第2話

 私は32になるOLだ。未だ結婚話はないけれど、肌が合う職場でやりがいのある仕事をこなし、満足のいく日々を過ごしている。


 ただ最近、少し気になることがある。


(あ、まただ)


 私は身を震わせた。2週間くらい前からだろうか。どうも、人の視線を感じるのだ。


 自慢じゃないけど、私は大学時代、ミスコンで優勝したことがある。この容姿が人目を引くのかもしれないけど、それが2週間前から急に気になりはじめたなど、おかしな話だ。人の視線など、常にある程度私に注がれていたのだから。


 その視線は、あまり気持ちの良いものではない。羨望、恋慕、そういった類のものでないことは勿論、嫉妬、憎悪といった完全なる『負』の感情とも表しにくいものだからだ。


 ただ、じっと、私を見ている。何の感情もない両の目を、私に向けている。


 私は思い切って振り返ってみた。そこに人はいない。毎度のことだ。以前から何度か振り返っているけど、その視線の持ち主が見えたことはない。私は気にせず、また会社の廊下を歩きはじめた。


 廊下には、私のパンプスの音しかしない。昨日買ったばかりの、フェラガモのパンプス。限定品だけど、店が私のため特別に取り置きをしてくれていたのだ。さすがフェラガモ。ヒールの高さをものともしない安定性だ。その歩きやすさとシンプルながらも華のある光沢に私の気分も軽くなり、少しばかり気が紛れた。私は軽い足取りでオフィスを出た。






 だけどそれも束の間、あの視線はまた私の背中を刺す。ああ、嫌だわ。一体何だっていうのかしら。何か言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに。


(今日のディナーは、あそこにしよっと)


 この鬱々とした気分を吹き飛ばしたい。私は足早に、ある店へ向かった。フレンチを基盤とし、天然素材のみを使用しているデリカテッセンだ。ヘルシーかつ女性の体が必要とする栄養素をしっかり補給できるという点が話題となり、最近オープンしたお店だけど、数々の芸能人やインフルエンサーが取り上げるほどの人気ぶり。最近パーティーや接待で胃腸にも負担をかけているから、優しいもので済ませたいわ。


 店の中に入ったというのに、まだ視線を感じる。一体どこから覗いているのかしら。でも今はそんなことに気を取られない。美味しそうな料理が並んでいるんだもの。こちらに集中した方が楽しいわよね。


 さて、どれにしようかな。気も滅入っていることだし、今日は簡単なオードブルも買ってみよう。折角だから、友達から貰ったロマネコンティも開けちゃおうかな。オードブルをつまみながら一杯。って、折角ヘルシーに済ませようと思っているのに、私ったら。


 会計をしてもらい、梱包を待っていると、また視線を感じた。まったく、何なのよ。本当に腹立たしいったら。私は肩にかかる髪をやんわり払いのけた。あら、少し髪が痛んでいるみたい。明日はヘッドスパとトリートメントでもしようかな。私はすぐにスマートフォンを取り出す。連絡する先は当然、行きつけの美容院だ。今の時間は営業時間外だけど、スタッフの連絡先を知っているから大丈夫。メッセージを入れておけば、予約完了。芸能人御用達の人気ヘアサロンだけど、私は特別。チーフと仲良くさせてもらっているおかげで、営業終了後、1時間以内ならお願いできるようになっている。


(これでよし)


 私は出来上がった料理を手に、デリカテッセンを出た。






 私は自宅の最寄り駅より1つ手前の駅で降りた。最近はタクシーにばかり乗っているけど、たまなら電車も悪くない。最近運動不足だし、ウォーキングがてら1駅手前で降りたのは正解だったかな。そうだ、今週末はジムに行こう。ヨガでしっかりデトックスしよっと。


 人気のない路地を歩く。やっぱり、視線はついてくる。


(公園を突き切るのは危険かな)


 公園を通った方がショートカットになるんだけど。さほど大きな公園ではないけど、植え込みなどで死角はそれなりにある。しかも、路地より外灯がない。


 性懲りもなく、私は振り返った。やはりそこには誰もいない。


(大丈夫でしょ)


 私は公園を突っ切ることにした。視線は公園にも入ってきたが、私は気にせず歩いた。今までだって何もなかったんだもの。大丈夫よ。


 ふと木陰を見ると、女が立っていた。わ、と思わず声を上げてしまいそうになるのを必死で堪えた。何なのよ、何でこんな時間にそんな所で立っているのよ。驚愕のあまり、私は彼女を凝視してしまった。


 この人、いつから美容院へ行っていないの? 髪が伸び放題じゃない。顔だってスッピン。スッピンでいるならスキンケアぐらいまともにしなさいよ。ディオールなんかお勧めよ。最近出た化粧水なんてもう、美容液かってぐらい効果あるんだから。


 服だって何? 安物でもいいから、せめてもっと清潔感のあるものを着なさいよ。私だって普段はそんな大したもの着てないわよ。今日は会議があったから気合を入れたくて、オーダーメイドのスーツにしたけど。(イタリア製の布地が体に馴染んで、凄く着心地がいいわ。)でも普段は既製品のスーツ、休日はせいぜい23区くらいだもの。


 ああ、たった10秒でこれだけのことが並べられる私って嫌な女。職業病かしらね。観察眼が鋭くなっちゃって。


 風がビュッと吹き抜け、私は首に巻いていたスカーフの崩れを直した。エルメスのスカーフは、お堅く映るスーツに華やぎと遊び心を与えてくれる。小物の使い方一つでその人の粋が分かるというものだ。


 だから、そんな恨みがましい顔をしないでよ。エルメスだってスーツだって、ブルガリの時計だって、デヴィッドソンのバッグだって、フェラガモだって、全部全部、私が働いて買ったものなんだから。男から貰ったものなんて1つもない。……今、身に付けているものにはね。


 美貌だって、親から与えられた最高のプレゼントだって自覚している。ぞんざいに扱ったことなんてない。大事に、大事に、毎日感謝して磨いているんだから。


 私は彼女の前を通り過ぎた。ほんの数十秒とはいえ、何をしていたんだろう。見ず知らずの小汚い女に囚われて立ち止まってしまうなんて。折角の料理が台無しになってしまう。やっぱり作られてからできるだけ早く食べた方が美味しいんだから。


 私は少し振り返ってみた。彼女はまだ見ている。その両目にゾッとし、私は足早にその場を離れた。






 手早くマンションのロックを開け、エレベーターに乗り込んだ。本当に、気が滅入ってしまう。今日のお風呂はスイートオレンジとスターアニスのバスミルクにしよう。料理が勿体ないけど、お風呂が先。柔らかな感触と優しい香りに包まれて、しっかりと体を癒さなくちゃ。それからゆっくり食事にしよう。


 まずはワインにオードブル。うん、オードブルは問題ない。もともとが冷たいものばかりだったから。やっぱりワインはロマネコンティね。嫌な気分も吹き飛ぶわ。


 鴨のコンフィも美味しい。サラダもドレッシングが独特な風味を醸し出している。スパイシーな中にもふんわり甘い香り。ココナッツオイルかしら。付け合わせのキッシュにはほうれん草がたっぷり。鉄分を取ってるって気がするわ。鉄分は貧血を防いでくれることは勿論、コラーゲンの合成にも必要な栄養素なんだから。感じる歯ざわりはオートミール? 粉っぽさはない。むしろオートミールがブイヨンを吸って味に深みを出している。このディナーボックスは正解だったわ。


 優雅な食事を楽しみながらも、私は視線に気がついている。この視線は、先程公園で会った彼女のものではない。それは簡単に見当がつく。だって、会社から家まで、ずっと私を見ているのよ? 彼女が視線の正体なら、会社なんかで感じるはずがない。私と彼女はさっきが初対面、知り合いなんかじゃないんだもの。


 それに、彼女の視線は完全な『嫉妬』だった。ここ最近、いつも私に向いている視線とは違う、的確な感情が見える視線だったのだから。だから、彼女ではないの。何より、彼女がいないこの部屋でも、視線を感じるのよ。やっぱり彼女じゃないわ。


 嫌ね。また鬱々と考え事。素敵なバスタイムに、美味しい料理、最高のワインが台無しじゃないの。


 ドラマを見ながら残ったワインを楽しんでいると、電話が鳴った。


「もしもし?」


『やぁ。今、大丈夫かな?』


「あら、久しぶり。どうしたの?」


『ちょっと、助けてほしいんだ』


「何をやらかしたの?」


 私は呆れた口調で友人に尋ねる。


『うん、実は今週末パーティーがあってさ』


「あなたなら、お相手なんていくらでもいるでしょう?」


 優秀なイケメン実業家なんだもの。少しからかってやると、彼は軽い笑い声で私の与太話を払った。


『そういうわけにはいかないよ。美人なだけじゃ駄目なんだ。君みたいに美しくて、なおかつ豊富な知識と巧みな社交術を兼ね揃えた人じゃないと』


 君しかいないんだよ。そんな言葉は嫌いじゃない。


「仕方ないわね。ちゃんと借りは返してよ?」


 すると電話は勿論、と明るい声を残し切れた。まったく、素早いわね。


「あーあ。ヨガはまた今度かな」


 でも久しぶり、彼に会うのだから文句を零すのはやめよう。私はローテーブルにスマートフォンを置くと、ほろ酔いの体をソファに預けた。






 私はざぶざぶと顔を洗った。すぐに水気を拭き取り、化粧水に手を伸ばす。あ、残りが少ない。帰りにドラッグストアに寄らなきゃ。


 食パンをトースターに放り込んだ。一昨日、スーパーで買ったものだ。焼いている間にインスタントコーヒーを作る。どこにでも売っている顆粒のコーヒーである。出来上がるや否や、私はすぐにそれらを胃に収めた。


 さて、出勤だ。準備万端。今日は大事なプレゼンがある。失敗は許されない。私はバッグを手に取り、玄関へ向かった。


 また、扉が開く。今日はどんな世界が待ち受けているかしら。


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