第38話

この日は母親も緊張している面持ちで、その緊張は蘭にもうつってしまっていた。



それから10分ほど経過したとき、スーツ姿のスラッと背の高い男性が現れていた。



男性が現れると同時に母親は微笑を浮かべ、席を立つ。



蘭もそれにならって椅子から立ち上がった。



「少し遅れたかな、ごめん」



男性は高級そうな腕時計を見て言った。



「大丈夫よ。今来たところだから」



母親の声は一オクターブ高くなっている。



こんな声を聞くのは久しぶりのことだった。



「やぁ、はじめまして。君が蘭ちゃんだね?」



男性に名前を呼ばれて蘭は背筋の伸ばし、笑顔を作った。



「はい。はじめまして」



ぎこちなく頭を下げると男性は感心したように頷いた。



「しっかりと挨拶ができる、いい子だね」



今のは母親へ向けて言われた一言だった。



母親は満足そうに微笑んでいて、ホッと胸を撫で下ろした。



どうやら今の感じでよかったみたいだ。



それから母親が蘭へ向けて男性のことを紹介した。



蘭が思っていた通り、この人が平野さんという人のようだ。



平野さんはなんでも注文していいよと蘭に言い、メニューを手渡してきた。



しかし、目につくのは昔3人で食べたものばかりだ。



この席でそれを注文するのはきっと危険だ。



そう思った蘭は焦り、横目で母親を見た。



母親はまるで女神様みたいな視線をこちらへ向けている。



蘭がなにをしても許してもらえそうな雰囲気。



しかし、蘭はいつも注文していた食べ物は口には出さなかった。



食べたことのない、よくわからない漢字の食べ物を指差して「これがいい」と、伝える。


「あら、これは少し辛いけれど、大丈夫?」



横から見ていて母親に言われ、蘭は大きく頷いた。



本当は辛いものは苦手だけれど途中変更はゆるされないと思った。



結果、出てきた麻婆豆腐は火を噴くほどに辛かったけれど、どうにか食べきることができた。



何事もなく食事は進み、平野さんは高級車で蘭と母親をアパートまで送り届けてくれた。



車を見送っているときの母親はまるで夢を見ているお姫様のような雰囲気をまとっていた。



とにかく、蘭は今日の大きな行事をやりきったのだ。



玄関に入った瞬間全身から緊張が解けて座り込んでしまいそうになった。



「お母さんね、平野さんの再婚しようと思ってるの」



まだ夢着心地の母親は蘭にそう言った。



食事をしているときから、そうなのかもしれないと思っていた。



平野さんはカッコイイし、お母さんはまだ若い。



一緒になってもなんの問題もなかった。



ただ2人の間で問題になるとすれば、蘭のことだろう。



だけどそれも平野さんが承知してくれたからこそ、今日の食事が実現したと思っている。



「いいと思うよ」



蘭は何と言っていいかわからなかったが、否定だけはすまいとしてそう答えた。



途端に母親は中腰になり、蘭の体を抱きしめた。



蘭は困惑し、逃げることも抱きつくこともできずに立ち尽くす。



母親のぬくもりを感じたのは本当に久しぶりのことだった。



あの、父親の葬儀の日、冷たい言葉を投げてきた母親と同一人物だとは思えないぬくもり。



「ありがとう……ごめんね、蘭」



蘭にとっては突如現れた平野という男性のおかげで、母親から蘭への虐待は止まることとなった。



再婚後の母親は今までの自分の幸せを取り戻そうとするように、快活で明るくなった。



毎日食事を作り、掃除をして、時間がある時に茶道を習いに行くようになった。



家だって、アパート暮らしから一軒屋に引っ越すことになり、蘭の暮らしも一変することになった。



お金や愛情に余裕があると、これほどまで違う景色を見ることができるのだ。



蘭はそのことに感激し、また死んでしまった父親に申し訳なくもなった。



お金はなかったかもしれないが、あの生活も幸せなものだった。



なにより、前のお父さんがいなければ蘭はこの世には生まれていなかったのだから。



平野さんは優しくて蘭の遊び相手もよくしてくれた。



死んだ父親の墓参りにも一緒に行くし、文句のない紳士だった。



それでも蘭の心から完全に傷が消えることはなく、体の傷はいまだに生々しい痕を残したままだった……。

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