第7話

 奥さまはすっかりあたしを毛嫌いするようになった。


八代と懇意にしていると知ったからだ。


それを聞いたお富は、また何か余計なことを吹き込んだらしい。


「あんたがそんなだらしない女だとは、思わなかったよ」


 食べ終わった膳を下げている最中だった。


廊下ですれ違った奥さまに、足を引っかけられた。


「恥を知りなさい!」


 騒動に気づいたお菊さまが襖を開く。


ちらりとこちらを見ただけで、何も言わずにすぐに閉じてしまった。


あたしは転がった椀を拾い集め、こぼれた汁を拭く。


 こんな他愛ない出来心のような悪戯は、何もそれから始まったことではない。


ただこの辺りから、いつもよりしつこくなっただけ。


奥さまがあたしを何かにつけて馬鹿にするのを、皆が面白がって笑った。


人気の消えたところで、又吉が近寄る。


「お前の正体がバレたな」


 臭い息を耳に吹きかける。


どうしようもなく苛ついているとわかっているところへ、わざわざやってくるお前が悪い。


あたしはそのニヤついた顔に、思い切り桶の水をぶちまけた。


「てめぇごときが、余計な口利いてんじゃねぇ!」


 返り討ちで、飛んで来た拳に殴られる。


その勢いで土間に倒れ込んだあたしに、又吉はまたがった。


胸ぐらを掴み、気の済むまで殴りつける。


ようやく終わったと思ったら、最後にどかりと蹴り上げられた。


「調子のってんのは、お前の方だろ」


 又吉は唾を吐き捨て、土間を出て行く。


あたしは起き上がると、外へ飛び出した。


何を泣いているのか、なんで泣いているのかも分からなかった。


ただ目からあふれ出る滴を、止められないだけのこと。


離れの縁側の下に潜り込むと、一人でただ時の過ぎるのを待っていた。


「おや、今夜もどこかで子猫がないている」


 その夜の障子は、開け放されたままだった。


「お多津、出ておいで。またそこで一晩中泣かれたら、うるさくて仕方がない」


 若旦那は縁側に腰掛ける。


あたしはその隣に並んだ。


「また虐められたのか。好きだな、あの人たちも」


 その時に何を話したのかだなんて、今はもう覚えていない。


あたしは若旦那の話を黙って聞いていて、真夏の月がその日に限って、目の眩むほど途方もなく大きくて、今夜の月よりも大きくて、鳴き続ける虫の音は果てしなく、この世の全てに響いていた。


「お前が又吉と八代の二人を、手玉に取るような奴じゃないって、分かっているよ」


 その手が頬に触れる。


腰に手が回り、抱き寄せられる。


何も考えられなかった。


自分が空っぽになったような気がした。


「おいで。傷の手当てをしてあげよう」


 手を引かれるがまま、あたしは座敷へ上がった。

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