第25話 戸惑い
再び早足で歩き続ける。未だタクシーは通らない。用がないときは連続で走っているのを見かけたりするくせに、必要な時はこれだ。
駅とはまるで違う方向に進み続け、もはや知らない場所へと辿り着いていく。それでもやっぱり彼は付いてきた。
「ねえ、飲もうとは言わないからさ、コーヒーぐらい行こうよ」
「急いでるから」
「じゃあ連絡先教えて」
「じゃあでなんでそうなるのよ」
「いいじゃん弟だもん」
「何かあれば巧に連絡すればい———」
言いかけた私の言葉が止まる。同時に、歩き疲れた両足も停止した。私が突然立ち止まったもんだから、後ろにいた樹くんが軽くぶつかる。
「わっと、ごめん、ぶつかっちゃった」
「…………」
そんな言葉も耳に入らないほど、私は目の前の景色に夢中になっていた。
日本でも有名な高級ホテルが聳え立つ。名前なら誰しもが知る場所で、海外から来た有名アーティストや政治家も利用すると噂されるホテルだった。樹くんを避けるために歩き続け、こんなところまで来てしまった。
その玄関に見覚えのある姿が目に入った。
巧だった。
「どうしたの杏奈ちゃ」
私が凝視する先を彼も見つめ、言葉を失くす。ホテルに入っていく彼の隣には、一人女性がいたからだ。
ロングヘアを綺麗に巻いた妖艶な女性だった。高級そうなワンピースに身を包み、巧の隣で笑っている。そんな彼女をエスコートするように巧は足を歩んでいる。
巧はとても楽しそうに笑っていた。家じゃ口も悪くて膨れっ面をすることだってよくあるくせに、今は穏やかな笑みを浮かべている。
二人は楽しそうにホテルの中へと入っていく。
「……はあ? あいつ何してんだ……!」
隣にいた樹くんが怒りを込めた言葉でそう言い、駆け出そうとするのを慌ててその腕を掴んで止めた。彼は驚いたように私を見る。
「い、樹くんいいから……!」
「いやよくないから! てか杏奈ちゃんが飛び出していかなきゃ!」
「いいの、本当にいいから……!」
隣の女性が誰かを私は知っていた。巧がずっと忘れられないと言っていたシングルマザーだ。なるほど確かに、とても綺麗な女の人だった。
樹くんは苛立ったように私にいう。
「あんま信じらんないかもしれないけど、俺本当に浮気とかそういうの許せないタイプなんだって! いやほんとどの口が言ってんだよって感じだろうけど。行って殴った方がいいって!」
「本当にいいから! あの、家でちゃんと巧と話すから……!」
必死に樹くんの腕をつかんで止める。今樹くんが突入してはごちゃごちゃになる。いやそもそも、突入する理由がない。私はあの二人を容認しているのだから。
……そう、容認している。
契約だった。巧に他に好きな人がいるのを分かった上での結婚。私たちは夫婦でもなんでもない、ただのルームメイト。
ああ それなのに、
なんでこんなに胸が痛い
「……ご、ごめん、俺落ち着くから……。確かに二人の問題で、俺が首を突っ込むのは変だよね」
樹くんが困ったように言う。私は再びホテルに目を向けると、もう巧とあの人は中に入ってしまって見えなくなった。そんなホテルから視線を逸らすように、私は踵を返して来た道を戻る。背後から樹くんが慌てて追いかけてくるのを感じた。
ただそこから少しでも早く離れたくて足早に進んだ。ほとんど走り出す私の隣に樹くんが並ぶ。
「あの、杏奈ちゃん、落ち着いて……」
「大丈夫落ち着いてる」
「俺が代わりに謝るのも変だけど、ご、ごめん。巧が」
「あは、ほんとなんで樹くんが謝っているの」
笑い飛ばしたつもりが、口から漏れたのは渇いた笑いだった。
そうか、ここ最近ずっと巧とは顔をゆっくり合わせていなかった。仕事もあるだろうけど、あの人とああしてホテルで過ごしていたのか。いやだから元からそれが当然の行動なんだって。
小走りになっていた足がもつれ上半身が前に倒れ込む。転ぶ、と思った瞬間腕が出てきて私を支えてくれた。いうまでもなく樹くんだった。
「あ、ごめん、ありがと」
「こっちこそごめんだよ……」
「だから樹くんが謝ることじゃなくて」
「それじゃなくて。二人が偽装結婚って疑ってたこと。本当にちゃんと結婚してたんだね」
意外な言葉に顔をあげる。彼は叱られた子供のようにシュンと落ち込んみながら言った。
「ごめん、なのに色々ちょっかい出して失礼なこと言って」
「そ、れはいいけど……なんで急に」
「え? だって、巧のこと本当に好きなんだなあって。
じゃなきゃ、あの光景見てそんな泣きそうな顔しないでしょ」
ストン、と言葉が胸に落ちたようだった。
……泣きそう? 私が?
巧と他の女性が並んで歩いているのを見て、泣きそう?
「なのに巧はあんな馬鹿で……! 本当にごめん」
「え、私……泣きそう?」
「え? そ、そりゃ……しょうがないって! 普通そうなるよ、平常心を保ってられるはずない。好きな奴に裏切られたら……」
「……好き、か」
「え?」
ただ足元にあるアスファルトをじっと見つめた。
まさか、そんな。
そんなはずない。世界がひっくり返ってもあり得ないはずだ。
私が巧を好きだなんて
そう思った瞬間浮かんでくるのは泣いてる私に胸を貸して励ましてくれる巧の姿だった。ばあちゃんと笑いながら話してる巧、私に料理を作る巧、人を小馬鹿にするようにしながら優しく笑うあの男の顔だった。
瞬間、心臓が一気に大きく打つ。それはオーウェンを見ている時よりもひどい鳴りようだった。
嘘だ嘘だよ。そんなことありえない。
だって巧が他に好きな人がいるって知ってるじゃない。私には微塵も興味ないって知ってるじゃない。いずれは離婚する関係だって知ってるじゃない。なのに好きになっただなんて、自分が馬鹿すぎて泣けてくる。
これほど無謀な恋もない。
「杏奈ちゃん?」
「あ、と……ごめんね、頭がぐるぐるしてて」
「そりゃそうだよね……あ、タクシーが来た、止めるね」
ようやく近くに来たタクシーを私ではなく樹くんが止めてくれた。空いたドアに促されるまま乗り込み、てっきり彼もついてくるもんだと思っていたら樹くんは心配そうに覗き込んでくるだけだった。
「一人で大丈夫?」
「うん、ありがとう」
「その、俺でよかったらいつでも話きくから。これ、俺の番号。うちの馬鹿兄貴が本当にごめん。俺も面白がっててごめん。杏奈ちゃんが気に入ってたっていうのは嘘じゃない」
やけに真剣なトーンで話すもんだから、ああ彼は実は根は真面目なんだと知った。浮気現場を目撃した妻を気遣ってくれている。やや良心が痛んだ。
樹くんが渡してくれた名刺を受け取り微笑む。
「ありがとう、ごめんね」
彼は悲しげに眉を下げて後退した。タクシーの扉が閉まる。
私はまっすぐ前を向き、運転手さんに目的地を告げた。タクシーはすぐに発車し樹くんから離れる。私は彼を振り返ることもせず、ただ呆然としながらタクシーに揺られていた。
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