いスウェットだった。そう思い出して苦笑する。


 当然だ、本命の女がいるのに、他の女とお揃いの服なんか着るわけがない。何を贈ったんだ私は。今更ながら恥ずかしくて死んでしまいたい。


 無人のリビングに入りソファに腰掛けた。ふうと大きなため息を漏らす。


 なんでこうなっちゃったんだろう。


 そもそも巧が私を結婚相手に選んだのも、私が男に興味ないと思っているからだ。巧を好きになる危険がないからこそ私を選んだのもあるのに、まさかこんなことになるなんて。


 無茶苦茶すぎて口から笑いが漏れてしまった。


 ふとさっきのことを思い出して胸が苦しくなる。あんなに綺麗な人だったんだなあ相手の人。想像以上だった。


「そうだ、樹くんに無事到着したことくらい連絡しなきゃ」


 鞄から携帯と名刺を持ってくる。心配してくれていたのだし、大丈夫だよという一言くらい送らねば。


 流石に電話は気が引けたので、メッセージを打ち込んだ。今日のお礼とお詫び、無事に家に着いたことを伝える。


 何度目からわからないため息を漏らした瞬間、玄関から鍵のあく音がして飛び上がった。ここ最近深夜にしか帰ってこなかったのに、今日はこんな早く? あれでも、あの人とホテルに行ったのに早すぎでは……


 あたふたと慌てた。今彼と会って平常運転できる自信がなかったからだ。そうだ、巧がこのまま一旦自室へ入ってくれれば、私もその間に自分の部屋に閉じこもって……!

 

 計画はすぐに打ち砕かれた。巧の足音はまっすぐにこちらのリビングに向かってきているのに気づいたからだ。


 どうすることもできずソファの上で挙動不審になっていた時、扉が勢いよく開かれた。


「……あ」


 黒髪に涼しげな目元。もう見慣れたはずのその顔に、今更ドキリと胸が鳴った。


 巧はどこか厳しい顔をしていた。その表情に私の心も冷える。


 ツカツカと私に歩み寄ってくる彼にそれでも平然を保ち、挨拶の言葉を投げかけた。


「早かったね、おかえ」


「樹と会ってたのか?」


 言い終える間もなく巧は言った。


「……え?」


「樹と会ってたのか?」


 聞きたいことなんてこっちが山盛りのはずなのに、なぜか巧に質問されている。私が戸惑っていると、巧はスーツのポケットから携帯を取り出し読み上げた。


「『ふざけるな、次あったら殺す。杏奈ちゃんに謝れ』」


「……それ、樹くんが?」


 なるほど、やけに早いご帰宅は樹くんからの連絡があったからか。


 納得する私を他所に、巧は携帯をしまいながら眉をひそめて言う。


「樹には気をつけろって言っただろ、なんで会ってたんだよ。てゆうかコイツは何をキレてるんだ?」


「別に会ってたって言っても、仕事終わったら会社の前で待ち伏せされてて……」


 私が言うと巧は大きなため息をついて天井を見上げた。


「あいつ……」


「別にご飯行ったとかじゃなくて、タクシー捕まえるまでの間立ち話してただけだよ」


「立ち話もするな、また会社に戻ってタクシー会社に電話すればよかっただろ」


 強引な言い方にムッとする。別に二人きりになったわけでもないし、なんでそんな言い方するかな。


 私はやや睨みながら巧を見上げる。


「樹くん謝ってくれたよ、この前はからかっただけだって。悪い子じゃないよ。二人きりになったわけでもないし何をそんな怒ってるの」


「この前押し倒されておいてお気楽か」


「だからからかっただけだって」


「やけに庇うな」


「ちゃんと話したらいい子だって分かったの」


「お前は女しか見てないから異性に鈍いんだよ。もっと危機感を持て、馬鹿」


 この男の口の悪さは知っていたが、それにしても今日は棘がありすぎる気がした。そして他の女と楽しくホテルに行っていた光景もなぜか目の前に浮かんできて、私はついカッとなった。


 そりゃ三次元の男なんてあまり関わってないから鈍いかもしれない。でも、結婚相手の弟と立ち話しただけで馬鹿呼ばわり?


「私別に女が好きなわけじゃないけど?」


 つい口にでた言葉はそれだった。しかも相手はあんただよ、あんた。……なんてことは口が裂けても言えないが。


 巧は私のセリフを聞いた瞬間、目をまん丸にさせた。私はプイッと顔を背ける。


 彼は唖然とした様子で立ち尽くし、どこか掠れる声を出す。


「え……だって、お前……」


「私女が好きなんて一言も言ったことないもん。どちらかといえば恋愛対象は男。ただ基本的には恋愛に興味なかったからあの文句使ってたの。そしたら周りが勘違いして」


「はあ……? 恋愛対象、男?」


 ここまで言い終えてからしまった、と思った。私は女が好きなんだと思い込ませておいた方が色々と楽なのに、なぜこのタイミングでバラしてしまったのだろう。


 気まずい沈黙が流れた。今巧がどんなことを考えているのか分からなかった。でもあの自意識過剰男だから、『じゃあ俺のことが好きになったのか』とか言い出しそう……いや、自意識過剰でもないのか悔しい。


 そこだけは断固バレてはいけないと思った。なんとしてでも隠し通さねばならない。

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