第8話(完)
桜の咲く日、芝山栄太が死んだ。
それから、もう五年になる。
仲野奈緒子は、この場所に毎年来て、毎年苦しみに
この道で、彼は車にはねられた。
天王洲アイルから南へのびる一直線の道で、事故を起こした若い男の運転手はハンドル操作を誤ったというが、こんなまったく変哲もない直線道路で、なにをどう操作を誤れば歩道に突っ込むことができるのであろうか。
そして、栄太は、なぜこんな道を歩いていたのだろうか。
彼の住んでいたマンションからはずっと遠かったし、ここに来る理由があるとすれば、ショッピングモールで買い物をするくらいだが、わざわざそのモールまで来て買い物をする必要があったとは思えなかった。
いくつもの疑問が彼女の心に浮かぶが、何年経ってもまったく解答は導きだせない。
あの日、K編集から連絡を受けて、奈緒子はH大学病院へ向かった。
栄太は車にはねられてのちも、しばらくは生きていた。
ただ、脳だけが死んでいた。
病院のベッドの上で、何本ものチューブにつながれて、彼はただ眠っているようで。
その包帯でぐるぐるに巻かれて形すらもわからない顔を、奈緒子は見つめた。
奈緒子の心には大きな穴があいていて、そのせいで悲しみすらも感じられないまま、奈緒子は彼を見つめた。
ただ、彼を死出の道においやったのは自分であるということだけはわかっていた。
仕事が立て込んで原稿の筆が進まずストレスばかりが溜まり、会ったこともない親戚や、中学や高校の名前も思い出せないオトモダチが青森からはるばる金をせびりにきて人間不信に陥っていた時に、栄太があらわれた。その時心が破裂しそうなほど鬱積していた憤懣が、堰を切ったように奔出した。奈緒子は自分でも思っていなかったような言葉を、彼にあびせかけた。
愛していた彼に、あまえたのだ。
彼ならすべてを受け止めてくれると思ったのだ。
馬鹿であった。愚かであった。
奈緒子は悔いた。いくら悔いてもまったく遅かったが、眠る彼を見つめてひたすらに悔い、今も悔い続けている。
彼の常からの意思表示もあったし、連絡を取った彼の――ずっと疎遠であった――妹の承諾もあって、彼の臓器は移植を待つ人たちのもとへと送られた。彼の体は健康で、臓器は事故にあったのにもかかわらずみな綺麗で実年齢よりもずっと若く、たくさんの内臓が取り去られた。
家族葬だから、といったんは断られたが、奈緒子とKは無理を言って葬儀に出た。
広い葬儀場のほんのいっかくに妹夫婦がいて、奈緒子とKがいるだけの空疎な葬式であった。
そうして中身がほとんど空っぽになった彼の遺体は荼毘に伏されて、灰になって故郷へと帰っていった。
葬儀場の駐車場の片隅に、桜が咲いていたのが奈緒子の心に焼きついている。
そして、五年。
また桜が咲いている。
奈緒子の生活には
作家デヴューして最初の三年はよかった。
何をやっても世間に受けた。
書く小説、出す本、すべてが売れた。
そしてその小説のひとつがテレビアニメ化され、その三カ月のアニメが終わったころから、徐徐に失速しはじめたようであった。
やがて、何をやっても受けなくなった。
連載もひとつふたつと減っていった。
今ではもう、かつての栄光にすがって生きるだけの、小説界の残滓のような存在で、あのK編集すら顔をみせない。
今年も、たったひとりの、ただ後悔と自責に
大森の彼の部屋に、彼が亡くなった後いれかわりに越して、住んでいた。
マンションの前の桜が満開に咲いている。
立ち止まって、ひたすらに眩しく目を射抜くほどに輝くその桜をしばらく見つめ、そうして見おろすと、ひとり少女が立っている。
少女は桜を眺めていた顔をおろし、奈緒子を見て微笑んだ。
「先生」
長い髪を首の後ろで束ねただけの、黒と白のチェック柄のワンピースを着た、地味な少女は言う。
「わたしを弟子にしてください」
奈緒子は苦笑した。いつか自分も同じことを言った。この桜の下で。
「わたしはずっと病気でした。一時は余命いくばくもないほどの病気でした。ですが、心臓を移植して生き返りました。そのつらい日日を乗り越えられたのは、先生の小説があったおかげです。先生の小説と出会えたから、わたしは病気も、移植手術も、リハビリもがんばれたのです」
「移植……、いつ?」
「ちょうど五年前です」
奈緒子は目をとじて、微笑んだ。その微笑みを、少女はさぞ不思議がっていることであろう。
おかえりなさい、と奈緒子は心で言った。口に出しても少女にはわかるまい。わかるのは少女の胸で鼓動を打つ心臓だけであろう。
「いいわ」
目を開き、少女の清廉な瞳をじっと見つめて、奈緒子は言った。
「でもひとつ約束して。私を先生と呼ばないで」
(終わり)
さくらのはなのさくころの、 優木悠 @kasugaikomachi
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