第5話(前編)
俺は地元の公立中学に通っている。二学期が始まって三週間が過ぎたけど、まだまだ外は暑くて、俺は学校が終わると逃げるように家に帰る。授業が終わると、教室のクーラーが切れちまうからな。いても良いことなんてない。
俺は玉響川の河川敷を歩いた。いつも天端を歩き、赤いアーチの付いた鉄橋を渡って家に帰る。所要時間は、十五分くらいかな。
「待って! 待ってー!」
後ろから誰かの声が聞こえた。辺りを見回してみる。俺以外にも人はいるけど、その人たちの素振りで何となく、呼ばれているのは俺だと見当がついた。
振り返ると、思ったとおり、声の主は息を切らして俺の前で止まった。
短髪に、薄っすら日焼けした顔。どこかあどけない感じの奥二重。誰だっけ?
「えっと」
戸惑う俺に、その子はまだ呼気の交じる声で訴えた。
「忘れ、ちゃったのかよ、タロウだよ!」
「タロウ? おまえ、太郎かよ! 久しぶりだな!」
「……っそう、だね」
太郎は俺と同い年の幼馴染だ。小学四年まで隣の家に住んでいたけど、今は引っ越しして別の地方に住んでいる。今日はどうしたんだろう。遊びに来たのか?
「いつこっちに?」
「さっきだよ」
「さっきか。まだ時間あんの?」
「うん。まだ、大丈夫」
「そっか。じゃ、どうする?」
『どっかで話でもするか?』
そう尋ねる前に、太郎が強い声を放った。
「俺、アイス食べたい!」
ここ降りたところにあるスーパーの、アイスが食べたい!
その勢いに驚いたけど、俺は太郎の熱烈な願望に押され、そうすることにした。
スーパーの中に入ると、一瞬寒いと思うくらいの冷気に迎えられた。
「久しぶりだな。太郎とアイス食べるの」
「うん!」
「どれ食べる?」
「俺、これ! 絶対これがいい!」
太郎が手に取ったのは、ミルク味のアイスキャンディーだった。
「ああ、それか。ほんと久しぶりだな」
懐かしさで、俺の顔も緩んだ。
そのアイスは他のアイスと違い、一つのアイスに二本の棒が付いていて、真ん中で折れるようになっている。つまり、二本の棒アイスがくっ付いた形のアイスだ。
遊ぶときは決まって、どちらかが百円を握り締めていた。その百円でそのアイスを買って、二人で分けて食べた。
俺が買ったら次は太郎が買って、そしたら次はまた俺が買う。そうやって交代でアイスを一袋だけ買って、分けて食べたんだ。本当に懐かしいな。
でも今はもう、中学生だ。あのころとは違うし、一人一袋ずつ買うか。そう思い俺は自分の食べたいアイスに手を伸ばしたけど、それを太郎が止めた。
「二人で分けて食べようよ」
「そうか?」
あのころみたいに分け合って食べるのも悪くないか。俺は太郎の誘いを受け入れた。
「俺、金ない」
レジに着くと、太郎は悪びれる様子もなくそう言った。でも太郎があまりに屈託なく笑うから、俺は文句一つ言えず、笑いだしてしまった。
「仕方ないな。今日は俺のおごりだ」
遠くから来てくれたんだし、ケチなことは言わないでおこう。
「ありがとー」
太郎はまたもや無邪気な顔で笑った。
河川敷に戻り、川辺に座りながらアイスを食べた。
「これほんっと美味い」
太郎は本当に嬉しそうに、アイスを食べた。目の輝きがその言葉に嘘がないことを物語っていた。
「そんな言うほどかよ」
一方の俺は苦笑してしまう。こんな大袈裟な奴だったっけ? 久しぶりに会って興奮してるのかな? でもやっぱり嬉しそうな太郎に釣られて、俺はそれ以上否定的な言葉を零さないでおいた。
アイスを食べながら、お互いの近況報告をした。太郎の話には要領を得ないものもあったけど、太郎がずっと楽しそうに話すから、俺は不満を漏らすことなくその声に耳を傾けた。
アイスの棒を持て余し、話題もなくなってきたころ、間を持たせたいと考えたのだろうか。太郎は立ち上がり、草むらに隠れていたゴムボールを拾って持ってきた。
「ボール遊びしよ!」
キャッチボールか。グローブがないけどゴムボールだし、大丈夫だろう。
「うん、やるか」
俺も立ち上がった。二本の棒をアイスの空袋に入れ、鞄の傍に置く。
「じゃ、まずは俺が投げるぞ」
距離を取った太郎に声をかけ、俺はボールを投げた。
太郎は上手にキャッチした。だけど、太郎はそれを持って俺の傍に駆け寄ってきた。
「何してんの?」
「え? だって、返さなきゃまた投げてくれないでしょ?」
「いや、次はおまえが投げて返すんだよ」
キャッチボール、忘れたのか?
「えー、そんなの無理だよ! 俺ボール投げられないもん!」
「あー……。そうだったな」
記憶が蘇る。太郎はボールを投げる才能に恵まれていなかった。なぜか前に投げたボールが後ろに飛んでいってしまうこともあって、もうこれは一つの才能かもしれないって思ったこともあったな。
「じゃ、俺が力いっぱい投げるから、おまえは全速力でキャッチして戻してくれよ」
「分かった!」
「じゃ、いくぞ!」
俺は思いっきりボールを投げた。すると太郎は全力で駆けて、ボールをキャッチする。ときにジャンピングキャッチなんていうかっこいい取り方もして、俺は思わず感嘆の声を上げた。
久しぶりに、外で思いっきり遊んだ気がした。まだ暑いからって、学校から帰ったらクーラーの効いたリビングでゲームばっかりしていたもんな。体力が落ちてても不思議じゃない。
走り回っていたのは太郎の方だったのに、俺は太郎より先にばててしまった。
「ごめん、ちょっと休憩」
草むらに『大』の字になる。ああ、風が少しだけ気持ちいい。
太郎も傍に座ったけど、相変わらず楽しげな顔をするだけで、大して疲れてはいなさそうだった。
「なあ、次、いつこっち来る?」
「そうだなー……。まだ、分かんない」
「そっか」
久しぶりに、すっごく楽しかった。学校にも友達がいるけど、これほどまでに分かり合える『心の友』って感じの友達はいない。俺、どこかで寂しかったのかな。
「あ、いけない」
太郎が立ち上がった。
「もう行かなきゃ」
「え、おい」
まだ疲労に悩まされている体を起こして、既に土手を上がってしまった太郎に顔を向ける。
「またね!」
太郎は手を振って、土手の向こう側へと消えた。急なことに唖然とする俺を置いて、太郎は颯爽と去ってしまったのだった。
「新幹線の時間とか、か? それにしても急だな」
もう少し前もって言ってくれていたらよかったのに。でも俺も訊かなかったし、太郎ばかりを責められない。
「スマホ持ってるのかどうかも、聞きそびれた」
因みに、俺はまだ持っていない。でも太郎が持っているのなら、家のパソコンから連絡を入れてみたかった。
「俺も帰るか」
まだ疲れが残っていたけど、これ以上河川敷にいたら少し寂しくなりそうで、俺は仕方なく立ち上がった。
土手を上がり、天端を歩いた。
空が赤く染まっていた。どこかから聞こえるカラスの鳴き声。
目の前に、真っ赤な世界が広がっていた。遠くに見える街路樹も、マンションも、山も、家も、雲の影も、全てが空に影響されて赤黒く染まっていた。
急に胸が何かに侵され、俺は沁みるような違和感を覚えた。
何なんだろう。この感覚は。やっぱり、寂しくなったのか?
夕暮れ時の景色が両目に貼り付く。俺の胸が、少しずつ妙な闇を纏いはじめた。
俺は、何をしていたんだろう。
記憶はあるけど、なぜそう思ったのかは分からない。ただ、夢から覚めた気分だ。
胸の中で闇が踊った。赤い景色と胸の中の黒が混ざって、妙な揺らぎを描く。
さっきの、小麦色の肌をした男の子。奥二重の、どこか憎めない笑みを浮かべる男の子。
「太郎って、あんな顔してたっけ……?」
俺の知ってる太郎は、色白で、綺麗な二重をしていなかったか?
やにわに体が冷えた。
そうだ、太郎はあんな顔じゃなかった。いくら五年の空白があったとしても、あんな顔に成長しているとは思えない。なんでそんな思い違いをしたんだろう。
一体、あれは誰だったんだ?
記憶が、走馬灯の様に流れては消えた。
太郎と一緒に行ったスーパー。いつもそこでアイスを買って、二人で分けて食べた。
割って食べるアイスは時々綺麗に割れないことがあって、その時は交代で一口ずつ齧って食べた。一口が大きいって喧嘩することもあったけど、大抵は仲良く食べられた。
一回だけ、俺が丸々食べられないことがあった。その日は綺麗に割れたのに、あいつが急に引っ張ったから、俺は手に持っていたアイスを落としてしまったんだ。
そいつは『隙あり!』と言わんばかりにアイスに食らいついて、俺は慌ててそれを止めた。
『駄目だ! こういうの、おまえは食べちゃ駄目なんだぞ!』
でもそいつのアイスに対する執着は凄まじくて、結果、そいつはほとんどの量を食べてしまった。そいつは、凄く嬉しそうにしてたっけ……。
太郎、太郎、太郎、たろう……。
「……タロウ?」
俺はこれでもかと言わんばかりに目を見開いた。倦怠感の帯びる体に、電流が走る。俺は弾かれるように駆けた。
そうだ、俺は勘違いをしていた! あれは太郎じゃない。
アイスの棒が入った空袋を握り締める。太郎は、割って食べるアイスでも、ミルク味よりメロン味が好きだった。もしさっきまでいたのが本当に太郎だったのなら、絶対にメロン味を選んだはずだ。自分からミルク味を選ぶなんてこと、絶対にない。
俺たちはいつも、メロン味、ミルク味を交互に買って食べていた。でも俺は知っていた。太郎はミルク味が苦手だったんだ。でも俺がミルク味の方を好むから、太郎は俺に合わせて仕方なく食べていた。
太郎は、そんな奴だった。大人しくて、遠慮がちで、遊びも俺に合わせてくれることが多かった。あんな、自分から何かに誘う奴じゃなかった。
ついさっきまで酷使していた体は、すぐに疲労を覚えた。胸にパチパチ弾けるような痛みが走る。足の筋肉からは、ビリビリと破れるような音が聞こえてきそうだ。
温い空気が肺に入っても、酸素を感じられない。酸素のない空気で溺れているみたいだ。
でも俺はスピードを緩めなかった。俺は家を目指して、力の限り赤い河川敷を駆けた。
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