第8話
両足で床を蹴ってどうにか男の近くまで移動しようとする。
が、そんなのうまくいくはずもなく、椅子ごと横倒しに倒れてしまった。
激しい痛みが蘭の体を貫く。
気がつけばここに来た当初のように涙が滲んできていた。
周りの景色がボヤけて見えにくくなる中、蘭はカッターナイフに視線を奪われた。
男が蘭の足元に準備したものだ。
蘭は無理矢理涙を引っ込めると、一番近くにあったカッターナイフを口にくわえた。
舌で起用に刃を出すと、首を曲げてできるだけ後ろを向いた。
そして、プッとスイカの種を吐き出すようにカッターナイフを投げる。
カッターナイフは弧を描き、拘束されている椅子の後方へと落下した。
蘭は足で蹴るようにして椅子ごと少し移動すると、後ろ手に縛られている両手でカッターナイフの柄を握り締めた。
後はロープを切断するだけだ。
その間にも男の様子が気になって焦る気持ちが溢れだす。
5分ほどかけてどうにかロープを切断した蘭はすぐに男に駆け寄った。
1日中拘束されていた体は少し動かすだけで悲鳴を上げるほど痛かったが、それよりも男に駆け寄ることが先決だった。
「大丈夫!? ねぇ、目を覚ましてよ!」
懸命に男の体を揺さぶって声をかけるけれど、男は目を開けない。
しかし、胸に耳を当てるとちゃんと心臓が動いていることがわかった。
よかった、まだ死んでいない。
少し迷った蘭だが、決心したように階段を駆け上がっていく。
そして男がいつも開けていたドアを開いた。
ドアを開いた先には長い廊下になっていて、右手には庭が見える大きな窓があった。
左手には閉ざされた障子があり、ここが少し古い民家であることがわかった。
障子を開けて部屋の中を除いた瞬間、蘭は軽く顔をしかめた。
部屋の中にはゴミがたまり、ハエが飛んでいるのだ。
どこからか生ゴミの臭いも漂ってきて、衛生的によくないことは一目瞭然だった。
しかし、こんなところで足止めを食らっている暇はない。
蘭はゴミだらけの部屋に足を踏み入れて、キッチンを探し始めた。
和室が2つ並んでいて、奥の和室の障子を開けると玄関へ通じる廊下へ出た。
蘭の靴はそこに転がっていて、無理矢理脱がされたせいかソックスが一緒に脱げていた。
蘭はソックスだけ履くとすぐに家の中に戻った。
男は倒れているし、外へ通じる道もわかった。
しかし、そこから脱出する気は更々ない。
蘭はとにかくあの男を助けたいと思っていた。
それからキッチンと風呂場を見つけた欄は風呂桶に水をため、何枚かタオルを持って先ほどまで自分がいた部屋に戻ってきていた。
ここは地下室だったようだ。
どうりで、最初の時大声で悲鳴を上げても誰もこなかったわけだ。
急いで男のもとに駆け寄り、血で汚れている口元と手をタオルでふき取った。
口の中に嘔吐物がないか確認し、汚れていないタオルをぬらして男の額に当てた。
熱が出ている様子はないけれど、これくらいのことしか自分にはできない。
ついでに床の掃除も終わらせてから、蘭は再び家の中へと戻った。
和室の押入れを確認すると毛布があり、それを引っ張り出して両手に抱えた。
干したり洗ったりしてないようで少し湿っていたけれど、コンクリートの上にそのまま横になっているよりはマシなはずだ。
それから電話を探したけれど、固定電話は設置されていないのか見つけることができなかった。
かといって男が蘭に簡単に見つけられる場所にスマホを置いているとも思えない。
救急車とか、どこかの先生に往診に来てもっらったりしたかったけれど、それは諦めるしかなさそうだ。
蘭は毛布を抱えて再び地下室へと急いだのだった。
☆☆☆
男の目が覚めたのはそれから30分ほど経過してからだった。
うっすらを開いた目。
視界の中に蘭が写りこんだ瞬間、男は完全に目覚めたように勢いよく状態を起こした。
「まだ寝ていてください!」
蘭は慌てて男の体を支える。
しかし、男はそんな蘭の手を振り払った。
そして地下室を見回す。
倒れた椅子。
切られたロープ。
刃が出たままのカッターナイフ。
「自分でロープを解いたのか」
「はい。緊急事態だったので」
「じゃあどうして逃げながった!?」
逃げられて困るのは自分のほうなのに、男の声は荒くなる。
蘭はその怒号に一瞬身を固め、それから「ほっとけないでしょう?」と、答えた。
ほっとけない?
誘拐犯の俺のことがほっとけないだと?
蘭をマジマジと見つめる。
蘭は真剣な表情で男を見ていた。
やっぱりこの女は少しおかしいんだ。
かわいそうに。
自分が誘拐されてここにいるということも理解していないのかもしれない。
「助けてあげたんだから、質問に答えて」
「質問?」
男はその場に座り直し、蘭が用意していた水を一口飲んだ。
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