第5話(後編)

 玄関のドアを叩きつけるように開け、靴を脱ぎ捨てた。玄関に鞄を放り出し、リビングへ駆ける。


 こんなことをすれば、母さんは絶対に俺を叱る。


『靴を揃えたの?』


『もっと静かに入ってきなさい』


『鞄を玄関に置かない』


 いつもなら、そうやって母さんは俺を叱るんだ。


 リビングに躍り込んでも、母さんは俺を叱らなかった。


 母さんはドアに背を向け、床に膝をついていた。


 母さんは、ゆっくり俺に振り返った。


「おかえり」


「ただ、いま」


 湧き上がる焦りと不安が止まらない。


 母さんの目に、小さな雫が浮いていた。


「ちょっとだけ、遅かったわね」


「……」


 母さんの前には、一匹の柴犬が横たわっていた。


「ほんとさっきまでね、息してたんだけど……」


「うん……」


 母さんの傍に寄って、俺もそいつの顔を覗き込んだ。


「でもね、全然、苦しまなかったのよ。寝たまま、逝っちゃったの」


「うん……」


 俺は、そいつの頭を撫でた。まだ冷たくはないけど、生きていた時より硬い。


 タロウは、俺が生まれる前から家にいた。父さんと母さんが結婚する時に迎えたらしい。俺はまだ生まれてなかったから、俺より先に父さんと母さんの家族になったのはタロウだった。


 物心つく前から、タロウは兄貴として俺の傍にいた。両親が喧嘩をすれば間に入って、俺が叱られたら慰めにきてくれて。いつも家族の仲を取り持ってくれていたんだ。


 俺が一人で散歩できるようになってからは、いつもさっきの河川敷を散歩した。そこでボールを投げたら、タロウは素早く駆けてキャッチして。


 時々、人間の太郎も一緒だった。そうやって遊ぶ俺たちを眺めながら、太郎は『いいなあ』って羨ましがった。


 でも、タロウの動きはだんだん鈍くなっていった。よちよち歩くのが精一杯になって、近所の散歩をするのが関の山になって。食事の量も減って、眠る時間が増えて。そして一週間前、ついに眠ったままになってしまった。俺たち家族は点滴でタロウに栄養を与えたけど、タロウは目を覚まさないまま、今日、逝ってしまった。


「タロウ、ごめんな」


「何で、謝るの?」


「だって」


 タロウが寝たきりになってから、俺は少しでも傍にいてやりたいと思って、タロウの傍でゲームをした。時々頭を撫でてやったり、声をかけてやったり、床ずれをしないように体の向きを変えてやったりして。それからまたゲームをした。


 でもタロウはきっと、俺と遊びたかったんだ。もっと俺に見ていてほしかったんだ。ゲームをする俺の背中ばっかり感じていたかったわけじゃなかったんだ。だからタロウは、最期俺に会いにきたんだ。


 ごめんな。寝たきりになってからも、もっとタロウと向き合っていればよかった。背中ばかり見せるんじゃなかった。


 でも、最期に会いにきてくれてありがとう。遊んでくれて、ありがとう。


 涙が零れた。




 一年の月日が経ち、俺は高校生になった。


 ある日、電話が鳴った。


「もしもし?」


『もしもし、次郎? 俺、太郎だけど、覚えてる?』


「太郎? 久しぶり……!」


 その声を聞き、俺は鼻の奥が湿るのをぐっと堪えた。


 太郎も高校生になっていた。ロボット工学部に入部したそうだ。太郎って昔から機械いじりみたいなの好きだったんだよな。


「で、どうしたの?」


『うん、その、急に電話して悪いんだけどさ、ちょっとお願いがあって』


「ん? 何?」


『実はさ、俺も中学に上がってから犬を飼いはじめたんだ』


「そうか。欲しがってたもんな」


『うん。で、その子が仔犬を産んだんだけど、どうしても一匹、貰い手がつかなくて』


 仔犬は五匹生まれたそうだ。他四匹はすぐ貰い手がついたらしい。


『でもなぜか最後の一匹がさ、縁が流れちゃうっていうか、最後に決まらなくなるんだ』


 両者の関係は良好。これは成立か? ――というところまで辿り着くのに、最後の最後で決まらないのだと言う。


『でも、次郎のところにはタロウがいるし、二匹は無理だよな』


「あ、いや! 実は――」


 俺は、去年タロウが死んだことを伝えた。すると太郎はそうか、と気落ちした声を零した。


『じゃ、やっぱりまだつらいかな』


 その後も太郎はあれこれ気遣いを見せようとしたけど、俺はすぐにその声を遮った。


「俺、その子に会ってみたい。早速だけど、今週末見に行っていい?」


『うん、勿論』


「ケータイ持ってる? 番号教えて」


 俺と太郎は連絡先を交換して電話を切った。これで後はスマホでやり取りできる。


 俺はすぐ、声を放った。


「母さん、新幹線の切符の取り方教えて!」


「何? 急に」


 俺は母さんに事の詳細を語った。母さんはその子を迎えることに同意してくれたけど、夜にもう一度父さんを交えて家族会議をすることを条件にした。俺はその条件を呑んだ。


 父さんも賛成してくれると思うけど、もし反対されるようなことがあれば、俺は何が何でも説得するつもりだ。今の俺ならバイトだってできるし、世話だって前よりきちんとできる。


 俺はその子を迎える気満々だ。だって、タロウは『またね!』って言ったんだもんな。



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ゴースト 菜尾 @naonyasuke

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