第2話 乗ってみた。
震える手でそれを開き、内容をさらりと読んだ。
「そうですね、確かに私は(三次元の)男には興味ありません」
「でしょう?」
「でも、だからといって好きでもない方と結婚するのは人間としていかがなものかと……とても魅力的なお話ですが、他にもっといい方がいらっしゃいますよ」
笑って書類を閉じ、彼につき返す。早くこの話題から逃れたかった。おかえり願いたい。
それでも、藤ヶ谷さんは引かなかった。
「結婚など紙切れの上のことです。あなたも、結婚しろと周りからぐちぐち言われるのに辟易してませんか」
ぐ、っと言葉を飲んだ。それだけは図星だったのだ。
両親は実家に帰るたびにいい相手はいないのか、見合いでもどうだ、と突っついてくる。結婚なんてする気はないと散々言っているのに、だ。
形だけでも旦那がいれば両親は安心するかも……
って、いやいや!!
「まあそれはありますけど、それでもさすがにこのお話は……」
「おばあさま、入院されているそうですね」
彼が発した言葉に、はっと止まる。
いつのまにか真剣な眼差しになった藤ヶ谷さんは、私をまっすぐに見つめていた。
「ど、どこでそれを……」
「おばあさまも、あなたが結婚したと知れば安心なさるのでは」
痛いところをつかれた。
事実、おばあちゃんは末期の癌で入院していた。年齢も年齢なので、積極的な治療はせず穏やかな終末期を送るための入院だった。
私は幼い頃からおばあちゃんっ子だった。優しくて、大好きな人。私が結婚相手を見つけたとなれば、大変に喜ぶのは目に見えていた。
強く拳を握る。
「し、しかし……」
「契約書読みましたか。あなたにとってもいい条件のはずですが。
・夫婦完全別室、お互いの部屋には入らない
・仕事は辞めるも続けるも自由
・お互いの恋愛も自由
・形だけの夫婦とはいえ藤ヶ谷家の資産は好きに使っても良い
・とにかく仲睦まじい夫婦を演じるのに努める
他にも多々。
私は仕事が忙しいので帰宅は遅いですからあまり顔を合わせませんし、ルームシェアしてると思ってもらえればいいです」
書類をひらひらと揺らしながら、彼はそう言う。
……そりゃ確かに、一生誰とも結婚するつもりがない私にとってもいい条件だとは思う。
でも、ほとんど話たことのない男性と一つ屋根の下って。さすがに……
ちらりと彼の顔を見る。ニコリと、藤ヶ谷さんは笑った。
「私より自慢できる夫は他にいませんよ」
「凄い自信ですね……」
「なんなら、一、二年経った頃離婚してもいいのです。お互い結婚に失敗したという経験があれば、もう両親に小言を言われなくても済むでしょう」
「ああ、確かに……」
「いかがですか。おばあさまのために」
いい条件。良すぎる条件がゆえ疑わしい。でも、この人の場合詐欺を働く必要もないほど金持ちだろうし身元だって割れている。相手としてはこの上ない好条件。
嫌なら離婚も可能、顔よし仕事もできるし。おばあちゃんの喜ぶ顔、見れたらなぁ。
でも他に好きな女がいる男と結婚、かあ……
…………
いや、私だってオーウェンという好きな男が他にいるし。お互い様じゃん??
「いいですね。結婚しましょうか」
狂った提案に、狂った回答をした。私も相当思考回路がぶっ飛んだ女らしい。
その瞬間、さっきまで自信満々にプレゼンしていた藤ヶ谷さんは、目を丸くして手に持っていた書類をはらりと落とした。
私は慌ててそれを拾う。
「落ちましたよ」
「……いえまさか、こんなにすんなり事が進むとは思っておらず」
あれほど自信家だったくせに、かなり驚いているようだ。まあ、それもそうか。私も自分で自分の正気を疑う。
それでもおばあちゃんの笑顔と両親の小言避けは私にとって大きなメリットだった。それに三次元が愛せない私にとって、他の女に熱を上げてくれた方が気が楽だというのも事実。普通ならここが一番駄目なところなんだけど。
「それより、そのお相手の女性は藤ヶ谷様が他の女と結婚することに対して許可されてるんですか?」
「ああ、ええそれは。両親と会社のためということは理解してくれてますし、契約による形だけの結婚とわかってますから」
「ふうん……?」
シングルマザーと言っていたけれど、こんな好条件の男との再婚話を断り続けて、さらには他の女との結婚を許すなんてその人もまた中々変わったお人と言える。
不思議そうにしている私に、藤ヶ谷さんは笑った。
「大丈夫ですよ、決して女同士の闘いに発展させません」
顔に出ていたらしい。
「そこも契約に加えておいてください。下手に逆恨みされて揉め事はごめんなので」
淡々と言い放った私の言葉に、彼は少し面食らったような顔で苦笑した。
「冷静ですね。噂以上に冷静沈着な方でいらっしゃるようで」
「ええ、こういう時こそ冷静でいなくては。契約はお互いの理解と納得があってこそです。不利益なものは契約いたしません」
ニッコリ笑って言った私に、彼は小声で笑う。
「素晴らしい。やはりあなたに声をかけて正解だった」
藤ヶ谷さんはふう、と一度息を吐くと、再び余裕のある笑みを浮かべて断言した。
「決して後悔はさせません。どうぞよろしくお願いします、私の奥さん」
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