第20話 突然の訪問

 翌日は、幸運にも土曜日で仕事は休みだった。


 巧が言ったように泣き続けて目が腫れ気味だった私としてはありがたかった。すぐに仕事に行く気力もあまりないし。


 朝ゆっくりと起床し、何か朝食でもとリビングに入った途端、スーツを着ている巧と出くわす。なぜか一瞬のけぞり、私は聞いた。


「あ、おはよ、仕事?」


「はよ。ちょっと出てくる」


 普段通りの巧は腕時計を眺めながら答えた。祖母のことで突然仕事を休ませてしまったので、休日出勤せざるを得なくなったんだろう。


 私は軽く頭を下げた。


「そっか、仕事休んでたから……ほんとごめんね」


「だから謝ることじゃないだろって。いつのまに謝るの趣味になったんだよ」


「趣味て」


「行ってくる」


 ぶっきらぼうにそう言い残した巧は、すっと私の隣を通って廊下へと向かっていった。なんとなく振り返ってその背中を見つめる。


 ……なんだろう。なんか、ちょっと気まずく感じちゃった。


 昨日巧の胸を借りて泣いたのは流石に今思うと小っ恥ずかしいし、なんであんなことをしてしまったんだろう。


 玄関で靴を履き、そのまま外へ出ていった巧の背中を見送りながらぼうっと考える。


 それに、今まで二次元の男しか興味なかった自分が三次元の男の胸に顔を埋めるなんて、想像もつかなかった。まるで自分とは違うその広さと筋肉質な感触は思い出すとどうもむず痒くなる。私お父さんに抱っこされたくらいしか記憶ないもんな。


「て、ゆうかさ。いいのかあれは」


 誰もいない部屋に自分の声が響いた。だって昨日はばあちゃんのことで頭がいっぱいだったから忘れてたけど、あの男本命の彼女がいるんじゃないか。なのに、他の女に胸を貸していいのか?


 もやもやと複雑な思いを抱きながら、私はとりあえずキッチンに入る。冷蔵庫を開けて中を覗きながら頭の中は知らぬ間にどんどん考えが繰り広げられていた。


 よくないよね、うんよくない。相手のシングルマザーが知ったら絶対嫌な気持ちになるよ。でもあれかな、巧の態度を見るに試合に負けた同性を励ますみたいな感覚でやったのかな。十分ある、ありえすぎる。


 むしろなぜ私が一人こんなに悶々と考えなくてはいけないんだ。もうやめた、忘れよう。


 勝手に一人で結論付けると、ようやく冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。適当にスプーンを手に持ち、椅子に腰掛けてそれを口に入れた。りんごのシャキシャキとした食感が舌に伝わる。


「……どんな人なんだろうなー相手の人」


 巧の求婚を断って更に契約結婚を許可したかなり凄い女性。何でこんな面倒な関係にしたんだろう。やっぱりあれかな、子供とかいるから再婚はしないって強く決めてるとかかなあ。


「ううん、難しい。まあ、そんな考える必要ないかあ」


 そう無理矢理思考を停止したところで、何とか自分を納得させる。ヨーグルトの続きを食べながら、今日はばあちゃんのことでメソメソせずにシャキッとしようと誓った。私が落ち込むと絶対ばあちゃんも落ち込んじゃうもんね。


「何しようかな〜流石にゲームの気分じゃないし、目的はないけどぶらぶら外出でもしようかなあ」


 返事のない独り言を言った時、ふいに部屋のインターホンが鳴り響いた。スプーンを口に入れたまま停止する。


 はて、私また何かゲームかグッズ買ったっけ? そんな記憶はないんだがなぁ。それとも巧が何か買ったのだろうか。


 首を傾げながら立ち上がり、インターホンの画面を覗き込む。てっきり宅配便を届けてくれるおじさんを想像していた私は、そこに映っている人を目にした途端ぽかんと口を開けた。


 色白な肌に栗毛色、耳にはピアス。どこか中性的に見える整った顔立ちの人が、あちらから微笑んで見ている。


「樹くん……?」


 巧の弟の樹くんだった。結婚の挨拶のためにみんなで食事をしたのが最後で、それ以降彼と会うことはなかった。会う理由もないのだから当然だ。


 そんな彼がなぜ突然うちに? 巧に用があるのなら電話でもすればいいのに。そう考えて思い出す。そういえば、彼らはあまり仲のいい兄弟ではなさそうだったな……もしかして、巧の電話番号すら知らないのだろうか。


 居留守をしようと思っていたが、何か急用でもあれば困る。そう考えた私は、恐る恐るそのインターホンに出た。


「は、はい」


 私の声を聞くなり、樹くんはぱあっと笑顔になる。どこかのアイドルグループにいてもおかしくないその可愛らしい笑顔は破壊力が凄まじいと私ですら思った。


『杏奈ちゃん! 久しぶり!』


「樹くん、久しぶり。あのね、今日巧は休日出勤しているの、だから家にはいなく」


『うん知ってるよー。だからここに来たんじゃない。ちょっと上がらして?』


 まさかの発言が飛び出して目を見開いた。しまった、これは居留守を使うのが正解だったか。顔を歪めて困り果てるも、本人は無邪気に笑っているだけだ。


「あの、私に何か用だったの?」


『うんそう、杏奈ちゃんに用』


「あっと、私寝坊してまだすっぴんだし着替えてもないの……ははは、ごめんだけどまた今度巧がいる時に来てもらえないかなぁ」


 そもそも、私に何の用があるというのか。頭の中が?でいっぱいになる。あえて巧がいないのを狙ってきたみたいだし。


 困りつつ断る私を、あっけらかんとして樹くんは言う。


『分かった、じゃあ待ってる』


「……ん!?」


『ここで待ってるから。三十分? 一時間くらい?俺全然待てるからいいよ』


 まるで悪びれもなくそういう樹くんを見て、本格的に後悔しはじめた。これは相手も何がなんでもうちに上がっていくつもりだ。彼の目がそう物語っている。


 頭を抱えてううんと唸る。でも確かに、普通なら……夫の家族が訪問してきたら快く対応しなきゃだよなあ。普通の夫婦なら、ね。


 私は決意する。契約結婚とバレないように無難に対応して、樹くんの気が済んだらおかえりいただくしかない。多分どんな結婚生活を送っているか興味があるのだろう。


「分かった、ごめんだけど十五分待っててくれる」


『え、そんな短時間でいいの? 元が美人だと支度も早いんだね!』


「これが最速よ。とりあえずエントランスじゃ不憫だからここまで上がってきて、家の前で十五分後にまたインターホン鳴らしてもらえる」


 そう言って通話を切ると、私は慌てて簡単な身だしなみを整えてに部屋に戻っていった。





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