第3話 憧れとの初会話

(ああ、こんな距離に居るのに、キラキラしてる……いい匂いがする……なんて綺麗な手……胸……ああ……今日は本当にいい日だ!)


 熱い眼差しで、皇女の姿を瞳に焼き付けるレパルトの心の中には、決して口に出せない浅はかな想いで埋め尽くされていた。


(俺たち人間と違って不死に近いっていうヴァンパイア……あれで、700歳っていうんだから驚きだよな~……何百年もあんなにお美しいなんて……あんな綺麗な人とお喋りできたら、俺……もう、呪いとかどうでもよくなっちゃうよ)


 レパルトは地下世界でもあまり女と話すことはない。単純に恥ずかしかったり、自分に自信がないなどのためである。

 逆に男友達は多いのだが、いつも逞しく豪快なチャンプは女からもモテており、いつも羨ましいと思っていた。


「今日はウヌらに伝えねばならぬことがある。現在地上では……『魔王アギュー』が統括するオーク族の国、『チャシュー魔王国』が、この偉大なるアルテリア覇王国に進軍している」


 それは、レパルトの妄想や労働者たちの緊張を一瞬で打ち砕く、衝撃的な話であった。


「軍を率いるのは、我ら魔族の間でも名高い英雄……『猪突猛将軍ハッガイ』、そして副将の『バークシャ』という者だ」


 正直、魔王や将軍の名前を言われても誰もがピンと来ない。何故なら、地上世界の有名人や、誰が強いのか、そもそも戦争そのものに対する認識がないからだ。

 だが、それでも、『たくさんの人が死ぬかもしれない』という認識だけは持っている。

 死ぬかもしれない。それは、たとえ世界を知らない地下世界の者たちにとっても恐怖を感じさせるものだった。


「ね、ねえ、チャンプ……なんか、すごそうな奴らが攻めてくるみたいだけど……姫様たち負けないよね?」

「……へっ、たりめーだ。だってよ~、ヴァンパイアってのは、地上世界最強の生物って話じゃねえかよ。なら、楽勝に決まってる」


 レパルトは不安な表情を浮かべながら小声で隣に居るチャンプに尋ねてみた。

 チャンプは一瞬の間を置いて、「何も問題ない」と述べるが、それでもどこか不安を感じさせた。

 地下世界最強のチャンプですら不安を抱いているのだ。ならば地下世界の人間すべてが不安を抱えても……


「よって! しばらく少々地上の騒動で地下が揺れるかもしれぬが、何も気にせず、いつも通りの生活を送るのだ」


 そんな人間たちに漂う不安という空気の中で、皇女はアッサリとそう告げた。

 その言葉には、誰もが驚き顔を上げる。


「どうした、人間たちよ。まさか、わらわたち至高の種たる覇王国が、家畜にもなれぬ豚共に敗北するとでも思ったか?」


 その時だった。

 顔の表情の変化が少ない皇女の口元、目つきが、途端にサディスティックなものへと変貌した。


「今日、わらわたちはただ、しばらく起こると思われる大地の揺れと、そして……しばらく、地下世界の貴様らへの物資は、豚の丸焼きが続くと告げにきただけ……それをよもや、一瞬でもわらわたちの勝利を疑うものが居たのだとしたら、今すぐに名乗りを上げよ」


 す、素敵だ、姫様ァ! と、今すぐにでも叫び出したい衝動を、レパルトは懸命に堪えていた。

 更には、今すぐ手を上げて「疑ってました、踏みつけてください」と名乗りたかったぐらいだ。

 その勇気がない自分を今日ほど恨めしいと思ったことがなかったほどだ。


「はいはーい! 姫様! ここに居る、レパルトって~やつが、一瞬でも姫様の勝利を疑いましたぜ!」

「……えっ……ええええええええええええええ! ちゃちゃ、ちゃんぷ~!」


 その時、冗談交じりでチャンプが軽口叩きながら手を上げて、隣で正座しているレパルトのことを告げ口した。


「ちゃちゃ、ちゃんぷ、ななな、なんてことするんだよ!」

「ひひひ、い~じゃねえか。姫様と少しでもお話出来るかもしれねー機会だろ?」

「だだだだ、だからって! おおお、俺、ばば、罰を!」

「ガキの頃から姫様との妄想で興奮するお前にダチとして気い使ってやってんだ、感謝しろ」


 余計なことをするんじゃないと、慌てて文句を言うレパルトだが、チャンプは笑いながらレパルトの背中を押して前へ出そうとする。

 その光景を見た皇女は小さく、


「ほう」


 と呟いて、ドレスのスカートをたくし上げながら、白いふとももに巻きつけられた鞭を取り出した。


「ウヌら二人は知っているぞ。確か……地下世界のネズミ山大将と、往生際の悪い羽虫だったな……」


 なんていう酷い覚え方! とは、レパルトは思わなかった。

 むしろその逆。心の底から感動していた。

 なぜなら、自分にとっては神に等しい存在が、自分のことを知っていてくれたのだから。


「ふん、わらわたちを心配するなどという分不相応な気遣いをする奴隷め。黙って繁殖と穴掘りを継続して行っていれば良いものを」


 その時だった。

 一瞬の閃光。そして空気を弾く乾いた音が地下世界に響いた。


「いったつあああ!」

「ちょわ、なん、俺まで? ぐへ! ……でも……ちょっと……うれしいかも……」


 レパルトとチャンプに激痛が走って、地面をのたうち回った。

 皮膚がヒリヒリするほど痛く、布服の下は真っ赤に腫れている。

 それは、目に見えぬほどの速度で繰り出された、皇女の鞭。

 地下世界最強のチャンプですら反応できず、一撃で悶絶するほどのもの。

 しかし、一方で……


「いった、う、うう~、す、少し、腫れちゃったよ~」


 ちょっと興奮した笑みのままで地面に平伏しているチャンプに対して、レパルトは……


「……ん?」


 肌がヒリヒリする。そんな様子で、鞭で打たれた肌を擦っていた。

 だが、『肌がヒリヒリする程度』にしか感じていないレパルトの様子に、僅かな違和感を覚えているのは、今この場で、皇女だけであった。


「………………ほれほれ」


 皇女は何かを考えながら、もう一度鞭を振るった。

 今度は一回ではなく、三回叩き。気持ちは、先ほどよりも少々強めだった。

 だが……


「ひっ! わっ! ほおおっ! ……い、いいいっつ、肌にかすった……」

「………なん………だと?」


 振り下ろされた鞭を、受けるどころか、レパルトは反射的に回避してしまった。

 もっとも、回避といっても完全に避けたわけではない。

 鞭の先端が僅かに肌をかすって、一本線の腫れが肌に浮かび上がっていた。

 だが、同時にレパルトは自分のやってしまったことの過ちに気づいた。


「し、しまっ、す、すみません姫様ァ! お、俺、思わず避けちゃって……ご、ごめんなさい!」


 皇女の罰から逃げてしまう。

 本来であれば甘んじて受けなければならないものから見苦しくも逃げてしまうという行為は、最早極刑に値するほど、皇女の怒りを買う行為かもしれなかった。

 そんなレパルトの愚かな行為に地下世界の住民たちは顔を青ざめてしまった。

 だが一方で……


「……あの人間……どういうことだ?」

「姫様の攻撃を……」

「かろうじて回避した?」


 護衛のヴァンパイア騎士たち、そして皇女自身もまた少し驚いていた。

 勿論、全力で攻撃したわけではない。

 しかし、当たると思っていたはずの攻撃が回避されるというのは、予想を越えた事態とも言える。


「……ふん……変な人間だ……不愉快だな。このイラつきは、豚共を蹂躙して晴らすとするか」


 変な人間。皇女が感じたレパルトに対する印象がそれであった。

 その時は、レパルトの体にいつの間にか広がっていた、黒い変な紋様については、特に何も思わなかった。むしろ、ただの泥や痣だと思っていた。


「まあよい、そこの奴隷よ。仕置きの続きは今度してやろう」

「ッ、ひ、姫様ッ!」

「分かったな? では、わらわたちはこれにて失礼する。これから千年経とうとも変わらぬ奉仕を今後も期待するぞ、奴隷共」


 そう言って、姫は周りの護衛たちに合図を送り、そのまま背を向けた。

 だが、最後にもう一つだけ言い残した言葉があったのを思い出して、皇女は……


「また、次の催し物でも、わらわを楽しませろ」


 本来、王族貴族がこの土埃や泥にまみれた地下世界に足を踏み入れる等、ありえない。

 現に、現在のアルテリア覇王国の王も后も、一度もこの地下世界には足を踏み入れていないのである。

 だが、その娘のブリシェールだけは違った。

 自分のために地べたを這いずり回る奴隷たちの姿に何を思っているかは誰にも分からない。

 しかし、どんな想いであろうと、その姿を晒して言葉をくれる。

 それだけで地下世界の人間たちにとっては十分だった。



「「「「「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」」」」」



 それが、今の、明日の、そしてこれから先の未来への労働意欲となる。

 跪いていた人間たちは一斉に立ち上がり、声を張り上げた。


「ひ、姫様、か、かっこ、カッコいいよ~、お、俺、呪いがどうとか言ってられない! 俺も頑張っちゃうぞ!」

「いや、レパルト、おま、なんちゅうことをしてくれるんじゃ」

「だって、おじいちゃま~! 姫様がお、俺のこと、俺のことを!」

「うむ、姫様が今度は、お前を本気で処刑するかもしれぬぞ? どうするのじゃ?」


 これがあるから頑張ることができる。

 祖父の言葉。

 友の友情

 皇女の存在。

 その三つが、呪われたレパルトを、何度も立ち上がらせるきっかけになるのであった。

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