第18話
彰はもう何かを言う気力もなくなって、後はただおいしそうなカレーの匂いに惑わされるだけだった。
そう言えば今日はまだなにも食べていない。
最後の晩餐は昨日の内に済ませたし、今朝のうちに死ぬつもりでいた。
それが台無しになって死ぬ気力までなくなってしまった。
そうなると不思議とお腹が空いてくる。
今朝まで死ぬ気でいたのに、今は生きるための欲求が沸いてきているのだ。
「カレー、食べますか?」
蘭に聞かれて返事をする前にお腹が鳴った。
恥ずかしいと感じる前に蘭は微笑み、炊飯器の前に立った。
「早炊きにしますから、30分くらいで食べられますよ」
「あぁ」
返事をしたものの、彰には早炊きというものがなんなのかわからなかった。
米は予約もなにもせず、ただスタートボタンを押すだけだったからだ。
米が炊けるまでの間、彰は家中を確認していた。
和室も風呂場もきれいになっている。
蓄積された匂いは完全には取れていないけれど、それでも随分と清清しい空間へと変わっている。
和室にある一枚板のテーブルにはゴミかどうか判断しかねたものまで、ちゃんと置かれていた。
彰に目を通してもらってから捨てるつもりなのだろう。
ほとほと呆れながらテーブルの前に座り、それらを確認していく。
小型ゲーム機に、充電器、クリアファイルに、大学で使っている教科書やノート。
その中に混ざって入院案内のパンフレットを見つけて、彰は手を伸ばした。
余命宣告されたあの日以来、一度だけまた病院を訪れた。
その時にはすでに入院する気なんてなかったのだけれど、痛みを取る為の薬だけもらいに言ったのだ。
その時にまた同じように渡されたものだった。
死を待つ人が、穏やかな最後を迎えるための病院。
そこには年をとった人ばかりでなく、彰のような若い患者も沢山いるということだった。
説明をしているときの医師の表情は冗談だと思うくらい穏やかで、優しいものだった。
医師が焦れば、患者が焦ってしまうからだとわかっている。
だけど医師の言葉は芝居地味で聞こえて、彰にとっては劇を見せられているような気分になった。
「入院、するんですか?」
後ろから声をかけられて振り向くと、蘭が立っていた。
その表情はひどく不安そうだ。
なにがそんなに不安なのだろう。
この状況か、それとも俺の存在が不安なのか。
「いや。入院はしない」
彰はそう答えて、パンフレットを破って見せた。
我ながらベタな演出だと思ったが、それで蘭は安心したようだった。
「ご飯が炊けました」
蘭にそういわれ、彰は口角を上げてうなづいたのだった。
☆☆☆
蘭の作るカレーはおいしかった。
普段からあまり自炊していないから、余計に人が作った料理がおいしく感じられるのかもしれない。
それ抜きにしても、やっぱりおいしいと感じる。
蘭は彰とひとつ椅子を空けて座り「どうですか?」と聞いてくる。
その表情はまた不安そうだ。
眉は寄せられていて、口元は笑っていない。
「うまい」
彰が簡潔に答えると、蘭は満面の笑みを浮かべる。
「よかった」
と、とても嬉しそうに、そして心底安心したように呟く。
彰はそんな蘭を珍しいものでも見るように見つめた。
「お前は俺が怖くないのか?」
その質問に蘭は笑顔を浮かべたまま左右に首を振った。
「怖くないです」
「どうして?」
「目を見ればわかります」
予想外の返答に彰は瞬きをして、思わず自分の目をこする。
それを見て蘭は楽しげに笑った。
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