第6話

 血生臭い月夜に、大きな蛾がひらひらと宙を舞う。


それはあたしの額に留まろうとしているようだった。


「わっ、馬鹿、やめろ」


 振り払おうにも、体はもとより、腕も動かせない。


眉間に留まったそれは、大きな羽根で目をふさいだ。


顔の肉を動かし、痛みに強ばる首を振って、ようやく飛び去る。


ある日見かけた八代は、顔に大きなアザを作っていた。


「あいつも馬鹿だよな」


 相変わらずニヤニヤと気味の悪い又吉が、話しかけてきた。


「いくらなんでも、奥さまはねぇわ。色んな意味で」


 横目であたしの様子をチラリと窺って、またニヤリとする。


「お前も調子乗って、ハメ外すなよ」


 人気のない屋敷裏だった。


又吉の腕が伸び、あたしの肩をつかむ。


「やめろ」


 振り払っても、簡単に引き下がるような男ではない。


積み上げた薪に押しつけられた。


「あいつみたいになって、ここを追い出されたくなかったら、若旦那とだなんて、夢見てんじゃねぇぞ」


「放せ!」


 又吉の手が襟に伸び、帯を掴む。


「せめて大旦那さまとかにすればいいのにさ、お前もちっとは知恵を回せよ」


「嫌だって言ってんのに……」


「やめろ」


 八代の声がして、又吉は慌てて体を離した。


「俺はすっころびそうになったコイツを、助けてただけだ!」


 又吉は逃げるように立ち去って、あたしは泣き顔を見られないよう、崩れた薪を積み直す。


落ちていたそれを、八代は拾った。


「お前も大変だな」


「あたしは、あんたは悪くないと思ってるから」


 その時にうつむいた、あの冷たい横顔の意味を、あたしは今になってかみしめているのかもしれない。


「そんなこと、手前で決めるもんじゃねぇ」


 この人の、頬に残る酷いアザも、足にあるざっくりとした大きなかさぶたも、今のあたしと変わらない。


山中に縛り上げられ、放置され、寒さに震えているあたしは、あの時の八代と同じだ。


「決めるのは俺じゃねぇし、お前でもねぇ。いつだって自分じゃねぇ誰かだ。諦めろ」


 一人になってしまった八代がその時はなんだか憐れに思えて、周囲の目を窺いながらも、なにかと気に掛けるようになった。


旦那さまがきつく当たるようになってから、一人でいることの増えた八代だ。


お菊さまの機嫌さえよければ、あたしにも少しくらいの暇はある。


鍋に沸かした白湯の残りを持っていくだけだったり、茹でたての枝豆の一房二房を袂から差し出すだけだったけれども。


 初めはそんなあたしを黙って見下ろし、ただ受け取るだけだったのが、次第に言葉を交わすようになった。


奥さまとはすっかり疎遠になったようで、たまに二人でいるところを見つかっても、奥さまはぷいと顔をそらして、見て見ぬふりだ。


八代はそんな様子に、少しは気を楽にしているようだった。


「お多津、逃げるなよ」


 蒲鉾の切れ端を分け合っていた時だった。


朝餉の味噌汁に入れるのを、こっそり残してとっておいた。


漬物と白湯とを一緒に盆に載せ運びこみ、納屋で縄をなうのを手伝っていた。


「逃げたっていいことは何もねぇ。逃げずにとどまっていることで、得られる証ってもんがあるんだ。俺がこんなになっても逃げ出さないのは、給金のためだけじゃねぇ。そんなことよりも、この村にいられなくなることの方が恐ろしいからだ」


 村名主の旦那さまににらまれたら、奉公人でいられなくなるだけのことでは済まされない。


「俺は身の潔白を証明するために、ここに残ってるんだ。それを知っているのは、俺だけしかいねぇからな」


 湿気くさい納屋の外では雨の匂いがして、最後の蒲鉾を飲み込む。


母屋から奥さまの呼ぶ声が聞こえた。


「あ、帰ってきたみてぇだ」


「お前ももう行け。ヘタなことすんじゃねぇぞ」


「うん」


 椀を二つ載せた盆を持って、外に出る。


縁側に出ていた奥さまと旦那さまと、目があった。


しまった、見られたと振り返ると、八代は二人に向かって小さく頭を下げる。


旦那さまは鼻息一つで奥へ引っ込み、奥さまは真っ赤に膨らませた顔を強ばらせた。


 杉の木に縛られたまま、うとうととしては目を覚ます。


秋の初めの虫の音が、一段と大きくなった。


寝付けないのは、それがやかましいからだけなのか? 


全身のしびれにも寒さにも、すっかり慣れてしまった。


わずかに風が吹くと、自分の体がやけに血生臭く感じる。


夜が明ければ、本当に迎えは来るのだろうか。


屋敷に戻されたとして、それからあたしは、どうするのだろう。

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