第24話 また来た
「高杉さん、今日帰りちょっと飲んでいきません?」
仕事が終わり会社を出ようとエレベーターを待っている時、後ろから来た河野さんが私に声をかけた。
そういえば、以前もそう誘われていたと思い出す。祖母の死があったので、彼女も気を遣って誘いを控えていたのだろう。私と巧の新婚生活を聞きたいと目を輝かせていた。
「ああ……行きたいけど、ちょっと今日は」
「あちゃーだめでしたか、旦那様とデートでしたか、じゃあまた今度ですね!」
「あなたその思い込みの激しさ凄すぎるね」
笑って答える。彼女の中で出来上がっている新婚夫婦像は、私たちとあまりにかけ離れている。巧とデートなんてするはずがないし、挨拶のキスだってしない。
それどころか、もうここ二週間以上巧とは挨拶以外言葉を交わしていなかった。私が家にいる時は殆ど外で仕事をしていて、休日も目が覚めるとどこかへ出かけてしまっている。完全に、避けられていた。
それが何だか想像以上に悲しくて苦痛だった。藤ヶ谷巧という人物の人生に一歩踏み入れるのが、こんなに難しい事だったなんて。ここ最近好きなゲームも進めていられないし、オーウェンだって前ほど輝いていない。
ルームシェアするっていうなら、もうちょっと仲良くしてくれてもいいのに。これじゃあ家庭内別居だ。
到着したエレベーターに乗り込んで一階まで降りていく。退社する人々で一杯の箱の中で、河野さんが囁いた。
「実際どうなんですか、よくデートします?」
「しない。相手も仕事で忙しいからね」
「あーお家デートですか、それもいいですね、家で人目をはばからずイチャイチャが一番ですよね」
何でもプラス思考に物事を運ぶ彼女に笑った。いやでも、新婚なら普通そうだよね。私たちが常識と離れているだけで、彼女の方が当たり前の意見なのだ。
一階にたどり着き、人がどっとエレベーターを降りる。河野さんは隣に並びながらため息をつく。
「私も結婚したいですよー」
「彼氏いたっけ?」
「いません」
「あはは、じゃあまずはそっちが先ね」
そう笑いながら、彼氏なんて期間がなかった男と結婚している女がここにいる、と思った。人のこと言えた立場じゃない。
二人で歩きながら会社の外へと出る。やや暗くなった空をバックに、駅へと足を踏み出していく……その時だった。
「杏奈ちゃーん!」
どこかで聞いた声に、びくっと肩が反応する。
嘘でしょ、この声……。
私が恐る恐る振り返ると、そこにはやはり樹くんがニコニコしながら立って私に手を振っていた。頭痛を感じて頭を抱える。
隣にいた河野さんは、目を輝かせて小声で尋ねた。
「高杉さん! あの可愛いイケメンだれですか! 不倫相手!?」
「だからあなたの思考回路どうなってるの……」
力なく答えると、樹くんが私たちのそばまで歩み寄ってくる。確かに彼はこの人混みの中でも目を引くほど綺麗な顔立ちをしている。巧とはタイプの違う綺麗な男の子だ。
樹くんは犬のように嬉しそうに笑ながら言った。
「待ってたんだ」
「ええと……」
「あ、仕事仲間の方? 俺藤ヶ谷樹です、巧の弟」
樹くんが河野さんにいうと、彼女はみるみる顔を緩ませた。これだけ顔に出やすい子も珍しい。
「顔面偏差値がやばいご兄弟……!」
「あは、杏奈ちゃんのお友達も面白いねえ」
「そっか、今日は弟さんと約束だったんですね! 家族とも仲がよくて羨ましいです高杉さん!」
私の言葉なんて何も聞かない河野さんは一人で納得し、一人で頭を下げた。樹くんと二人になりたくない私は彼女を引き止めようとするも、いったいここからどうすればいいのかも分からず上げかけた右手が寂しい。
「高杉さん、ではまた明日! 今度こそ飲みましょうね!」
「あ、河野さん……!」
まるで聞いてはいない彼女は、スキップでもしそうな勢いでそこから去っていった。嵐のように一瞬の流れだった。樹くんはポケットに手を入れたまま立って私に笑いかける。
「突然ごめんね?」
私は呆れの感情を隠さずに彼を見上げた。樹くんもそれを見て笑う。
「あはは、うんざりって顔してる!」
「ええと、私帰るので、すみません」
「大丈夫、もうキスしようとしたりしないからさー」
「ちょ、声、大きい!」
慌てて周辺を見渡す。人々は忙しそうに足を運んですれ違っていく。誰かに聞かれたら勘違いされそうな発言やめてほしい、私も巧も困ってしまう。
私は軽く彼を睨むと、足早にそこを移動する。巧の言うようにタクシーでも捕まえて帰ろうかと思った。この子なら電車の中までついてきそうだ。
「あ、待って杏奈ちゃん。ちょっとご飯でも行こうよ」
「行きません」
「スッパリ! ごめんね、この前ちょっと調子に乗っちゃって」
ほとんど走るような形で急ぐも、彼は後ろから平然とついてきた。そしてこんな時に限りタクシーは通らない。
困ったなと思い一瞬巧に連絡しようとした。が、思いとどまる。
……最近全く会話もしてないし、こんな時だけ連絡するのもな……。
顔すらゆっくり見ていない。
私はなんとか自分で対応しようと心を決め、とにかく人通りの多い道を歩きながらタクシーを探した。
「ちょっと杏奈ちゃんとご飯食べたいだけだってー」
「なら巧もいる時にして」
「やだよあんな堅い顔したやつとご飯食べるの」
「ねえ、この前私たちのことは信じてくれたんじゃないの? 何でこんなに執着してるの?」
やや苛立ちを感じながら言葉に出す。一応、あのおにぎりTシャツで夫婦である証拠は示したはずだ。(マヌケな証拠だけど)人の仕事終わりを待ち伏せする目的はなんだと言うのか。
樹くんは突然私の前に立ちはだかった。つい足を止める。
彼の耳にひかる銀色のピアスが綺麗だと思った。
「杏奈ちゃんが気に入ったって言ったじゃん」
「すんごい嘘くさい」
「辛辣ー! 俺今回は結構まじなんだけど。二人の偽装結婚疑惑もまだ完璧に晴れてないし、そうなら俺と付き合っても問題ないし」
「問題まみれ」
私は彼を交わしてさらに足を進める。樹くんはなおついてきた。
3次元に興味ない私だってわかる。彼はかなりモテるタイプだし、女に不自由は絶対にしていない。少ししか会っていない私を気にいるだなんて絶対に嘘で、なんとかして巧の弱みを握るためにこの契約結婚を明かしてやりたいのだ。
普通の女なら揺れるかもしれない。それほど彼は顔は綺麗だし人懐こい。だがしかし今の私は足元に子犬が戯れついているようにしか思えない。
「本当に二人がラブラブ新婚ならこんなことしないよ? 俺不倫反対派だし」
「どの口がいうの」
「この前だって本当にするつもりじゃなかったよ。押し倒しても無反応な杏奈ちゃんの慌てる様子が見たくて」
「だから声! 大きい!」
思わず振り返って注意してしまった。だがそこにいたのは、なぜか嬉しそうに笑う少年のような樹くん。
「あ、やっとこっち見た」
…………あっぶな、ほだされそうだった。
悔しいけど可愛い。この子は可愛すぎる。やることも言うこともめちゃくちゃなのにどこか憎めない天性のものがある。つい笑って許してしまいそうになった。
なんとか自分を戒める。この子犬は飼えません。
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