第34話

☆☆☆


「蘭の服、買わないとな」



彰が蘭の後ろでそう言った。



2人で裸になり、ひとつのシャワーを浴びている。



「あたしは、大丈夫です」



蘭は緊張しながら返事をした。



窓から差し込む日差しは眩しいくらいに浴室に反射している。



キッチンのあの薄明かりの中とはまるで違う。



「どうして? 俺の服ばかり着てちゃダメだろ?」



蘭からすればそれも嬉しいことのひとつだったが、彰は気がつかない。



「お金のことなら心配しなくていい。これから先の生活費も考えてバイトしてたから、たくわえはあるんだ。もう、必要なくなったけど」



『もう、必要なくなったけど』



その言葉に蘭は思わず振り向いた。



彰の肌にシャワーの水滴が滑り落ちていく。



病弱であまり筋肉質ではない体。



だけど無駄な脂肪も少しもない体。



つい、視線が吸いつけられてしまう。



気がつかない内に舌なめずりをして、その体をほしいと思ってしまう。



蘭はゴクリと唾を飲み込み、慌てて前を向いた。



「それなら、彰さんがやりたいことに使いましょう。彰さんのお金ですから」

そう言うと彰は少し考えて「それならやっぱり蘭の服を買いに行こう。まずは蘭のためにお金を使いたい」と、答えた。



そう言われると断ることはできなかった。



蘭はうなづくしかない。



それから彰は蘭の背中に自分の指を這わせた。



蘭はその感覚にビクリと震える。



全身の感覚が背中に終結してしまったかのように、敏感にその指を感じ取る。



「蘭、俺はもうすぐ死ぬ」



蘭は頷いた。



もうそれは紛れもない事実だとわかっていた。



そしてその事実があったからこそ、自分たちはこうして一緒にいることになったのだと。



「だから、もう誰にも話すことはできなくなる」



それは、彰が自分の生い立ちを話すときにも言っていたことだった。



もう蘭以外の人間と話をすることはない。



だからこそ、教えてくれたこと。



「今度は蘭が教えてくれないか?」



彰の指は相変わらず蘭の背中をなでている。



その指先の感触は少しくすぐったい。



そしてその指が今どこをなでているのか、蘭はすでに知っていた。



「この傷、どうした?」



いつかは聞かれると思っていた。



最初に抱かれたあの時から、彰はきっと気がついていたはずだ。



蘭の背中にある、大きな傷跡に。



それだけじゃない。



蘭の体には他にも無数の傷が残っていた。



太ももや二の腕。



服に隠れる部分はすべてと言ってもいい。



どれも古くほどんど消えかけて、黒ずみになっている傷もある。



彰に触れられたって少しも痛くない。



「大したことじゃないの」



服で隠れる傷は今まで誰からも触れられたことはなかった。



体育の授業の日はさざと遅れて着替えをしたし、学校で水泳時の授業がなかったことも幸いしている。



だからこうして面と向かって傷について質問されることも、初めての経験だった。



「誘拐犯の俺には言えないこと?」



その言葉に蘭はハッとして振り向いた。



そんな言い方をするなんてずるい。



そんな風に言われたら、話さざるを得なくなると彰だってわかっているはずだ。



彰は蘭の両肩に手をやり、体を自分の方へ向かせた。



そして、傷口にキスを落とす。



そこから全身へ向けて熱が放射されていくような気分になった。



「聞かせて。ゆっくりでいいから」



彰はそう言い、小さな傷をひとつも見逃さないように、蘭の体に口付けを続けた……。


☆☆☆


蘭はごく普通の幼少期を過ごしていた。



父親と母親と自分の3人暮らし。



蘭は活発で男の子の友達をよく遊ぶ子供だった。



それは小学校3年生になっても変わらず、学校ではもっぱら男の子たちと一緒にサッカーやドッヂボールなど体を動かす遊びを楽しんでいた。



「もう蘭ちゃんとは遊ばない。だって、あたしたちといてもつまらなさそうだもん」



「そうだよね。男の子とばっかり遊んでるし」



「あたしたちなんて友達じゃないんでしょう?」



それは誰とでも仲良くなれる蘭へのひがみだったかもしれない。



クラスで中のよかった3人の女の子たちから絶交を申しだされ、蘭はその場に立ち尽くしてしまった。



いくら男子たちと仲がよくても、そろそろ肉体的にも精神的にも男女の区別ができてくる。



そんな時に一緒にいてほしいのは、やっぱり同姓の友人たちだった。



だけどそんな風に思ってももう遅い。



蘭は今まで彼女たちを二の次に考えてきて、それが原因で仲たがいしてしまったのだから。

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