第8話

 お菊さまの腹はいよいよ大きくなり、産み月が近づいていた。


気が立つのも分からなくはないが、とにかく気分が落ち着かない。


暑い暑いと泣きわめくのを、うちわで煽いでいた。


「そのように苛つかれては、お腹の子に障ります」


 間髪入れず、濡れ布巾を投げつけられる。


「お前の顔を見ているのが、一番気に障る!」


 わんわんと泣き始めたお菊さまをどうしていいのか、もう何も分からない。


苦労など何一つ知らない人だ。


あたしと歳は一つしか違わないのに、裁縫と琴しかしたことのないような体は、むくむくと白く太りたおし、もはや饅頭か大福のよう。


 廊下へ出ると、若旦那と鉢合わせた。


ビクリと体を震わせ、今までにないほど余所余所しい態度をなさる。


「あぁ。お多津か」


 もじもじと言葉を濁らせ、あたしから距離を取るように離れた。


「こないだのことは済まなかった。忘れてくれ」


 若旦那はそう言うと、閉じられたばかりの襖を開く。


「お菊。約束通り、多津とはケリをつけてきたぞ」


 廊下にあたしを残し、ぐじぐじと泣いている大福の待つ部屋へ消えてゆく。


その時は何を言われたのか、さっぱり分からなかった。


土間へ戻り、投げつけられた手ぬぐいを干したところで、ようやく気づく。


「あぁ、お菊さまに知れたのか」


 それでこのザマだ。


 旦那さまに呼び出され、座敷に上がった。


そこにお菊さまと若旦那はいなかった。


酷く得意げに興奮した奥さまにわめき散らされ、それに旦那さまはますます腹を立てた。


又吉と八代、お富まで呼び出され、それぞれに勝手な話しを持ち上げる。


「へぇ。コイツは実にいい加減な奴でごぜぇまして……」


「私といたしましても、旦那さまや奥さまに対し、誤解を招くようなことをしていたのは確かでございます。しかし、私とお多津との間にはなにも……」


「この人はいつだって無精で怠けてばかりでごぜぇます! 面倒なことはいつも、わっしに押しつけて……」


 ガザガザと枯れ草を踏む足音が聞こえる。


それは遠くから迫ってきていた。


やかましく鳴いていた虫たちが、急に静まりかえる。


 縛り上げろと言われた時、真っ先にあたしの腕を掴んだ又吉の、あの気持ち悪い顔。


八代の取り澄ましたような、他人行儀の能面づらと、お富の勝ち誇り、興奮したしゃべり方。


若旦那と交わした夜と、何も知らぬお菊さまの、美しく艶やかな佇まい……。


 気がつけば取り囲まれていた。


荒い息遣いと、よだれをすする舌なめずりまで聞こえる。


一匹? いや、もっとだ。


ヤバい、逃げなくちゃ。


逃げたいけど、逃げられない。


恐怖で体が震える。


 衣紋掛けに干された、美しい花嫁衣装を思い出す。


塩焼きの鯛をまぶした握り飯の旨さ。


あたしもいつかあんな綺麗な着物を着て、お嫁に行くんだと思っていた。


幸せな結婚をして、静かに暮らす。


どうしてそれだけのことが叶わないのだろう。


 縛り付けられ、身動きのとれないあたしには、どうしようもない。


鼻息荒く、じっとこちらを窺っている。


ぎゅっと目を閉じ、ガチガチと震える歯を食いしばった。


怖い。


全身が震える。


冷たい鼻先が、まだ感覚の残る肌に触れた。


ビクリと震えたあたしに、驚き飛び退く。


どうしてこうなった? あたしの何が悪かった? 


なんで? 何がいけなかった?


 真っ白な衣装を着て、想い想われた人のところへ嫁ぐ。


奉公人に意地悪なんて、絶対にしない。


優しい夫とその家族に囲まれて、まもなく生まれる子供のために産着を縫う。


 鋭い牙が肉に食い込んだ。


引きちぎる勢いで血まみれの着物が破ける。


叫び声を上げた。


 あぁ。それとも前に一度見た、旅芸人の仲間になるのもいいな。


美しい衣装を着て、お囃子に合わせて舞を舞う。


風のように駆け抜けて、どこまでも気の向くままに流れてゆく。


 牙が喉元に喰らいついた。


 明日、もしも明日、朝日を迎えることが出来たなら、あたしはきっと……。

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