賽が舞う
和久井 葉生
壱の目
⚀
「たすけて……たすけてッ!」
叫んだところで、誰も助けてくれない。
必死に逃げている僕のことを、みんなは変な目で見ている。
『変な子』
『気味が悪い』
そんな声が聞こえてくる。
僕がどうして逃げているのか、何から逃げているのか、みんなは知らないから……見えていないから勝手なことを言う。
どうしてみんなには見えないんだろう。
あんなにはっきり見えているのに……。
大きくて鋭い牙、尖った爪、恐ろしい顔をした鬼が僕を食べようと追ってくる。
「お願い……僕を食べないで……」
叫んでも聞いてくれるわけがない。
鬼は口からよだれを垂らして追ってくる。
あと少し……。あと少しで家に着くのに……。
もっと早く、もっと遠くに逃げたいのに、息が苦しくて、足が痛くて……。
「あっ――!」
気づいた時には地面を転がっていた。
すぐに立ち上がって逃げなきゃ……。
でも、鬼は僕のすぐ近くにいた。
物凄い怖い顔をした鬼が、僕の顔を見てニヤリと笑った。
早く……、早く逃げなきゃ。
そう思うのに、足がガクガクと震えて力が入らない。
もう、立ち上がることもできない。
鬼が僕の肩を掴んだ。
鋭く尖った爪が右の肩に食い込む。
その手を払おうとして左手で鬼の手を握った瞬間、ジリっと何かが焼けたような音がした。
『ギギッ……』
鬼が慌てて僕から離れた。
でもそれも一瞬のこと。
ものすごい力で鬼に払い飛ばされてしまった。
吹っ飛んで地面に転がった僕の上に、すぐさま鬼が飛び乗ってきた。
どうして、僕ばかり狙われるの?
どうして、みんなには見えないの?
どんなに説明しても、わかってもらえない。
お父さんやお母さんは、鬼の話をすると悲しそうな顔をするだけだ。
友だちには嘘つき呼ばわりされて、笑われてばかり。
けれど、もうこれで終わりだ。
不気味なモノに追われて、怖い思いをするのは今日で終わり。
僕はこの鬼に食い殺されるんだから……。
鬼の息が耳元で聞こえ、牙が首を突き刺そうとした。
もうダメだ……そう思った時――。
真っ黒い霧が現れ、僕と鬼を飲み込んだ。
『ギギギギギギギ』
耳障りなギトギトした鬼の叫び声が聞こえた。
その後に、女の人の声が暗闇の中から響いてきた。
『それはわらわのモノ。お前ごときの餌ではない。 去ね』
ふわりと風が舞ったっと思ったら、ドサッという音ともに生臭いにおいがその場に漂った。
目の前に黒い塊が転がっている。
よく見たら、それは切り落とされた鬼の腕だった。
『ギィィィイイイイイイ――』
鬼は雄たけびのような叫び声をあげると、残っているもう片方の腕を黒い闇の中へ伸ばした。
何か掴んだのか、鬼がニタリと顔を歪めた。
すると闇の中から着物を着た女の人が、鬼に首を掴まれて出てきた。
鬼は爪が食い込むほど強く女の人の掴んでいるのに、女の人は苦しんでもいなければ、痛がってる様子もない。
きれいな顔に笑みさえ浮かべている。
すでに死んでしまったのかと思ったけれど、その人が声を立てて笑った。
『言葉も話せぬ下等なモノが、わらわを喰らう? 笑わせるな。お前などわらわの髪すらも切れぬわ』
ギリギリギリ……と鬼が歯ぎしりをすると、また鈍い音と生臭いにおいが鼻をつく。
女の人はピクリとも動いていなかった。なのに、もう一方の鬼の手も地面に転がった。
鬼の手から自由になった女の人はふわりと地面に着地すると僕をチラリと見た。
『同じ匂いがするのにあやつとはずいぶんと違うのう。こんな腰抜けを守れとは……ほんに人の考えることは分からぬ……』
呆れた言葉なのにその言葉を口にする女の人の目はとても悲しそうだった。
その時、鬼が物凄い形相で女の人に襲い掛かっていった。
「危ないッ!」
思わずそう叫んでいた。
けれど、女の人は驚きもせず、少しだけ手を動かした。
袖を払うようにほんの少しだけ。
すると、すぐそこまで迫ってきていたはずの鬼が、一瞬にして霧となって消えてしまった。
何が起こったのか全然わからなかったけれど、僕を襲おうとしていた鬼はどこにもいなくなっていた。
目の前にいるこの女の人が鬼を霧に変えてしまったのだ。
人間そっくりな女の人。
でも、このヒトは人間じゃない。
人間ではないけれど、これまで見てきたヒトじゃないモノたちとは違う。
いつだったかおじいちゃんと話をしていた妖怪だ。
ボーっと見つめる僕を、女の人がジロリと睨みつけた。
『早く逃げよ。下等なモノたちがまだウヨウヨしておる。喰われたくなければ、さっさとこの場から立ち去れ。二度は助けぬぞ』
「どこか……痛いの?」
女の人が首を傾げた。
『何を呆けたことを……』
女の人は泣いていた。
でもそのことに、女の人は全然気づいていないみたいだった。
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
女の人はハッとしたように、袖で顔を隠した。
『さっさと 去ね、お前を喰らうぞ』
僕を脅そうと、女の人は怒鳴った。
でも、なぜか全く怖いと感じなかった。
涙でぬれた瞳が、とても哀しい色をしているからだろうか。
「あなたは僕を食べない……でしょ?」
『ふんッ、戯けたことを。わらわも妖ぞ。人間の子を喰らうことなど造作もないことじゃ』
「でも、あなたは僕を食べない」
女の人の瞳が一瞬だけ揺れた。
『何故そう思う?』
「あなたの瞳はとてもきれいだから――」
そう言った僕の顔を、女の人はひどく驚いた顔で見つめた。
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