第7話
ここにきて、かすかなためらいが心によぎっていた。このままきびすを返して家に帰ろうか、とさえ栄太は心で思った。だが、せっかく足を運んで来たのだからといういささか吝嗇な考えもあったし、彼女の驚く顔を見てみたいという好奇心もあった。
ドアを見つめて、何度か呼吸をくりかえした。
インターフォンのボタンへ指を伸ばした。
その指が、腕が、かすかに震えている。寒さばかりではなく。
ボタンを押すと雪のような冷たい音色のチャイムがなって、はいとそっけない女の声が応答した。
私だ、と言ったが、返事はなかった。ただ沈黙の時が流れ、開放型の廊下にはぼた雪が降り込み、栄太の肩に積もっていった。
そうして、しばらくすると、ドアの鍵が開けられる音がし、続いてノブが回されて、扉が開いた。
扉と壁の隙間から顔をだした女は、たしかに奈緒子であった。
以前よりも化粧が濃くなって、顔の造作がずいぶんはっきりと形を描かれていて、髪は以前よりも短くなって茶色みを帯びてソヴァージュのパーマネントがあてられて、顎はとがっていたが頬は丸みをおびていた。
東北の、質朴ないち少女に見えたかつての面影はどこにもなく、東京の女がそこにいた。
「なんのご用でしょう」
奈緒子は言った。
「もう、あなたとはとうにご縁が切れているはずです」
栄太の心臓が大きく脈を打った。心臓は高鳴っているのに、なぜか顔の血は下へ下へとさがっていくような気がした。なにか言葉を発せねばならないとわかっていたが、いかなる文言も頭に思い浮かんではこなかった。
「未練がましい人ですね。たった一度抱いたくらいで、女が自分のものになったと錯覚なさっておいでなのじゃあありませんか。その女が出世したので、懐かしくなってまた抱きたくなったのでしょう。ですがごめんこうむります。あんな、愛のまったく感じられない、ただ情欲をむきだしにした、女の体をむさぼるだけのセックスをする老人に、私は二度と抱かれるつもりはありません。だいたい、あなたなんて、私が抱かれてあげなければ、一生女を知らないままの、情けなくってみじめな生き物だったじゃありませんか」
奈緒子はまったくの無表情であった。ただときどき、単語の区切りに侮蔑するように、口の端がちょっとだけ頬に向かって動くのだった。
「それとも、他の理由があって来られたのでしょうか。連載が打ち切られたので、どこかの出版社に取りついで欲しいのですか。それとも、もっと直截な……、お金の無心にでもみえられたのですか。どちらにせよ、私があなたに施しをする義理などはまったくありません」
彼女の言葉を耳にする間、栄太は彼自身がどんな顔をしていたのか、まるで自分ではわからなかった。ただ、彼女の声が耳から入って、脳ではなく胸のあたりに流れていき、心臓を何か鋭利な、針のような先端のとがったもので、なんども突き刺しているような気がしていた。彼女の、赤い口紅が塗られたつややかなふっくらとした唇から発せられるものは、言葉ではなくまぎれもない凶器であった。
「お帰りください」
彼女の長いまつ毛のあいだから光を放つ目は、軽蔑と嫌悪をにじませていた。
そうして、ドアは静かに閉じられた。
彼は凝然立ちつくした。
まるで心をなくした、いや、はじめから心を持たぬ蝋人形のように、茫然と佇立していた。
すでに、肩だけではなく、頭頂部までが雪で真っ白く染まっていた。
――帰ろう。
何分か後に、やっとそう思った。
今日はひどく疲れた、はやく家に帰って、風呂に入って、布団にくるまって眠ろう。
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