目を開けた時、最初に目に入ったのは見知らぬ天井だった。


 少しだけ頭に鈍い痛みがあったけど、体が動かないわけではなかったので、もぞもぞと起き上がった。


 周りを見渡し、ようやく状況を理解する。


 ああ、そうか……ひとり納得した。


 ここは修学旅行先の旅館である自分に割り当てられた部屋だ。外を見ると、太陽があと少しで山に隠れようとしていた。


 まだ就寝時間でもないのに、何故俺はここで寝ている?

 混乱している自分の記憶をまさぐる。


 確か城南宮へ向かっていたはず……。


 でも道に迷って違う所へ行こうって話をしていたような、でも、そっちは何だかイヤな気配がして……。


 ズキンと胸がうずいた。その胸の痛みに記憶が蘇る。

 夢と言い切るにはリアルすぎる、けれど、現実だとしたら何もかもが幻想めいていた現象に戸惑いしかない。


 甘楽に似た男……あれは誰だったのだろう。


 憎しみに満ちた女性の声が、下界の使者だとすれば、救ってくれたのは天界からの使者という事だろうか。


 でも、忍者の恰好をした天使というのは聞いたことがない。


 まあ、死後の世界に行った者の声を聞いたことがないので、実際はどうなのかなんて、誰も知らないんだけど……。


 考えたところで、何ひとつ答えが見つからないことに苛立ちが募る。


 気分を変えようと、何か飲み物でも買ってくるかと立ち上がった。

 数歩進んだところで、部屋の隅で腕を組みあぐらをかいて眠っている甘楽の姿を見つけた。


 なんで甘楽が? と思ったが考えたところで答えが出るわけじゃなかったから、早々に考えることを放棄した。


 とりあえず起こさないようにそうっと歩く。 


 甘楽の横を通り過ぎようとした時、甘楽の目がゆっくりと開かれた。

 目が合った瞬間、ジロリと睨みつけられた。


「あ……ごめん、起こしたか?」


 尋ねたが、甘楽は何も答えずにただ俺のことを睨みつけてくるだけだった。何か言葉を紡ごうとしたが、何も言葉にならずに甘楽を見つめることしかできなかった。


 すると甘楽は、緩慢な動作でポケットからメモ用紙を取り出すと、その一枚を口元へ持っていき、何やらブツブツと呟いた。


 あろうことか、甘楽が手に持っていたメモ紙は、手裏剣のようなものに姿を変えた。


 甘楽は何を思ったか、それを俺めがけて投げつけてきた。


「散れ」


 鈍い動きにも関わらず、その手裏剣は勢いよく飛んで行く。

 シュッという音を立てて、俺の顔スレスレを飛んで行った。


 何がどうなった?


 頭はクエスチョンマークでいっぱいになった。

 突然、甘楽が投げつけてきたことにも驚いたが、それ以上に、単なるメモ用紙が甘楽の手の中で、手裏剣になったことに目を疑った。


 見間違いかと思って慌てて飛んで行った先を見たが、甘楽が投げたそれは、確かに手裏剣でしっかりと壁に突き刺さっていた。


 驚いたのはそれだけじゃない。


 その手裏剣は、どす黒い塊を突き刺さしていたのだ。

 そして、シュウシュウという音を立て煙となって手裏剣ごと消えてしまった。


「なななななななななんだ、あれは」


「邪鬼」


 聞くまでもなく、手裏剣が刺さっていたのは紛れもなく邪鬼だった。それは俺もよく見知ったモノだ。


 けれど俺が聞きたかったのはそんな事じゃない。いや、それも気になるが、それよりも気になることがあった。


「い、今お前、紙を……、でも……それが手裏剣になって、それで……え? えぇぇぇ!」


「うるせぇ~」


 甘楽はおもむろに顔を歪ませる。


「だって……手裏剣が邪鬼を……」


「それがどうした」


 慌てふためく俺に対して、甘楽は至って冷静だ。


「ど、どうした、だと? な、何なんだよ、あれはッ!」


「ちょっとした手品だ」


 うわぁ~、すごいな。どんな仕掛けだ?

 とでも言うと思ってんのか?


「んなわけあるかッ!」


 手品であるはずがない。

 けれど、甘楽は取り合おうとしない。


「うるさいなぁ~」


 面倒くさそうに立ち上がると、甘楽は部屋を出て行こうとする。


「お、お前も……」


 見えるのか、と聞こうとして言葉を飲み込んだ。


 これまでそんなことを聞こうと思ったことなど一度もない。聞いたところで変に思われるだけだ。


 けれど、聞かずにはいられなかった。

 立ち去ろうとする甘楽を引き止めようと、いったん飲み込んだ言葉を吐きだした。


「お前も……見えるのか?」


「見えるけど」


 あまりにもあっけない回答。


 それがどうした、と言わんばかりの甘楽の答えに愕然とした。

 これまで見えることでずいぶん嫌な思いをしてきた。


 喰われてもいいと思えるほどに……。


 俺がこれまで必死に隠してきたことを、躊躇して言葉にできなかったことを、甘楽はサラッと言ってのけた。


 それは俺も見えるからなのか?

 だからこんなにもあっさりと答えられたのか?


 そうだとしても、見えることに対する拒絶や絶望といった負の感情は、甘楽の言葉からは一切感じられない。


 脳裏に、霧の中から助け出してくれた男の顔が重なる。目の前にいる甘楽とはずいぶんと雰囲気が違うが、声も顔もそっくりだ。


「お前って双子の兄弟とかいる?」


「いない」


「じゃあ、顔がそっくりな兄弟は?」


「身辺調査か? 答えてやる義理はない」


 確かに、これまであまり話をしたことのないヤツに、そんな話はしたくないのは当然かもしれない。


 そっけなく言い放つと、話は終わりとばかりに甘楽は部屋を出て行こうとするので、慌てて甘楽を引き止めようと手を伸ばす。


 だが、足が縺れてバランスを崩し甘楽に体当たり――しそうになったが、サッと甘楽がよけたので、俺は壁に激突した。


 そこで勢いよく襖が開いた。


「甘楽~。宗介に襲われてないか?」


 入ってきたのは匠実だった。

 壁に激突して痛みに悶える俺を見て、匠実が天を仰いだ。


「遅かったかぁ~。すでに撃沈された後だったか」


「だッ、誰が襲うかッ!」


「いきなりぃ~、突進してきてぇ~、びっくりしたぁ~」


 甘ったるい声を発した甘楽。


 思わずよしよしと頭を撫でたくなる可愛さだが、加害者扱いされて黙っているほどお人よしではない。


「違うだろッ! 足が縺れて倒れそうになっただけだろ」


 と言ったところで、案の定話を聞いていない匠実。


「やっぱり二人っきりにしたのはまずかったか。けど、もう大丈夫だ。俺が来たからには甘楽に指一本触れさせないぞッ!」


 ヘンなやる気をみせる匠実に、俺は深いため息をついた。


「おいおい、人を強姦魔のように言うな」


「押し倒して制服を脱がせようなんて、立派な強姦魔じゃないか」


 匠実が至極真面目な顔で言った。


「話が脚色どころかすり替わっているぞ。誰が押し倒したって? 誰が誰の服を脱がせようとしたって?」


 痛みも忘れて思わず胸ぐらをつかんだ俺に、匠実がガハハと笑った。


「それだけ元気なら大丈夫だな」


 その言葉に本気で怒った自分がひどく滑稽に思えて、スッと手を放す。


「マジ焦ったぜ。真っ青な顔して倒れちまったから、女子たちは大騒ぎだよ。甘楽がひとり冷静でさ、すぐに先生に連絡とってタクシーひろってくれたから助かったよ」


「え? 甘楽が?」


「そ、ひょいっとお前をお姫様抱っこしてさ、颯爽と歩いている甘楽、マジで超カッコ良かったぜ」


 背は同じくらいだが、どう見ても自分の方がガタイがいい。どこから見ても女の子にしか見えない甘楽が、大の男を担いでいる姿を想像して思わず顔を覆った。


「俺、マジだっせぇ~」


「確かに、女子にお姫様抱っこされた男の絵面は見るに耐え難い。しばらくは『甘楽ちゃんに助けられたひ弱な宗介くん』として注目の的確定だな。甘楽の株はうなぎのぼり、逆にお前の株は急降下だ。でも」


 匠実はいったん言葉を切ると、俺の肩をガシッとつかんだ。


「あの後、女子二人と行動を共にしなければならなかった俺と比べれば可愛いもんだ」


「両手に花じゃないか」


「ふざけんな! やれ喉が渇いただの、小腹がへっただの、どこぞのカフェでスイーツを食べたかと思ったら、あっちの店こっちの店と土産物屋のはしごだ。こっちの意見なんか完全無視。楯突こうものなら罵詈雑言の嵐だぜ。あれを地獄と言わずになんとする! 俺は初めて義姉にいじめられるシンデレラの気持ちがわかったよ」


「意外と乙女だな、匠実」


 茶化す俺を、匠実がジロリと睨む。


「あんな鬼のような女子と一緒にいるくらいなら、男でも甘楽と一緒にいたほうが、よっぽどマシだ! 甘楽~、俺を慰めてくれ~」


 匠実は甘楽に抱きつこうとしたが、あっけなく玉砕される。


「ぐえっ」


 匠実は熱い抱擁の代わりに膝蹴りをお見舞いされ、その場に崩れ落ちた。

 短いうめき声を吐いた匠実に、甘楽が容赦のない声を浴びせる。


「鬱陶しい」


 思わず合掌。


 踏んだり蹴ったりというのはこういう事を言うのだろう。うずくまる匠実をしり目に、これ以上甘楽から話を聞き出すのは無理だと観念する。


 気を取り直し、俺は当初の予定通り飲み物を買いに行こうとして数歩行ったところで足を止めた。


「お礼にジュース奢るよ。何がいい?」


「コーラ、あとなんか食べたい。腹減った」


 そう言った甘楽の腹の虫が、ギュルルとタイミングよく鳴いた。

 甘楽の腹の虫の鳴き声を聞いて、自分の腹の虫も共鳴したかのように鳴きだした。


「そう言えば昼飯食ってなかった。もしかして甘楽も食べてないのか?」


 自分のせいで昼飯を食べそこなったのだとしたら、申し訳ないことをしたなと思っていたところ、痛みに転げまわっていた匠実の動きがピタリと止まった。


「あれ? 先生が甘楽の分と宗介の分の弁当を用意してたけど、食ってねえの?」


 甘楽はバツが悪そうにそっぽを向いた。


「もしや……甘楽お前、宗介の分まで食ったな」


 指をさす匠実の手を下げつつ、甘楽がコホンとわざとらしい咳ばらいをした。


「だってぇ~、腹減ったしぃ~、全然起きないしぃ~……」


「可愛い声で言ってもダメ! お前二人分食べといて、まだ腹減ってるの? 甘楽、ホントよく食うな。その割に太らないのはなんでだ? 実はお前の中に相撲取りでも入ってんじゃねえの?」


 匠実は甘楽の背中にファスナーを探す。

 甘楽がクスッと笑った。


「野郎が俺に告ってきた時、ファスナーを下ろして中から相撲取りが出てきたら、面白いだろうな」


 冗談で言った匠実の話を引き取り、さも出来ますと言わんばかりに話す甘楽。


「ってそんなことありえないだろ」


 自分で言っておきながら、ばかばかしいと呆れる匠実だが、先ほどメモ用紙を手裏剣に変えたところを見たばかりの俺は、甘楽なら出来そうだと思ってしまう。


 そして、実際にその手を使って告白する男子生徒の度肝を抜きそうで、俺は思わず身震いした。


「ってか甘楽、宗介の分まで弁当食った事、うやむやにしようとしてるだろ」


 当人以上に怒りを露わにする匠実に甘楽が首をひねる。


「なんでお前が怒ってんだよ」


「だって俺もコーラ飲みたいじゃん」


 訳の分からない理由を口にする匠実に、俺は深いため息をついた。


「意味わかんねえけど、匠実にも迷惑かけたから、奢ってやるよ」


「やったぁー」


 そう言って何故か甘楽とハイタッチ。


「よくわかんねぇ~」


 そう言い捨てて、俺は自販機を探しに部屋を出た。






 その夜、不思議な夢を見た。


 暗闇だった景色が、次第にはっきりと見えてくる。

 昼間見た六条院と同じような造りの建物。


 その中の一室に、ひっそりと座っている女性がいた。鮮やかな着物を着た女性は、なんだかとても寂しそうに見えた。


 闇に溶け込むような黒く艶やかな長い髪。

 どこか儚げなその女性の大きな瞳は憂いを帯びていて、せっかくの美貌に影を落としていた。


 ほんのり光を放っているかのような白い肌に、一粒の涙が零れ落ちた。


『わらわは、あの方を愛おしく想っているだけなのに……』


 悲しみと憎しみが混ざったような声だった。


『なにゆえ……なにゆえ、このような仕打ちを受けねばならぬ』


 はらはらと泣くその女性の声は、次第に憎しみが強くなっていく。


『おのれ、許さぬ』


 はっきりとした憎悪が声に宿ると、女性はゆっくりと闇に包まれていく。

黒く暗い闇の中に、女性は身を委ねる。


 黒い繭に包まれた女性の思念だけが、その場に漂う。


『あの方に……あの方にひと目、ひと目だけでもいいから……もう一度会いたい』


「会いたい……」


 俺は自分の声で目が覚めた。


 起き上がると腕に冷たいものがポタポタと落ちてきた。

 すぐに自分が泣いていることに気付き、慌てて涙を拭う。


 とても切なく、悲しい夢だった。


 同調するほどに……。


 ほんの少しだけ、肩の傷が熱を帯びた気がした。

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