第4話
男が出て行った階段を蘭はジッと見つめた。
いつの間にか声の震えも消えてなくなっていた。
ここで目が覚めたとき、確かに蘭は恐怖で震えていた。
男が出現したときの計り知れない恐怖心だってちゃんと覚えている。
それでも今蘭の心は凪いでいた。
犯人の顔を見た瞬間から、蘭は自分の運命のすべてを受け入れたのだ。
ただ、蘭にも疑問はあった。
なぜ自分は誘拐されたのか。
そして、なぜ男は死のうとしているのか。
本当は質問したいところだったが、気持ちが高ぶってしまってうまく会話することができなかった。
でもいい。
男は明日決行だと言った。
それまでにまだ会話する時間はありそうだと、思ったのだった。
☆☆☆
そして、その蘭の想像は当たる。
1時間ほど経過したとき、男がスーパーの袋を持って戻ってきたのだ。
自殺道具が並べられているテーブルに、買ってきたものを順番に並べていく。
普通の弁当もあれば、パスタや丼、おまけにケーキやシュークリームまである。
蘭は呆れて男の買い物を見つめた。
「明日死ぬんでしょう?」
思わずそう質問すると、男は手を止めて蘭を見た。
「あぁ。最後の晩餐だ。好きなものを選べ」
どうやら男は蘭のために買ってきてくれたようだ。
妙な誘拐犯だと思い、蘭はつい笑ってしまいそうになる。
その笑みを必死でかき消して、蘭は口を開いた。
「食べ物はなんでもいいから、一緒に食事してくれる?」
そう言うと、男は目を見開いて蘭を見た。
その目はまるで異質な生物でも観察するような目だ。
「自分の状況を理解してるのか?」
「もちろん。あたしは明日死ぬ。これが最後の食事なんでしょう?」
蘭の声はだんだん明るくなっていく。
まるで自分が死ぬことなんて意に介していない様子だ。
男は調子が狂うようで右手で頭を強くかいた。
ここで蘭の申し出を断る事だってできた。
なにせ自分は蘭を誘拐してここまで運んできたのだ。
蘭に言うことを聞かせることは安易なはずだった。
それなのに……。
「わかった」
男はうなづいていた。
その瞬間蘭の表情がパァッと明るく晴れていく。
「ありがとう!」
明るい蘭の声がコンクリートの部屋の中にこだまして、男は顔をしかめた。
そしてせめてもの威厳とでも言うように「ただし、お前の拘束は解かない」
と、言ったのだった。
☆☆☆
男は蘭のためにサンドイッチの包装を解いていた。
「あたしそのサンドイッチ好きなんだ。スーパーの中にあるパン屋で売ってるやつだよね?」
蘭は男の手元を見てしゃべる。
その様子はすでに教室の中のおしゃべりと同じ調子だった。
一方、調子が狂っているのは男のほうだった。
愉快された相手というのはもっと犯人のことを怖がり、おびえて、助けてほしいと懇願するものじゃないのか?
すべてテレビや映画などで知っている知識だったけれど、少なくても蘭がこんなに元気な状態でいることは想定外だった。
男は蘭からの質問に返事をせず、サンドイッチをひとつ掴んで蘭の前に突き出した。
「あ、ありがとう」
蘭は嬉しそうに言って口を開ける。
男はその口にサンドイッチを入れた。
と、その瞬間。
蘭の舌が男の指をなめた。
男はビクリとして手を引っ込め、蘭を見つめる。
サンドイッチを食べることができなかった蘭は仏頂面になって「ちょっと、食べられないじゃない」と、口を尖らせる。
気のせいか?
男は気を取り直して再びサンドイッチを蘭の口元へ持っていく。
今度は舌が当たることもなく、食べてくれた。
「うん、やっぱりおいしい! 最後の晩餐としてふさわしい味だよね!」
本当に明日死ぬと理解しているのかどうか怪しいほど元気だ。
「お前、死にたいのか?」
男は蘭にサンドイッチを食べさせながら聞く。
「え、どうして?」
「動じてないようだから」
「死にたいわけじゃないけど、死ぬんでしょう?」
首をかしげて質問してくる蘭に、ますます調子は狂ってしまう。
「それはそうだけど、なにかあるだろう?」
男は怪訝な表情になり、蘭を見つめる。
「なにかって?」
首をかしげる蘭に、男の不信感は頂点に達した。
勢いよく立ち上がり、テーブルの上のカッターナイフを握り締めたかと思うと蘭の鼻先に突きつけた。
蘭は目を丸くして男を見つめる。
「お前は何者だ」
「何者って、保険証を見たなら知っているでしょう?」
そう言うと、男は弾かれたように階段を駆け上がる。
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