ミステリーすぎる客

池田蕉陽

ミステリーすぎる客



 書店のバイトをしていて最も楽しいことは、客がどんな本を買うのか知れる点にあると思う。レジを担当することが多い俺は特にそうだった。その人の人柄や趣味嗜好をこちらだけが知った気になり、優越感めいたものを感じることができる。大袈裟に言うなら、その人の日常を覗き見したような感覚を味わえた。

 だから、俺は客の顔をよく覚えるようにしていたし、また得意でもあった。覚えておくことで客がレジに本を持ってきた時に、その本が以前に購入した本とどのような繋がり、関連性があるのだろうかと想像する楽しみも増えるからだった。

 今日も俺は入店してきた客に「いらっしゃいませ」と声を掛け、脳内客リストと照合するという動作を繰り返していた。ここの書店のバイトを始めて二年、田舎なこともあってか、基本的に脳内客リストが更新されることは少なかった。

 しかし、ある男性が店に入ってきて、そのリストが更新されることになった。

 見覚えのない客だった。二十代とも三十代とも取れる顔立ちの男だったが、その割に清潔感はあった。短い髪はワックスで固められ、細身にグレーのポロシャツがマッチしていた。仕事が休みで、何となく本屋にでも行こうと思ったのかもしれない。

 俺もあんな風になるのだろうかと大学生ながら考えていると、ふと訝しいものが視界に映り込んだ。それを確かめてみると、思わず「え」と声が漏れてしまった。

男の手提げ鞄に、片手にきゅうりではなく聖書を持った河童の、奇妙なストラップが付けられていた。

 だが俺が声を出してしまったのは、そんなむちゃくちゃな河童のストラップに対してではなかった。驚いたのは、以前にそれと全く同じストラップを付けた客が、この店にやってきたことがあるという事実だった。

 まさか、と思った。俺は脳内客リストに載るその男の顔をよく思い出してみる。そして照らし合わせた結果、やはりそうだと確信した。

 髪や服装は大きく変わっているが、間違いなく今入店した男とリストの男は同一人物だった。前は眼鏡もしていたし、髪もボサボサで、服装もそこらへんで拾ってきたかのような浮浪者を思わせる恰好だったが、目や鼻といったパーツは紛れもなく今店に入ってきた男と一緒だった。何よりの証拠が、他のどこでも見たことがない聖書河童のストラップである。

 河童男の劇的な変化に最初は戸惑ったが、今ではそうなって当然だよなと俺は納得していた。というのも、以前河童男が来た時に購入した本が『悪用厳禁!ホストが教える恋愛術』『恋愛マスターによる告白台詞100』『モテの科学』の三冊なのだ。悩みが露骨すぎて特に印象に残っている。本のタイトルまで記憶に残ってしまったくらいだ。

 つまり、河童男の大変身は買った本に書かれていた助言によるものだろうと俺は推測したのだ。

 そして最も気になるのは、助言のおかげで無事好きな人と結ばれることになったのかという点だった。

 河童男の恋愛模様を勝手に想像していると、まさに今脳内に浮かんでいた顔が目の前に現れた。

「いらっしゃいませ」

 僅かな動揺を隠すように頭を下げると、三冊の本がレジに並べられた。それらの本のタイトルを目で追ってみる。

『メンタル回復の極意』

『失恋は人を強くする』

『モーセの十戒のような振られ方をしたあなたへ贈る2つの言葉』

 俺でなくても振られたと分かる本のラインナップだった。それも曖昧な感じでなく、しっかりとストレートに振られた人間が買う二冊だった。

 三冊目が分からなかった。一体、どんな振られ方をしたのだろうか。モーセの十戒、その文字の並びで海が真っ二つに割れる絵が頭に浮かび上がる。たしか聖書に書いてある戒律のことだ。

 ただ、そのモーセの十戒の例えが、いまいちピンと来なかった。胸に穴が空いた程度では済まず、モーセの十戒ほどに胸を裂かれたという意味なのだろうか。それに、贈る言葉が二つなのも少なすぎる気もする。

 俺は本を袋に入れながら河童男の顔をちらっと見てみる。特に翳りがあるわけでもなく、無表情だった。少しでも心境を読み取れればなと思ったが、何も掴めない。まあ会計の時まで陰鬱な雰囲気をぷんぷんと放つのも珍しいか。

 何にせよ河童男が振られたのは事実だと思うことにし、ドンマイ、次があるさと俺は心の中でエールを送った。それから本の入った袋を手渡す。

「ありがとうございました」

 店を出ていく河童男の背中を眺めながら、俺は脳内客リストに載る彼の顔を更新させた。


 聖書河童ストラップ男が再び店に訪れたのは、それから一週間が経った頃だった。服装は引き続き清潔感が保たれていたが、鞄に付けたストラップも相変わらずの不気味さを醸し出していた。

 一体あんなのどこに売ってるんだ。そんな疑問を浮かべていると、早くも河童男がレジに近づいてくるのが見えた。既に買う本は決まっていたと思うくらいには早かった。

「いらっしゃいませ」

 今度は一体どのような本を持ってきたのだろうか。そんな期待に応えてくれるよう、河童男は目の前に積み重ねられた三冊の本を置いた。一番上の本が裏向きになっていたので、そのままバーコードを通し、袋に入れる際に表紙を確かめた。 

「えっ」

 自分の声が漏れてしまったことに気づかないくらいには固まっていたと思う。はっとして、俺は慌てて次の本のバーコードを通していった。

どういうことだ?

それだけが頭の中を駆け巡っていた。何かの間違いかもしれないと残り二冊のタイトルも確認してみたが、動揺を加速させてしまっただけだった。

 河童男が持ってきた本は以下の三冊だ。

『生まれる前からの子育て』

『はじめてママ&パパになる人の本』

『赤ちゃん脳トレ』

 俺はそれらの入った袋を河童男に手渡した。その際に顔を窺ってみたが、河童男は変わらず無表情だった。まるで何を考えているのか分からない。あのストラップ同様、不気味さだけが張り付いていているように見えた。

「ありがとうございました」

 河童男が店を出ていくと、俺は顎を摘まんだ。

 この一週間で何があったと言うのだ。この前振られたばかりではなかったのか。いや、例え振られていなくても、この展開はあまりにも急すぎる。そもそもこの一週間そこらで事を為し、妊娠が発覚するなんてこと有り得るのか。

 様々な疑問が交差し合い、その度に衝突した。何一つ解消されなかった。

 ただ、これら全ての疑問自体、的外れの可能性だってあることに気づいた。

 もしかしたら、河童男の友達が妊娠し、その人に向けて買ってあげた可能性だってあるわけだ。なんなら、その説の方が十分現実味を帯びている気がした。河童男は振られたが、河童男の友達は子供を宿し、祝福の意味も込めて本をプレゼントしてあげた。ああいった系統の本はそもそも自分で買いそうなものだが、そこは河童男の変人さが際立ったに過ぎないだろう。

 自分の中でようやく納得できる推測が浮かび上がり、俺はほっとした。

 次は河童男の番だぞ、と俺は勝手ながらにまたエールを送らせてもらった。


 俺の推測とエールが無意味なものに成り下がったのは、それからまた一週間が経った時だった。

「お父さん、これ買って」

 小さい男の子が河童男に言った。

「えーもう、しょうがないな」

「ダメよお父さん、今日は算数ドリルを買いに来たんでしょ? それ以外のものは買いません」

 男の子が持っていた仮面ライダー図鑑を、傍にいた女が取り上げた。

「あ! 返してよ」

「ダメです。もう小学生になるんだから、こんな幼稚なもの卒業しなさい」

「コウタ、今日のところはお母さんの言うこと聞いとこう。今度お父さんと二人で来た時に買おうな」

「ちぇっ、お母さんのケチ」

 目前で繰り広げられる光景が、現実なのかどうかを判断するだけでも時間がかかった。それほど、俺にとっては衝撃的だったのだ。

 最初は人違いなのではと思った。しかし、子供に見せる柔らかい表情を除いては、どう見ても河童男だった。何より、鞄には聖書河童ストラップが付けられていたのだから疑う余地もない。それでも疑わずにいられないのは、やはり子供と奥さんの存在だった。

 家庭がある雰囲気は到底感じられなかったけどな。一番最初に河童男を見た時のことを思い出す。誰がどう見ても独身と判断しそうだった。さらに言えば、生活保護を受けているのかなとも思った。そんな人間が既婚者だなんて、俄に信じられなかった。

 だが実際に、河童男の左手の薬指には指輪がはめられていた。ただ、今までもそうだったかを聞かれると、正直覚えていなかった。覚えていないというより、そこに一切目を向けていないが正しい。もし付けていたらそこに目がいってもおかしくないとも思うが、だとしたらその時付けていなかった理由も謎である。

 まさか本当に河童だったらどうしよう。河童でなくても、何か妖怪の類なのではないだろうか。

 そんなあるはずもない空想を浮かべていると、女と子供を連れた河童男がレジにやってきた。

「いらっしゃいませ」

 いつもの如く、レジ前に本が置かれる。二冊あるようで、一番上が小学一年生用の計算ドリルだった。俺はまずその計算ドリルをバーコードに通すと、次の本を手に持つ。河童男が既婚者だった衝撃がまだ抜けきれず、他にどんな本を買ったのかを気にするどころではなかったのだが、自然とタイトルが目に入ってきた。

『仮面ライダー図鑑』

 俺は顔を上げた。河童男がしきりに店の入り口付近を気にするのが目の動きで分かった。入口付近には奥さんと子供が待っていて、二人の会話がこちらまで聞こえてきた。

「仮面ライダー図鑑ほしかったな~」

「まだそんなこといってるの?」

「だって欲しいんだもん」

「これ以上言うなら晩御飯抜きにしますからね」

 子供が俯いて、不貞腐れたように地面を蹴った。

「袋、分けてもらえますか」

河童男が言った。

「かしこまりました」

 俺は言われた通りにして、二つの袋を渡した。お金を出すや否や、河童男は片方の袋を鞄に入れる。聖書河童ストラップが躍るようにして揺れていた。

「ありがとうございました」

 なんだ、優しいお父さんではないか。最初見た時の河童男の印象が忘れられなくて父親としてのイメージが全くつかなかったが、どうやら俺の思っている以上にまともな人間なのかもしれない。

 だからきっと、今まで購入してきた本も自分のためでなく、誰かに向けてのものだったに違いない。恋愛術の本、失恋の本、赤ちゃんに関する本。三つめなんかは、あの奥さんが妊娠している可能性だってあった。家庭を持っていた事実も、最初の印象があったせいで信じられなかったが、今の河童男が初見だったら何も違和感はなかっただろう。

 ただ、何故最初にあんな浮浪者のような恰好をしていたのかという謎だけが残っているが、そこはもう気にしていなかった。単にお洒落に目覚めたのかもしれないし、きっと大して俺が気にすることでもないのだろう。

「ぼく、トイレ行ってくる」

 河童男が戻るや否や、そう言って子供が走り出した。

「ナオミ、買っておいたぞ」

 河童男が言った。

「知ってる、ありがとう」

「違う、ドリルのことじゃない」

 河童男が鞄から袋を取り出した。無論さっき俺が手渡したもので、俺の心はどよめき始めていた。

「なにそれ」

「仮面ライダー図鑑だ」

「え?」

「お前仮面ライダー好きなくせに自分で買うの恥ずかしがってたろ。私が読むんじゃないかって思われそうとか言って。まあ実際そうなんだけどな」

「え、うそ、それで買ってくれたの?」

「ああ」

「すごい、本当に嬉しい、これ最近の仮面ライダーリバイスも載っててずっと欲しかったの。ありがとうねほんと」

「でも、コウタには内緒だぞ」

「うん、わかってる」と奥さんは目を輝かせながら仮面ライダー図鑑の入った袋を自分の鞄に仕舞った。

「ねえすごいよ。トイレに仮面ライダーリバイスのポスターが貼ってあったよ」

 トイレから戻ってきた子供が二人の元に駆け寄りながら言った。

「コウちゃん晩御飯抜きね」

「ええ?」

「次その話したら晩御飯抜きって言ったわよね。それに何度も言うけど、そろそろああいう幼稚なもの卒業しなさい。仮面ライダーリバ……なんだっけ? とりあえず、もう禁止ね」

「えええ」

 奇妙な家族が店を出ていき、俺は脳内客リストに奥さんと子供を新たに追加した。


 それからまた一週間が経過した。

「いらっしゃいませ」

 カップルが店に入ってきた。カップルとすぐ判断できたのは、女の方が男の腕にがっしりしがみついていたからだ。とはいえ、男女共にそこそこの良い年齢に思えた。女の方は化粧が濃く、男の方は革ジャンという、大型バイクのニケツでよく見かける組み合わせだった。そして二人とも、初めて見る顔だった。

「ケンちゃん本屋さんなんて初めて来るんじゃないの?」

「馬鹿言え、こう見えても俺は若いころ読書が趣味だったんだ」

「えーうそー」

「ほんとだ。てか、ナオミの方こそ本屋なんて来ないだろ」

「えー来るよ。ちょうど一週間前くらいにここ来たし」

「へー何買ったんだ?」

「内緒」

 鼻につく声を出しながら唇に指を当てる女を見て、俺は「ん?」と思った。その疑念を確かめるべく、俺は今さっきの会話を頭の中で再生させてみる。それではっとした。

 ナオミ、たしかナオミだったはずだ、河童男の奥さん。河童男がそう呼んでいたのを何となく覚えている。そして今男と腕を組んでいる女、化粧で雰囲気が変わりすぎて最初わからなかったが、間違いなく河童男の奥さんだった。

 あまりにも堂々としすぎている不倫に思わずこちらが臆してしまったが、次第に野次馬魂めいたものに変わった。と同時に、少なからずの可哀想と言う思いが河童男に対して湧いた。奇妙ではあったが、仮面ライダー図鑑を手に持った時の女の顔には、紛れもない夫への愛情を感じたのだ。

 だが、女の左手に指輪が見受けられないとなると、その愛情も偽りだったかもしれない。革ジャン男にも旦那の存在は隠しているだろう。

 不倫女と革ジャン男が入店してから十分程度経過したとき、二人がレジまでやってきた。

「いらっしゃいませ」

「これお願いします」

 そう言って女の方が三冊の本をレジに置いた。

「ナオミ、本気なのか?」

 突如、横にいた革ジャン男が言った。神妙な口調だった。

「本気よ。早く解放されて、ケンちゃんと一緒に暮らしたいもん」

 革ジャン男は苦い顔をした。だがそれも一瞬で、すぐに何かを決心したように毅然とした雰囲気を漂わせた。

「そうか、分かった。なら俺も全力で協力するよ」

「ありがとう」

 何の話か分からなかったが、決して良いものではないだろうなと思った。

 俺はレジに置かれた本をバーコードに通していく。不倫女が持ってきた本は、三冊とも小説だった。

『偽りの未亡人』

『そして、ナイフを持って立っていた』

『完全犯罪人妻』

 タイトルで想像がつく。三冊とも絶対に人妻が旦那を殺すミステリーだった。

 はっ、とした。さっきの会話である。まさかこの二人、河童男を殺すのではないか。この三冊の小説は河童男を殺す手口の参考書にするつもりなのではないか。

 いやいや、と俺はすぐに冷静になる。考えすぎだ。殺人を犯すのにミステリー小説を参考にする人がどこにいるというのだ。たかが小説だぞ。いや、だがミステリー作家だってリアリティを追求するために犯罪手口を熟考しているはずだ。だとしたらやはりこの二人は本当に?

 考えがぐるぐる回って、金銭のやり取りを覚えていなかった。我に返ったときには、既に二人は店を後にするところだった。

 頼むから俺の妄想であってくれと切に願った。

 

 それから一ヶ月が経った。その間、河童男は一度も店に姿を現さなかった。今まで週に一度のペースで訪れていたのに、不倫女と革ジャン男が来て以降それがばったりなくなったので、やはり俺の妄想が現実になったのではないかと不安になった。

 俺はその日、店に入ってくる客が河童男であるかどうかを確認しては、首を項垂れた。頼むから来てくれ。

 そう祈った瞬間、その願いが半分届いたのかと思われる人物が来店した。

 河童男の息子だった。学校帰りなのか、白い帽子に濃緑のランドセルを背負っていた。おまけに上の服が緑だったので、河童を連想した。なんなんだこの家族は、と心の中で吐き捨てた。

 ただ、こうして普通に河童少年が学校帰りに本屋に寄るということは、河童男は今も何事もなく暮らしているのかなと安心させられた。やはり俺の思い過ごしで、あの会話も全く別のことに違いなかったと。

 そうとなれば、次の不安が襲い掛かってきた。いや、不安と言うには大袈裟かもしれない。あの二人の親にしてこの子あり、つまり河童少年も奇妙なチョイスの本を持ってくるのではと思った。

 一体、何を持ってくるのだ、確定申告の本か、それとも結婚雑誌か。何が来ても俺は驚かないぞという構えの元で河童少年を待ち受けた。

 そして河童少年が入店してから十分程度経った後、ついに少年がレジに近づいてきた。さあ来た、と俺も身を引き締めた。

 しかし、俺の心の準備は無意味となった。というより、拍子抜けに近かったかもしれない。河童少年が持ってきたのは本でもなく、ただの鉛筆一本だった。

 まああの二人があれだからといって、この子が変とも限らないか。

「ありがとうございました」と頭を下げ、河童少年を目だけで見送る。

 その時だった。

「ちょっと待ちなさい」

 パートのおばさんが河童少年の腕を掴んだ。河童少年はびっくりした顔で振り向いた。

「お店の本、盗ったでしょ。そのランドセルに入れたままお会計してないの見てたんだから」

「と、盗ってないよ」

 河童少年は明らかに動揺していた。

「じゃあそのランドセルの中身見せてちょうだい」

 しばらく少年は拒んでいたが、やがて諦めたようにランドセルを差し出した。

 パートのおばさんがランドセルを器用に開ける。自分の子供のランドセルから手紙を回収するのに慣れているのかな、と呑気なことを考えていたせいか、おばさんが聖書を取り出した時は思わず声が漏れた。

「やっぱり。ちょっとこっちに来なさい」

 おばさんがレジ後ろのバックヤードへと河童少年を連れて行く。後ろの扉が閉まった時、俺の頭の中では聖書河童ストラップが浮かんでいた。

 これは、何だ。今回のことだけではない。今までの一連の全てだ。聖書河童ストラップ、河童男の奇妙な本のチョイス、仮面ライダー図鑑、不倫女と革ジャン男、そして河童のような外見の少年が聖書を万引き。何なのだ一体。まだ河童の呪いと言われた方が納得のいくレベルだった。

 河童少年がバックヤードに連れて行かれて十分ほど経った頃、パートのおばさんが出てきた。

「ごめん、池崎くん。さっきの子の親御さんに電話で来るよう伝えたんだけど、それまであの子見てやってくれない?」

「あー」と煮え切らない返事をしてしまう。正直嫌だった。関わるのが怖かった。だが同時に、少なからずの好奇心もあった。河童少年と話すことで、この一連の出来事の謎が、全てではなくても解明するかもしれない。それに単純に、断る理由も思いつかなかった。

「わかりました」

 そう言って俺はパートのおばさんにレジを任せ、バックヤードに足を踏み入れた。


「どうして聖書なんか万引きしたの?」

 河童少年は無口だった。前に仮面ライダー図鑑を強請っていた時の男の子らしい雰囲気はまるで感じ取れなかった。何を聞いてもだいたいは無反応で、たまに「うん」か首を捻るだけだった。もしかしたら俺と口を利きたくないだけかもしれないが。

だが、俺の最大のこの疑問には、河童少年は口を開いてくれた。

「お父さんがモーセの十戒みたいな振られ方したから」

「え?」

 何週間か前に、河童男が『モーセの十戒のような振られ方をしたあなたへ贈る2つの言葉』という本を買っていたのを思い出す。ただ同じように小学一年生の男の子が、例えでモーセの十戒を表現したことに動揺した。

「お父さん、最近聖書読みながらぶつぶつ言ってた。モーセの十戒のような振られ方したって」

 想像してみると、何とも奇妙な光景だった。

「つまりお父さん、誰かに振られたの?」

 俺は聞いてみる。

「うん」

「誰に?」

「お父さんが好きだった人」

「お母さんってこと?」

「ううん、別の人」

 俺は言葉に詰まる。それはつまり不倫ということだろうか。気になったが、その疑問を直接小学生に尋ねるのはさすがに憚れた。

「不倫だよ」

 肩が跳ね上がりそうになった。俺の心の内を読んだわけではないだろうが、それができてしまいそうな雰囲気が河童少年にはあった。

「そうなんだ。不倫って言葉、よく知ってるね」

「お父さんが読んでた本に書いてあった。お父さん、本ばっか頼ってる。いきなりあんな感じになったのも、きっと本に書いてたからだよ」

 慣れてきたのか、徐々に口数が増えてくる。あんな感じになったというのは、俺が最初に見た浮浪者河童男から今の清潔河童男への大変身のことを言っているのだろう。

「君のお父さん、赤ちゃんの本とかも買ってたんだけど、それは何でかな」

 残された疑問をぶつけてみる。

すると「あー」と、河童少年があからさまに暗い顔をした。

「お母さんのお腹の中に赤ちゃんができたからだよ」

 河童少年は伏し目がちになって言った。答えは予想通りで、不倫はするのに身ごもった赤ちゃんへの愛情は注ぐつもりでいるらしい。ただ、河童少年の浮かない顔が気になった。

「嬉しくないの?」

 河童少年は頷いた。

「だって、偽物なんだもん」

「偽物?」

「お父さんの子じゃない。お母さんが不倫している男の人の子なんだ」

「ほんとに?」と俺は驚いた。この驚きには、今河童少年が言ったことと河童少年が   母親の不倫を把握しているのと、あと一つが含まれていた。俺はそのあと一つを尋ねてみる。

「なんでそう言い切れるの?」

「だって」と河童少年は、また暗い顔をする。

「お母さん、お父さんを殺しちゃったんだ」

「え?」

 まさかこのタイミングで自分の予想と答え合わせをするなんて思わず、喉に矢が刺さったときのような声を出してしまう。深呼吸をして、ひゅーと息を吐く。

「なんで?」

 なんで知ってるの、と聞きたかった。

「だって僕、見たもん。お母さんが変な粉をお父さんのビールに入れるの。その後にお父さんが倒れちゃって……」

 河童少年は泣きこそはしなかったが、その時の光景を思い出してか顔に翳りが差していた。

 小学一年生にしては早すぎる知識を持ち合わせて、それによって導き出された根拠というわけではなく、どうやら赤ちゃんができたのにお父さんを殺したから、革ジャン男との子供と思っているらしかった。

 本当に革ジャン男との子供かどうかは定かではないが、河童男が殺されてしまったことに関しては何故か疑わなかった。どこか頭の隅では、やはりそう思っていたからかもしれない。あの三冊の小説も、俺の予想通りきっと殺人の教科書としたのだ。だとしたら俺はどうすればいい。警察に言うべきか、でもどこまで信用してくれるだろうか。

「だから僕、お父さんのお墓にこれを備えようと思って」

 これからすべきことを頭の中で整理していると、河童少年が机に置かれた聖書を手に持った。

「それを?」

 そういえば聖書を万引きした理由がはっきりしていなかったことを思い出す。モーセの十戒のような振られ方をしたという理由だけで聖書を万引きするのが、いまいちピンと来ていなかったのだ。

「うん。お父さん、毎日聖書ばっか読んでた。でも、お父さんが死んだときにお母さんが全部捨てちゃったらしくて、家に一冊も残っていなかったんだ。だからお父さんの好きだった聖書を備えたかったんだけど、お金がなくて……」

「それで万引きを?」

 河童少年が頷く。

 健気な子じゃないか、と思った。それに、逞しさもある。お父さんがお母さんに殺されたというのに、こんなにも情緒が安定しているように見えるだろうか。普通はもっと途中で取り乱してもおかしくはない。本当はよくない万引きも、今となってはそれも勇気として捉えられた。父親の河童男の趣味は正直気味悪いが、この子の父親に対する愛情は本物だと感じた。

 俺が河童少年にしてあげれられることはないだろうかと考えてみる。すると、一つ閃いた。警察に事情を話すことより、十分こっちの方が河童少年にとって嬉しいのではと思った。

「ちょっと待ってて」

 俺は席を立ち、本を出版社に返品する用の棚に向かった。そこから一冊の本を取り出し、再び河童少年の前に座りなおす。

「これ良かったらあげるよ」

 俺は仮面ライダー図鑑を河童少年に手渡した。

「え?」と驚いた顔を見せる。

「前にこの店来てくれた時、これ欲しがってたよね。本当はよくないんだけどあげるよ。誰にも内緒な」

 両親の不倫、父が殺されるという不幸が続いている中こんなのあげても喜ばないかもしれないとも思ったが、そんな心配はいらなかったようで河童少年の顔は、ぱっと明るくなった。

「ごめんねー池崎くん、相手してもらって。もう親御さんいらっしゃったからレジに戻ってもらって大丈夫よ」

「あ、はい。わかりました」

 図鑑を隠すように小声で指示すると、河童少年も悪戯っ子のような笑みでランドセルにそれを入れた。

「コウタ」

 俺が席を立ちあがったと同時に、そう男の声がした。俺は「え?」と思い、そちらを向いた。

「お、お父さん? どうして……生きてたの?」

「何を馬鹿なこと言ってるんだ。そんなこと言って誤魔化そうとしてるんだろ。ダメじゃないか、万引きなんてしたら」

「え、え……」

 河童少年は父親が生きていたことに、ひどく困惑しているようだった。

 だが、どうやら俺と河童少年で食い違いが発生しているようだった。

 誰だ、この男……。

 全く見たこともない男だった。この男が父親なんだとしたら、あの河童男は一体……?

 聖書河童ストラップが不気味に揺れる様を思い出し、俺は発狂したくなった。

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ミステリーすぎる客 池田蕉陽 @haruya5370

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