ゴースト
菜尾
第1話
私は三十七歳になる主婦だ。夫と、中学二年生になる娘と三人で暮らしている。
夫は多忙な人で、娘の育児は今でいうところの『ワンオペ』状態だった。それでも夫は私が専業主婦で食べていけるだけ十分に稼ぎ、決して気遣いを忘れない人だったから、私は育児にあたり落胆や絶望、孤独感を感じずにいられた。
それも昔のことだ。今は少しばかり時間に余裕ができたため、私は専業主婦を卒業し、週に三度、パートに出ている。パート先での人間関係は良好、仕事も楽しい。それに加え、隔週の英会話教室にも通いはじめ、充実した日々を送っている。
もちろん、小さなトラブルや喧嘩はあるけれど、私は今、凄く幸せなのだと思う。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。いつも大体このくらいの時間、わざわざ相手を確認する必要もないくらいだけど、私は事務的にインターホンのモニターを眺めながら「はい?」と一言、相手に投げかける。
『こんにちは』
モニターには彼女が映っていた。彼女がそう挨拶するのも何度目になるだろうか。私は彼女に「はーい」と緩やかな返事をすると、その声をその場に残して玄関に急いだ。
玄関のドアを開ける前に、一度だけ短い深呼吸をする。何度目になっても、やはり緊張感は拭えない。私はドアノブに手をかけた。
「いらっしゃい」
彼女の姿を目に映し、一言添える。すると彼女はいつもどおり、ほっとした微笑を湛えた。
十八年前、私はアイドルだった。アイドルなどと一口に言っても、それはピンキリ。スポットライトを一身に浴び、無数のフラッシュをたかれ、数多の視線に笑みで答える。そんなアイドルなど一握りだ。私はそんなアイドルには程遠い、フッと息を吹きかけられたらたちどころに吹き飛ばされてしまう程度のアイドルだった。
そんな私でも夢があった。有名アイドル雑誌の表紙になることでもない。有名俳優とドラマ共演をし、熱愛することでもない。
『サクラ』
私が作詞、作曲を手掛けた曲だ。ピアノは幼少のころから習っていたものの、特に音楽の才能に恵まれたわけでもない私が、たった一曲だけ、これは絶対ヒットするとまで確信した一曲だった。
私は『サクラ』を世に出したかった。もともと、売れていなくとも歌は出していたからスタートは切れていた。その曲でヒットを飛ばし、あわよくば一流アイドルの仲間入りができるかもしれない、という夢も見たが、それもやはり二の次だった。
私は『サクラ』が、世間の誰もが知る曲になることを夢見ていたのだ。
私は事務所の一室で、『サクラ』をマネージャーに聞かせた。マネージャーの反応が良好だったのは、彼が何も言わなくても察することができた。
だけど、『サクラ』を聞き終え、マネージャーが放った一言は、私には到底理解のできないものだった。
『この曲をくれないか?』
どういうことなのか、と私は詳しい説明を求めた。彼の一言で、『サクラ』が私の歌声で世に出ないことはすぐ察することができた。ただ、なぜ彼がそう言ったのか、全く想像がつかなかったのだ。
そこに、一人の少女が入ってきた。澄んだ瞳をした綺麗な子だった。彼女を見るや否や、『事務所期待の新人ね』と勘が働いた。
『彼女のデビュー曲にしたいんだ』
私は納得ができなかった。今まで事務所に反抗的な姿を見せたこともなければ、我儘らしい我儘を言ったこともない。そんな私が初めて、マネージャーに声を荒げ反発した。
マネージャーは苦しい胸中を露わにした。それを聞き、私は自分が既に崖っぷちのアイドルどころではなく、もう崖っぷちに片手一つでぶら下がっていれば幸いなくらいのアイドルであることを知った。
マネージャーは自身の不甲斐なさを謝罪したが、私はその現実に打ちのめされ、声を出せずにいた。もともと、芸能界の荒波を泳ぎ切れるほど、私は気が強くなかったのだ。『サクラで起死回生を図る』などと主張する気風の良さもなく、私は流されるまま『サクラ』を事務所に渡してしまった。それでも『サクラ』に対する執着から、私は彼女が歌うのを聞きたいと希望した。
数日後、歌を覚えた彼女をレコーディングブースの外から眺めた。
歌いだしを聞くや否や、『これは彼女の曲だ』と直感した。十六になったばかりの彼女の声には、彼女の外見に引けを取らない清純な透明感があり、その性質が『サクラ』を表現するのにピッタリだったのだ。ただ、所々まだ拙い部分は残っていて、少しだけ冷静さを取り戻した私は『そんな上手くもないじゃない』と、心の中で毒づきもした。そう、テクニックなら私の方が上だった。私だって上手くなかったけど、それでも私の方が上だった。
だからこそ、『サクラ』は彼女のものになったのだ。
中途半端に慣れた私の歌では、『サクラ』の純粋さを表現できなかった。実力らしい実力がついていないのにも拘わらず、私の歌は中途半端にプロの歌で、擦れていたのだ。それに比べて彼女の歌はまだ歌うことに染まりきっておらず素直だった。彼女の持つ拙さは欠点ではなく、『サクラ』を表現するのにピッタリな『特質』という武器だったのだ。彼女と『サクラ』はそれだけマッチしていたのだった。
その後、私は文句を言わず『サクラ』を手放した。
彼女のデビューはたちまち世間を賑わせた。妖精のような愛らしい顔、細長い手足、彼女がいる場所だけ別世界であるかのような錯覚を起こさせる存在感。彼女のデビュー曲『サクラ』は大ヒットとなり、彼女はその曲で、その年の音楽大賞を受賞した。
私はひっそりと涙を零した。何度見直しても『サクラ』の作詞、作曲者の欄には彼女の名前が書かれており、私の名前など、どこにもなかったのだから。
確かに『くれ』と言われ、あげた。だけど私は、『サクラ』が彼女の作詞、作曲として世に出されるなど、一言も聞かされていなかったのだ。
事務所は私に対して後ろめたさがあったのだろう。もしかしたら真実を暴露などされ、彼女の栄光や事務所の風評に傷が付くのを恐れたのかもしれない。彼女のデビュー後、私はあるドラマでそこそこの役にありつけた。だけどそこからヒット、知名度アップ、などというどんでん返しもなく、その時知り合った関係者の紹介で今の夫に出会い、私は何の爪痕も残せないまま芸能界を引退した。
「あの、これ」
彼女は茶封筒を差し出した。私は無言のまま、その茶封筒を受け取った。
私は未だ怒っているのではない。ただ複雑なのだ。
彼女の姿は、お世辞にも綺麗なものとは言えなかった。高級ブランドの衣服や小物には程遠い、着古したカジュアルブランドのものだ。化粧っ気もない。肌にも艶がない。
彼女の花道は、とても短いものだった。ヒットしたのは『サクラ』のみ。演技もあまり上手ではなく、歌も上達しなかったようだ。『出れば出るほど見た目しか取り柄がないのがばれるようだ』と、世間は呟いた。それでも暫くはその外見と存在感で仕事を繋いだようだが、十年前にスキャンダルが発覚し、それからめっきり表舞台に姿を現さなくなっていた。
彼女の存在は世間から消えた。けれど私は毎年、この時期に彼女と会っている。彼女は私の印税となるはずだったお金を茶封筒に入れ、私に会いに来る。
「あのね、」
私は意を決した。
「もう、お金はいいの。だから、これからはあなたのために使って。ね?」
確かに『サクラ』は私が作った曲だ。だが、あれほどヒットしたのは彼女が歌ったからだ。私では『サクラ』を、あれほどのヒット曲には成しえなかった。
彼女はすぐに頭を横に振った。
「また、来ます」
そして花が綻ぶような笑みを湛えた。
ただ一つ救いがあるとするならば、彼女があのころと同じ、純粋な瞳をしているということだ。きっと生活は楽ではないだろうに。気が腐ってしまうようなことだってあるのではないか。参ってしまうことだってあるのではないか。それでもあのころと同じような瞳をして微笑む彼女は、まるで埃まみれのヴィーナス像のようで、私はただ悲しかった。
私の願いは叶った。『サクラ』は今でも懐かしのヒットソングに名を連ねている。娘くらいの若い世代でも口ずさめる人がいるくらい、幅広い世代に知られている。『サクラ』は世間の誰もが知る曲となったのだ。
ただ、その曲を作ったのが私だということを、世間の誰も知らない。知っているのは当時の事務所のスタッフ数名、彼女くらいなものだ。
それと同じように、『サクラ』を歌った歌手が彼女であるということを知る人は、どれだけいるだろうか? 『サクラ』を歌った彼女の名前を知る人はどれだけいるだろうか?
誰も知らない私、誰も知らない彼女。
「では、また」
彼女は小さく会釈し、私の前から去っていった。あの曲は、今日もどこかで誰かに寄り添っているのだろう。私は彼女の後姿を見送り、行き場のない茶封筒をぎゅっと握り締めた。
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