第3話

 僕は五十になる会社員だ。朝一番、顔を洗い、着替えを済ませ、朝食を取る。もう今では、トーストも焦がさずに焼けるようになった。湯沸かしポットの使い方だって分かる。インスタントコーヒーくらい、自分で淹れられるんだよ。


 僕はマグカップを手に取った。かつてマグカップはお揃いで二個あったけど、今は一個だけだ。食器棚は半分近く空いてしまったな。もう少し小さな食器棚に買い替えても良いかもしれない。


 朝食を済ませ、庭に出た僕は『アルマ』を呼んだ。すると『アルマ』は息を切らし僕の傍に駆け寄ってきた。大きな庭ではない。大した距離を走ってもいないのに、興奮しているからだな。これから散歩に行くというのに。今からそんなので大丈夫かい?


 『アルマ』は一年半前、我が家にやってきた。ペットショップで売れ残っていた彼を、僕がタダ同然の値段で引き取ったんだ。それを分かっているのかな。彼はよく懐いているんだよ。


「さ、行くぞ。今日も特訓だ」


 僕は『アルマ』の首輪にリードを付け、外へ連れ出した。



 『アルマ』とはイタリア語やスペイン語で、『武器、兵器』を指す言葉だ。そう、言葉のとおり、彼は僕の兵器なんだよ。(本来『アルマ』は女性名詞だそうだが、そこはちょっと目を瞑ってほしい。)


「そうだ! もう一回!」


 僕は『アルマ』に何度も同じ訓練を行う。会社のある日でも、毎日、朝、夕の一時間を、『アルマ』の訓練に費やしているんだ。


 僕は武器が欲しかった。決して僕が罪に問われることのない、絶好の武器が。それで僕は『アルマ』を手に入れた。『アルマ』は絶好の武器だったんだ。『事』が起これば、僕も多少の罪に問われるだろうが、刑期を全うしなくてはならないほどの罪にはならないだろう。


 今は『アルマ』を最高の兵器に仕立て上げることが、僕の生きがいだ。訓練を積めば積むほど、彼の牙は研ぎ澄まされてゆく。僕はそれが嬉しくて仕方がない。『事』を起こす日が、刻一刻と近づいているのだから。


「いいかい、この匂いだ。この匂いを覚えるんだよ」


 僕はビニールからハンカチを取り出し、それを『アルマ』に嗅がせた。ただのハンカチじゃない。『あの男』のハンカチだ。愛しい妻を奪った、憎い男のハンカチだ。


 さぁ、よく覚えろ。ご主人様の大切な人を奪った、憎い男の匂いだ。そうして男の匂いを覚えさせ、その匂いに対し『アルマ』に強い憎しみを抱かせる。これも訓練のうちの一つなんだ。


「よし、今日はここまでにしよう」


 僕は『アルマ』を連れて家路に就いた。主人にたっぷり遊んでもらったと思っている『アルマ』は嬉しそうに僕を見上げる。そんな彼の鼻先を、僕はしゃがみ込み、二、三度くすぐった。


 『アルマ』はすぐ死ぬ運命だった。あのままペットショップに残っていたら、いずれ物の様に廃棄処分されていたんだ。なら、その命を僕のために役立てて死んでくれ。


 『アルマ』はそんな主人の思惑など知りもせず、尻尾を振りながら僕の傍で跳ねた。



 その日はどんどん近づいていた。『アルマ』の技は日を追うごとに研ぎ澄まされてゆく。もう、完璧な生物兵器だ。


 僕は想像した。『アルマ』の強靭な牙が、憎いあの男の喉を食い破る光景を。


 男の首からは真っ赤な血が噴き出して、男はその場に倒れ込む。男は何が起こったのか分からないままピクピクと、まるで陸に打ち上げられた魚の様に痙攣し、そのまま事切れるんだ。そんな彼の傍で、『アルマ』は瞳に忠実な色を湛え、『ミッションコンプリート』と僕に告げる。


 そうだ、ぼんやりしていられない。僕も演技の練習をしておかなくては。『すいません! ああ、なんてことだ!』、とでも言いながら狼狽し、暴れる『アルマ』を必死に押さえつけようか。それなら、僕も噛まれる演出の方がいいな。『アルマ』に、僕を噛ませる訓練もしておこう。『アルマ』、僕のことも噛んでくれ。沢山噛めばいいんだよ。君はいずれ、僕の兵器として死んでいくんだから。



 決行の日がやってきた。今日は週末。あの男はいつも午前中に、行きつけのジムに行く。その帰りを狙うんだ。


 僕は公園の中で、男が通るのを待った。男はいつもこの公園を通り抜けて自宅へと戻る。


 男が見えた。


 僕の中に、冷たい焔が燃える。僕の愛しい妻を奪っておきながら、何がジムだ。僕の苦しみが如何程のものだったか、思い知るがいい。貴様もあの世に行け。


 今だ!


「アルマ、行けっ」


 僕は抱えていた『アルマ』から手を離した。リードが外れたふりをして、男の方へ『アルマ』を放つ。


 『アルマ』は忠実に、僕の命令を遂行した。『アルマ』の体は黒い弾丸の様に、男に向かって駆けてゆく。ついに、男の喉を食い破る時が来たんだ。


 途端に、僕の全身が冷たくなっていった。妻を失い、泥酔したままふらりと入ったペットショップ。店員は僕を冷やかしだと思っていたのだろう。僕が『アルマ』を求めると、店員は眉を顰めた。


『たとえ商品でも、生き物なんだ。面白半分に動物を買うのはやめてくれ』


 そう言わんばかりに渋る店員から、僕は半ば無理やり『アルマ』を買い取った。

『どうせ、もうすぐしたら殺処分だろ? なら譲ってくれよ』。そんな酷い言葉もかけたように思う。そうして、動物を飼うなど今までしたことがない僕は、戯れ半分で『アルマ』を連れ帰った。


 『アルマ』は僕によく懐いた。『あの小さなケージから救ってくれてありがとう!』とでも言わんばかりに、愛嬌を振りまいた。馬鹿な奴だ。使い捨ての生物兵器にされるとも知らずに。


 ずっと、僕の傍には『アルマ』がいた。妻を失い、少しずつ物が減っていく家の中で、『アルマ』はいつも僕に寄り添ってくれていた。


 家に帰れば、千切れんばかりに尻尾を振って僕を出迎えてくれた。美味い料理、温かな風呂、そんなものは一切なかったが、暗い部屋の電気を点けると、いつもそこには『アルマ』がいたんだ。


 『アルマ』は忠実な生物兵器となった。『今こそご恩返し』と言わんばかりに、『アルマ』は男目掛けて駆ける。


「だめ、だ」


 自然と声が漏れた。


「駄目だ! アルマ! 戻れ!」


 だけど僕の声は『アルマ』に届かない。忠実に任務を全うせんと走り出した『アルマ』はもう、ミサイルの様なものだった。


「戻れ! 戻るんだ!」


 僕は喉が千切れんばかりに叫んだ。もう、失いたくない。もう失うのはこりごりなんだ。何で、今になってそんなことに気がつくんだろう。僕はいつだって遅いんだ。


 僕の声は『アルマ』に届かなかった。『アルマ』は、男の首目掛けて跳んだ。もうおしまいだ。僕は待ちに待ったその瞬間を見ようともせず、目を硬く閉じた。


「はは、可愛いなぁ」


 男の明るい声が聞こえた。恐る恐る目を開くと、『アルマ』は男の足元にじゃれつき、男は突如現れた『アルマ』の前にしゃがみ込んでいた。


「ご主人様はどこだ?」


 男は優しい声で、『アルマ』に語りかける。『ご主人様は?』。その声に、僕は男の前に出るしかなかった。


 男の顔が引き攣った。僕も男の顔を見ることができない。


「すみません、うちの子が……」


 視線を地面に漂わせたまま、簡単な礼儀を通すことしかできなかった。


 少し席を外すと、男は気を使いその場を離れた。誰に気を使ったのかって? 自分の傍にいた女に、だ。かつて僕の妻だった女。彼女に気を使い、男はその場を離れたんだ。


「元気、だった?」


 僕はまだ顔を上げられずにいた。一年半前に出ていった妻も、気まずそうな顔をしているんだろうな。「はい」と、くぐもった返事が僕の耳に届いた。


「離婚届は、出しておいたから……」


 伝えなくても、調べれば分かることだろう。でも、僕は改めて自分の口からそれを伝えた。そうしておきたかったんだ。


 元妻の「ありがとう」という声を聞き、僕は『アルマ』にリードを付けた。


「じゃ」


 僕は彼女に背を向け、歩き出した。……さて、『アルマ』の散歩を続けようか。


 末子の独立を機に、妻は家を出ていった。テーブルに置かれた離婚届。青天の霹靂。まるでドラマみたいだった。慌てて子供たちに連絡を取ったが、『自業自得』と素っ気なく払われた。


 そうなんだ。僕は、あまり良い夫ではなかった。稼ぎがあるのを良いことに、家事、育児の一切を妻に任せっきりにしていたんだ。


 妻はずっと、文句一つ言わず僕を支えてくれていた。いや、文句がなかったんじゃない。家庭を顧みようとしない僕に向き合ってもらおうとすることを、いつしか諦めてしまってたんだ。


 僕は妻が出ていくまで妻がそうするのは当然だと、当たり前のことのように思っていた。『アルマ』が僕の生物兵器なら、妻はずっと、僕の家庭構築マシーンだった。


 愛しいと言っておきながら、僕はずっと妻を蔑ろにしていた。愛しい妻を奪った憎い男? 嫉妬のうえに八つ当たりだ。彼が妻を奪ったんじゃない。離れた妻が彼を見つけたんだ。


「キャンキャン!」


 珍しく、『アルマ』が吠えた。ああ、信号が変わるよって教えてくれたんだね。ぼんやりしていて気がつかなかったよ。いい子だ。


「でも、おまえは生物兵器失格だな」


 僕は思わず笑みを漏らす。『アルマ』にではない。自分自身に、だ。そんなの、最初から分かっていたことじゃないか。トイ・プードルに殺人は不可能だ。よほどの知力や技術を駆使しない限り、トイ・プードルに人は殺せない。現に、『アルマ』は必死に男の首に食らいつこうとしていたんだ。でも背丈や跳躍力が足らず、男の足にじゃれつくことしかできなかったんだよ。首を狙うようにしか訓練されていなかったんだから仕方ない。


「さぁ、帰ろうか。明日は、ボール遊びでもしてみるかい?」


 アルマに語りかけると、アルマは僕を見上げ、フンフンと鼻を鳴らした。


 アルマの目に、青い空と僕が映っていた。


 そうか。僕は今、そんな顔で笑っているんだね。


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