第18話 突然の
「……?」
「どうしました?」
「母からなの。ちょっとごめんね」
私はすぐに席を立ち廊下へ向かう。仕事中に家族から連絡など来たことはなかった。私は足早に歩を進めながら、すぐに電話に出た。
「もしもし、お母さん?」
『杏奈?』
普段陽気で笑った顔しか見ない母の声はいたって真剣だった。その声色を聞いただけで、自分の心臓がどきっとする。深刻な話題であることが証明されているからだ。
「どうしたの……」
廊下を急ぎながらも私は先を急かした。母の悲痛な声が響く。
『おばあちゃん、もう危ないって』
動かしていた足を止めた。
それは予測できたはずだった。祖母は末期の癌で、いつそうなってもおかしくない状態なのだから。
それでも、たった数日前巧と会いに行った時は大口開けて笑っていたのに、あまりに急すぎる展開で頭がパニックを起こす。
スマホを落としそうになってなんとか力を入れ直す。
「え、うそ、だってこの前……」
『母さんたちも今向かってるから。杏奈も行けそうならと思って……最期だし』
「…………」
言葉が出てこなかった。でも、今は一分一秒でも惜しいのだと脳が自分を急かす。冷静と混乱が私の中でぐるぐると回っていた。
「わ、かった、すぐに行く……!」
かろうじてそれだけ答え、すぐに電話は切られた。そう答えたのに、私はぐらりと体をよろめかせて壁に手をついてそれを支える。
行かなきゃ。ばあちゃんの最期。
ああでも、ここから電車を乗り継いで結構時間がかかってしまう。間に合えばいいけど、いやだからそんなこと考えるより早く動かないと……!
完全にパニックに陥っている私の背後から、河野さんの声が聞こえた。
「高杉さん? どうしました、大丈夫ですか?」
振り返ると、心配そうにこちらを見ている河野さんの顔が見える。私は唖然としたまま言葉を漏らす。
「祖母、が、危篤みたいで……」
「え! す、すぐ行かなきゃ!」
私の肩を支えながら河野さんが慌てたように言った。
「病院どこですか?」
「ちょっと離れてて……隣の市で……」
「すぐ行かないと! 荷物取りに行きましょ!」
あわあわと河野さんが言う。私も頷いてようやく足を踏み出した時、握っている携帯が再び鳴ったのに気がついた。どきり、と心臓が鳴る。
ばっと画面をみると、そこには巧の名前があった。
「? 巧?」
結婚後、メッセージは送られても電話など来たことはなかった。あまり時間がないので戸惑ったが、なんとなく出た方がいい気がして通話する。
「もしもし?」
『杏奈今どこだ』
開口一番それだった。やや面食らった私は、それでも答える。
「そ、りゃ会社だけど、ごめん今お母さんから」
『正面で待ってろ、車で向かってるから』
「え?」
『杏奈のお父さんから連絡貰ったから。あの場所なら公共交通機関より車の方が絶対早い。少ししたら着くから』
「え……」
それだけ言うと、私の返事も聞かずに電話は切れた。またさらに唖然としてしまう。
巧が、送ってくれるの? おばあちゃんのところまで?
「高杉さん、旦那さんからじゃないんですか?」
「あ、うん、今から迎えにくるって……」
「ほら、荷物取りに行きましょう! 少しの時間も惜しいですよ!」
強く腕を引っ張られてようやく私はそこから足を踏み出した。ただ頭の中に、ばあちゃんの笑った顔だけが浮かんでいた。
荷物を持って会社の正面に降りて行った頃、ちょうど巧の車が停まったところだった。私がそこに乗り込むと、彼はすぐに発進させた。無言のままハンドルを握っていた。
何か言葉を発そうとして、けれどもそんな余裕はなかった。送ってくれてありがとう、とか言いたいことは多くあった。仕事で忙しいというのに。でも残念ながら私にそんな余裕はなかった。私たちはずっと沈黙を流したまま、目的地まで車を走らせた。
病室に駆け込んだ時、初めに目に入ったのはもう意識を失っているばあちゃんだった。
その体の隣には以前来た時にはなかった心電図モニターが置かれていた。そこからゆっくりながら音が漏れていて、ばあちゃんがまだ頑張っていることを物語っていた。
すでに私より早く到着していた両親は、目を赤くして私を招き入れた。
「杏奈、よかった間に合って……! ばあちゃん、杏奈が来たよ」
母が私の腕を引っ張って横たわる祖母の隣に連れて行く。私は呆然と、細くなったばあちゃんの傍に移動した。
「ばあちゃん」
返事はなかった。私はほっそりしたその手を握る。皺がたくさんある、柔らかな手だった。それはまだ温かく、命を感じさせるぬくもりがある。
「ばあちゃん、結婚式まで頑張るって言ったじゃん……」
つい先日、あんなに笑って巧と話してたじゃない。お見舞いのお菓子をみんなで食べたじゃない。結婚式楽しみだって、ひ孫も楽しみだって言ってたじゃない。
「ばあちゃん……杏奈来たよ。頑張っててくれたの?」
一気に自分の目から涙が溢れ出る。子供の頃過ごした思い出が一気に蘇った。
仕事でいない両親の代わりに夕飯を作ってくれたばあちゃん、適当な調味料配分なのになぜか美味しい。ばあちゃんの作るチャーハンは、未だうちのお母さんも再現できない。
いつだって明るくて優しいおばあちゃんだった。祖父が亡くなった時も気丈に振る舞って、そのうち会えるからって微笑んでいた。
友達が多い人だった。習い事だの旅行だの多趣味な人だった。
「ばあちゃん、わかる? おばあちゃん。可愛がってくれてありがとう。いつも笑ってたけど痛かったよね、もう頑張らなくていいよ」
自分の涙が溢れてベッドのシーツにシミを作った。母の鼻を啜る音が響いている。
祖母は返事を返さなかった。ドラマみたいに、最期だけ意識を取り戻して、なんてことはなかった。
それでも、私の言葉が聞こえていたように、彼女の力は尽きられた。規則的に聞こえていた心電図の音が、高く長い継続音と変わる。
ほぼ同時に病室に医師と見られる人がはいってきた。ベテランであろう男性医師は、私が手を握っているのを見て、ああ、と小さく呟く。
「待ってらしたんですね。お孫さんを」
「え……」
彼はそれだけ言うと、ペンライトを取り出して死亡確認を行なった。
ばあちゃんは、とても穏やかな顔だった。
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