気付かないふりは、もうやめて
鈴木 桜
本文
「お前、苦手なら断れよな」
4月の夜は、まだ肌寒い。
薄手のカットソーに軽めのカーディガン。春らしいと思って選んだブルーのチュールスカートという格好では、さすがに冷える。
「苦手じゃないわよ」
新入社員歓迎会の席を、トイレに行くふりをして抜けてきた。今私は、会場の居酒屋が入っている雑居ビルの、外階段に座り込んでいる。
「真っ赤な顔して、なに言ってんだ」
そんな私を追いかけてきてくれたのが、同期入社の、この男だ。
「うるさい
「
言いながら、須藤がペットボトルを差し出してくれた。
優しさは無下にするものではない。ありがたく受け取った。
「うちの課長、お前のこと気に入ってるから気をつけろって、言っといただろ」
言いながら、須藤も私の隣に腰掛けた。
「暑い」
言いながらジャケットを脱いで、そのまま私の膝にかけてくれる。ジャケットを脱いだ瞬間、その肩が少し震えたのを、私は見逃さなかった。
だが、それには
「ありがと」
「ん」
私は開発畑の人間で、須藤は営業マンだ。同期とは言え、こうして話すのは久しぶり。
(……いや、昨日、話したな)
そうだ。
昨日、なぜか開発部まで来たのだ、この男は。
「ねえ」
「なんだよ」
「昨日のアレって、何だったの?」
「……」
返ってきたのは、沈黙だけだった。
昨日のアレとは、須藤の謎の捨て台詞のことを指す。もちろん、この男は分かっていて沈黙しているのだ。
『明日の飲み会、お前は絶対に飲むなよ。いいな!』
である。
せっかくの飲み会に、酒を飲まないという選択肢などあるはずがないのに。意味不明なので、もちろん無視した。
「ねえ、にゃんで、私は、飲んじゃダメなの!」
思わず、前のめりになって文句を言った。
そう。これは疑問ではない、文句なのだ。
「しょんなに、酒癖が悪いか!」
須藤の膝に手を置いて、思いっきり体重をかけたからだろう。お綺麗な顔が歪んだ。
「……そういうとこだよ」
ボソリと吐き出された言葉は、よく聞こえなかった。
「え? なんて?」
「……いいから、早く彼氏に電話しろ」
言いながら、須藤が差し出したのは私の鞄だ。
「なんで?」
「お前、もう帰れ。早く彼氏に電話して、迎えに来てもらえ」
二度、『彼氏に』と言われて。
(無理……)
心の中で、糸が切れるのが分かった。
──ポロポロ。
まさに、そういう擬音がぴったりくるほどに、涙が溢れ出した。
「ちょ、おい……」
須藤が焦っている。
自分が私を泣かせたと思っているのだろう。慌ててポケットを探っているが、ハンカチやティッシュを持ち歩くタイプの男ではない。
ややあって。
おずおずと、ワイシャツの袖で涙を拭ってくれた。
「なんかあったのか?」
「……フラれた」
「は?」
「フラれたのよ!」
二度目は大きな声が出た。そのままの勢いで、ポカスカと須藤の胸を叩く。完全に八つ当たりである。しかも物理。
「振られたって、お前、6年も付き合ってたのに!?」
「そうよ!」
「……なんで」
問われて、八つ当たりに勤しんでいた手を止めた。そのまま、目の前のワイシャツをギュッと握る。須藤はされるがままになってくれた。
「可愛くないんだって」
──ポロポロ。
口に出してしまえば、涙がいっそう溢れ出た。
「手に職持ってて、仕事できて、落ち込んだと思ったら自分で復活して、家のことも完璧にこなして、おまけに酒癖が悪いって!」
可愛くないと言われたのだ。そういう女と、結婚は考えられないと。
「私だって、可愛くなれるもんならなりたいわよぉ……」
消えてしまいそうな語尾は、そのまま白いワイシャツに吸い込まれた。
須藤に、抱きしめられたのだ。
「忘れろ」
「え?」
「そいつは最低最悪のクソ野郎だ。今すぐ忘れろ」
「いや、普通に無理でしょ。6年も付き合ってたのよ」
「無理でも忘れろ。いいな」
言いながら、須藤が私の髪を撫でるものだから、何かを勘違いしそうになる。
「ま、そうね。忘れる以外にないわよね」
言って、私は須藤の胸を押した。身体が離れて、今度は目が合う。
「慰めてくれて、ありがとう」
須藤は同期入社の、
「じゃあ、帰るね」
須藤が持っていた私のバッグを、ひったくるようにして手に取った。それと引き換えに、須藤のジャケットを押し付ける。
(ここにいちゃいけない)
本能が、そう言っている。
「おい」
階段を駆け下りようとしたが、できなかった。
須藤が私の腕を強く握って、離してくれないから。
「お前、それやめろよ」
「……何が?」
酔っていたはずの頭が、徐々にクリアになる。危険な状況に、急激に酔いが覚めてきたのだ。
「気付かないふり、いい加減やめろよ」
黒い瞳にまっすぐに見つめられて、私は動けなくなった。まさに、蛇に睨まれたカエル状態だ。
「須藤……」
「俺は」
止めようとして名前を読んだが、まるで意味はなかった。
腕を引かれて、再び逞しい腕に抱き込まれる。
「お前が好きなんだよ」
耳元で囁くように言われて、思わず腰が震える。
「……やっと言えた」
今度は、須藤から身体を離した。清々しいと言わんばかりの顔に、苦笑いを浮かべる。そんな私にはお構いなしに、須藤はどこかに電話をかけはじめた。腕は掴まれたままなので、私は身動きがとれない。
「おう、田中。悪いけど、俺の荷物預かってくれ。俺、このまま帰るわ。……は? んなもん、適当にごまかしとけよ。……課長が? じゃあ、俺がお持ち帰りするんで、すんませんって言っとけ」
それだけ言って、須藤が電話を切った。
「じゃあ、帰るぞ」
「帰るって……」
「俺飲んでないから。車で送る。それとも、ウチ来るか?」
「なんで、その二択なのよ。タクシー呼ぶって選択肢は?」
「ない」
「なんで……」
文句を言おうとした口は、温かくて湿った何かで塞がれた。
もちろん、その何かがわからないほどお子様ではない。
「……俺が教えてやるよ」
「何を?」
カンカンと音を立てて、須藤が階段を下りていく。腕を掴まれたままの私には、それについていく以外の選択肢がない。
「お前が、どれだけ可愛いかってこと」
そんな
「ん」
短く返事をすると、須藤の足が一瞬止まった。
だがそれは一瞬のことで、すぐに強く腕を引かれて。今度は足早に階段を下りていく。
気付かないふりは、もう出来ない──。
気付かないふりは、もうやめて 鈴木 桜 @Sakurahogehoge
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます