第11話

 いよいよ聖なる夜の訪れる日がやって来た。

 とは言え、まずは普通に学校がある。こんな日に生徒達が授業に集中できるわけもなく、誰しもそわそわしているように見えた。

 休み時間には放課後の予定を話している者も多い。友人と過ごしたり、家族と過ごしたり、恋人と過ごしたり、その過ごし方は様々だろう。

 彩日あやひにとっては玲愛れいあと友達になってから、恋人になってから、初めてのクリスマス。例年のように騒がしい世の中に呪詛を吐く必要はなかった。


「それじゃ、また後でね、彩日」

「うん。待ち合わせ場所に着いたら連絡するよ」

「わたしも先に着いたら連絡するね」


 放課後になり、彩日は駅で玲愛と別れた。

 彼女の姿が見えなくなるまで見届けると、そのまま帰路に就いた。早歩きだ。まだ待ち合わせの時間までしばらくあるが、早く帰るにこしたことはない。色々と準備がある。


 帰宅した彩日は自室で前日から用意していた服に着替えていく。上は白色のセーターで下は水色のスカートだ。色々と調べながら自分なりに精一杯考えた服装だった。シンプルだけど悪くはない、はず。

 続けて行ったのは、化粧だ。卓上鏡を前にして慎重に施していく。これに関しては以前、玲愛に少しだけ教えてもらったことがあった。不慣れな人間が凝ってもろくなことはないので基礎的な部分だけに留めたが、自分でやった割には良い出来に思えた。


 一通りの準備を終えると最後に、リュックの中身を確認していく。忘れ物があったら困る。

 財布には普段より多くの現金を入れているので、いざという時にも対応できるだろう。

 あとはクリスマスプレゼントも用意している。正直、何が喜んでもらえるかはさっぱりだった。色々と悩んだが普段から使ってもらえる物が良いと思い、モフモフで温かそうなブランケットにした。身体を冷やすことは様々な不調に通じるらしいので、気を付けてもらいたい。


「……よし」


 彩日はリュックの中身の確認を終えると背負い、プレゼントの入った紙袋を手に持って、部屋を出た。

 おかしなところがないか、最後に改めて玄関の姿見で外見を確認していく。

 と、そこでガチャリと音を立ててリビングの扉が開いた。

 普段なら大抵寝ているはずの父親、慧佑けいすけが姿を見せる。

 想定外の事態に硬直した彩日の姿を一瞥し、鼻で笑いながら言う。


「色気づいてんな。男でも出来たか」

「……お父さんには関係ない」

「違いねぇ。別に興味もないしな」


 冷たく言い返しても、父は一切動じた様子を見せない。

 むしろ一層揶揄するように言う。


「俺は明日の夜まで帰らないから、家に連れ込んでも構わねぇぜ」


 思いがけない情報にドキッとする。

 父はどこに行くのだろうか、という疑問よりも動揺が生じた。


「し、しないからっ!」


 そんな様子を尻目に父は去ろうとする。

 そこでふと、彩日は思うことがあった。以前から気になっていたこと。だけど、訊けずにいたこと。

 なぜ今なのかは自分でも良く分からない。訊かなければならないと思って、父を呼び止めた。


「ねぇ、お父さん」

「ああ?」

「お母さんって、私のことをどう思ってるのかな」

「そんなこと俺が知るか。本人に訊けよ」


 父は冷淡に切り捨てた。しかし、彩日はしつこく食い下がる。


「私はお母さんのことを全然知らないし、分からない。でも、だから、知りたいの。お願い、お父さん」


 父は顔をしかめて舌打ちした。こんな風に強く問いかけることは、これまで一度たりともなかった為だろう。けれど、強引に会話を断ち切られることはなかった。

 父にしては珍しく、口にするかどうか悩んでいる様子だった。

 やがて、深い溜息を吐いた後、言う。


「……本当に大切なものは傍に置けない奴だよ、あいつはな」

「それじゃあ、お母さんは……」

「後は自分で考えろよ。ったく、漏れちまうだろうが」

「ご、ごめんなさい……」


 父は足早にトイレへと消えていった。リビングから出てきて行く先なんて限られているので、気づけていなかったことに申し訳なさを抱く。

 しかし、父の発した言葉と垣間見せた慈しむような表情は、彩日に大きな気づきを与えてくれた。

 これまで何度も思ったことがある。どうして父と母は離婚しないのか、と。

 今の二人の関係は一般的な夫婦像とは掛け離れているだろう。破綻しているとしか思えない。

 わざわざ離婚する必要性がないからしないのか、あるいは、結婚したままの方が都合が良いのか。どちらにせよ、そこにお互いへの想いはない。そんな風に考えていた。


 しかし、こうも考えられるのではないか。

 父と母はどこかで通じ合っていて、お互いのことを理解していて、だからこそ今のような関係でいる。そして、父の言った母の大切なものの中には、自分も入っているのかもしれない。

 あくまで仮定だし、もしそれが当たっていたとしてもやっぱり理解できない。

 彩日が玲愛との間に築き上げたいと思っている関係とはまったく別物だ。

 けれど、決して否定はできない。多分、そこに正解なんてないのだから。自分達にとって最良となるように模索していくしかない。

 彩日の心中で吹き溜まっていた両親への悪感情は僅かだが払拭されていた。それはこれまでほとんどすることのなかった行いをさせる。


「……行ってきます」


 誰にも聞こえないような声で呟くと、家を出た。

 廊下を歩きながらふと、父が今夜は家にいないことを思い出す。何の気なしに自分の爪を確認した。昨夜、しっかりと切って磨いたので短くて艶がある。他にも身だしなみには気を付けたつもりだ。念の為に。

 と、そこまで考えてからブンブンと首を横に振った。

 ……駄目駄目駄目、初デートなんだから、お淑やかにしないと!

 彩日は必死に自制の言葉を唱えながら、到着したエレベーターに乗り込むのだった。






 玲愛は電車に乗って待ち合わせ場所に向かいながら、昨夜のことを回想していた。

 夕飯後、弟が部屋にいるタイミングを見計らって、リビングにいた両親に声を掛けた。


「お父さん、お母さん、聞いて欲しいことがあるの」


 珍しく早く帰宅していた父親の和彦かずひこは、母親の紫織しおりと他愛もない会話をしている様子だった。

 二人の視線がこちらを向く。


「どうしたの?」


 母の問いに、玲愛は答える。


「明日の夜、泊まってくるかもしれない」

「泊まるって、友達の家?」


 それならきっと快く送り出してくれただろう。

 けれど、玲愛は首を緩やかに振った。嘘は吐きたくなかった。


「わたしの、大切な人と一緒に過ごしたいの」


 恋人が同性である、ということは意図的に伏せた。

 どうしても両親の年代には受け入れ難いだろうし、子供のことを考えると言いづらかった。

 まだ覚悟が足りていないんだろうな、と自嘲する。本当は今こうしているだけでも両足が震えている。それでも、これは必要なことだと思えた。


「それは、その……玲愛はまだ高校生なんだし、焦る必要はないんじゃない? 大人になるまでは清廉な関係でいた方が良いと思うわ」


 母は戸惑いの表情を浮かべながら言う。

 良家の育ちで貞操観念が高い為、既にそういう関係にある、とまでは考えていないようだった。実際、間違ってはいないが。


「ねぇ、あなた?」


 そう言って母は父の判断を仰いだ。

 蒼樹あおき家は典型的な家父長制である為、大事な判断はいつだって父に委ねられている。

 自分に賛同してくれるだろう、と母は確信しているように見えた。

 しかし、重々しく口を開いた父が告げたのは、思わぬ言葉だった。


「玲愛の好きにするといい」


 それには母だけでなく、玲愛も驚いた。

 父が社会規範を重んじていることは知っている。その為、良くは思わないだろうと予想していた。そういう意味では初めから駄目で元々だったのだ。


「本当にいいの? 危険なことだって色々とあるのに」


 母は納得いかなそうに問いかけるが、父は判断を変えることはなかった。


「玲愛は聡い子だ。自分のことは自分で決められる。そうだな?」

「う、うん!」


 慌てて頷く。そんな風に信頼してもらえていることが嬉しかった。


「なら、何も言うことはない。自分がそうしたいと思ったことをしなさい。その上で、私達はいつだって玲愛の味方だ。もし困った時には頼って欲しい」

「……分かったわ。十分に気を付けるのよ」


 父の言葉を受けて、母も渋々とだが了承してくれた。


「ありがとう、お父さん、お母さん!」


 素直に感謝を伝えて自室に戻った玲愛は、閉じた扉に背を当てると、ずるずるとへたり込んだ。

 これまでの人生で一番緊張したかもしれない。だって、両親の意に沿わないであろうことはずっと避けてきたから。

 それは自分がこれまでとは違った道へと足を進めていることを意味している。その先に何があるかなんて分からない。真っ暗闇が広がっている。

 それでも、今の自分には引いてくれる手がある。視ていてくれる女性ひとがいる。だから、怖くない。


 彩日が自分にたくさんのことを望んでくれているのは感じていた。

 なのに、彼女は我慢しようとしている。その様子は何度も感じ取ることが出来た。

 それはきっと思いやりの気持ちから来ているのだろう。傷つけてしまわない為に焦っちゃいけない、というように。

 けれど、そのせいで二人の間に隔たりが出来てしまっているように思う。

 燃え滾るような情熱の言葉を贈ってくれて、一度はあれだけ近づいたのに、今はまた遠のいてしまっていると感じる。


 それが、寂しい。満たされない。不安になる。

 そう考えると、本当は自分こそ彼女を必要としているのかもしれないと思えた。だから、何とか繋ぎ留めようとしている。

 ……情けないな、わたし。

 自分にこんな一面があるなんて知らなかった。

 でも、やっぱり今のままは嫌だ。彩日の欲望をもっと素直に向けて欲しかった。我慢なんてして欲しくない。その為なら多少強引にでも迫る。

 拒絶されてしまったら、と考えれば随分と場当たり的なプランだとは思う。何せ事前の相談や思わせる発言などなしに、当日に切り出そうというのだから。

 けれど、それでいい。それがいい。

 以前の自分なら怖くてとても選べなかったことも、今は願いが細やかな勇気となって決断させてくれていた。


 回想を終えた玲愛は窓の外で移ろいでいく景色に目を向ける。

 既に日が暮れており、華やかにライトアップされている場所も少なくなかった。

 彩日と会うまでもう少し。まだ連絡は来ていないので、先に着くかもしれない。

 ちゃんと言えるだろうか。この気持ちを伝えられるだろうか。

 胸元に手を当てると、その高鳴りが強く感じられた。






 彩日が待ち合わせした駅前に到着すると、そこでは既に玲愛が待っていた。


「玲愛、ごめん。待たせた」

「わたしも今来たところだよ。って前もこんなやり取りしたね」

「そう言えば……」


 あの時は、デートみたいだ、と思って照れた覚えがある。

 それを踏まえた上で彩日は言う。


「でも、今日はちゃんとデートだから」

「だね。初デートだ」


 そんなやり取りをして思わず頬が緩み、笑い合う。


「服の雰囲気もいつもと違ってるね」

「ど、どうかな?」

「ピュアホワイトとアイスブルーの色合いが今の季節にも彩日にも凄く似合ってるよ。とっても綺麗。それに、ふわふわのニット着てると小動物みたいで可愛い」

「良かった……」


 彩日は安心して吐息を漏らした。

 褒めてくれた玲愛は、上はベージュの服に緑のカーディガンを羽織っていて、下は花柄のスカートだった。それぞれ違った色に花柄まで取り入れているにもかかわらず、全体として調和していると感じられた。


「私はどこがどうとかは良く分からないけど、玲愛もめちゃくちゃ可愛い」

「ありがとう。彩日がそう思ってくれるなら嬉しいな」

「それじゃ行こうか。多分こっち」

「うん。まだちょっと早いと思うけど、入れてもらえるかな」


 二人で予約していたレストランへと向かう。事前にスマホで確認した通りに進んでいくと、問題なく到着することが出来た。

 高校生の身で高級な店に行くのは憚られるので、リーズナブルにクリスマスディナーを楽しめる雰囲気の良さそうな店を探したつもりだ。

 まだ予約の時間にはなっていなかったが、店に入ると案内してもらえた。

 二人用の席だ。どちらもソファとなっているので、座りやすい。店内の雰囲気もとても落ち着いていて、ゆっくりとした時間を過ごすにはこれ以上にないと思えた。


 席に座って程なくすると、店員がやって来た。コースを予約しているので、二人ともソフトドリンクだけを注文する。まさか未成年で酒を頼むわけにもいかない。

 飲み物はすぐに届けられ、一緒に前菜もやって来た。

 一枚の皿の上に複数の小鉢が並んでおり、それぞれ違う種類のものが盛られている。


「私、こういうの初めてかもしれない……」

「わたしもあまりないかな。やっぱりコース料理って大人な感じがするし。家族と行ったことあるくらいで」

「な、何かまずいところがあったら言って」

「心配しないでも大丈夫だって。出てくる料理を普通に食べていくだけなんだから」


 お互いに両手を合わせて「いただきます」と言うと、箸を手に取った。

 それぞれの前菜の説明は持ってきた際に店員がしてくれたが、正直もう良く覚えていない。なので、適当に摘まんで口に入れる。


「あ、美味しい」

「だね。どうやってこんな風に味付けしてるのかな」


 玲愛は自分でも料理する人間らしい発言をする。

 それに対し、彩日は自らの食生活から素朴に感じたことを呟く。


「やっぱりコンビニやスーパーのお弁当のおかずとは違うんだ」

「……前から思ってたけど、彩日はもう少しちゃんとした食事をした方が良いと思う」


 玲愛にしては珍しいジト目でこちらを見てきた。

 以前に比べると多少は改善しているのだが、彼女からすればまだまだなのだろう。


「わたしがたまに作りに行ってあげよっか?」

「えっ」


 玲愛がにこやかに告げた提案に心が躍る。

 それは嬉しい。玲愛の手料理を食べてみたい。弁当のおかずを分けてもらうことはあるけれど、家で作る料理はまた別物だろう。

 しかし、家には基本的に父がいる。それを思えば、やっぱり家に来て欲しくはない。

 そこでふと気づく。今でも自分の家族の話をするのは抵抗があることに。玲愛に晒せていない部分があるのだ。あれだけ彼女を欲したくせに。


「か、考えとく……」

「そっか」


 玲愛も食い下がることはなかった。きっと頷けば喜んでやってくれたと思うが。

 少し空気が沈んでしまったので、彩日は慌てて別の話題を取り出す。


「玲愛はいつもクリスマスってどんな感じだった?」

「友達とクリスマスパーティーか、それがない時は家族と一緒に過ごしてたかな。彩日は?」

「私、そういうのしたことなくて……」

「じゃあまた皆でパーティーもしようよ。きっと楽しめるよ」

「うん。してみたい」


 八重やえはるか茉莉花まりかすず達と一緒に過ごす姿を想像する。それも楽しいに違いない。

 ただ、今年は玲愛と二人で過ごしたかった。誰より大切な人と一緒にいたかったのだ。

 他愛もない話をしながら食事は進んでいく。新しい料理を口にする度に舌鼓を打った。

 特に席の時間制限はない様子だったので、コース料理が終わった後もコーヒーを頼んでしばらくのんびりさせてもらった。

 そのタイミングでプレゼント交換をした。お互いに受け取って、中身を確かめる。


「わ、このブランケットすっごい温かい……こんなの毎日使っちゃうよ。ありがとう、彩日」


 玲愛は嬉しそうにその質感を楽しんでいた。

 それに対し、彩日は彼女から貰ったプレゼントを奇妙な物を見るように眺める。


「これは、何?」

「クッションファンデだよ。まずは基本からと思って前に教えた時は外してたんだけど、ササッとベースメイク出来て便利だから、せっかくだしプレゼントしようと思って。彩日にピッタリの物を選んだつもりなんだけど」

「な、なるほど……?」


 こればかりは実際に使ってみないと良く分からなそうだ。

 けれど、自分の為に選んだと言われると、それだけで嬉しい。


「もし何かあったらすぐに言ってね。相談もいつでも乗るから」

「分かった。また試してみる」


 その後もたくさん話をした。これまで話してこなかったことも色々と。

 まだまだ話し足りないくらいだったが、既に二十一時を過ぎており高校生としては遅い時間なので、店を出た。

 寒空の下、彩日は玲愛と並んでイルミネーションで彩られた街中を歩いていく。

 この後の予定は特に考えていない。足取りは自然と駅に向いており、このまま帰ることになるだろう。


 本音を言えば、玲愛ともっと一緒にいたい。二人きりで過ごしたい。くっつきたい。キスしたい。それ以上のこともしたい。

 あまりに自分の頭の中が玲愛への欲求で満たされていることに辟易とする。

 焦ってはいけない。がっつくような様を見せたくない。

 だから、今はこれだけ。そう思って、彩日は玲愛の空いた手に軽く触れた。


「ふふ」


 彼女は笑って握り締めてくれる。それだけで幸福な気持ちとなる。

 こんな時間がいつまでも続けばいいのに。そうは思っても時間は無情に過ぎていく。

 やがて、駅前に着いてしまった。電車に乗り込んでしまえば、後は別れるだけだ。引き留めるなら今しかない。

 しかし、彩日は何も言い出せない。言ってはならないと思っている。


「それじゃ──」


 帰ろうか、と言おうとしたところで、それより先に玲愛が口を開いた。


「わたし、今日は家に帰らなくても平気だから」


 玲愛はサラッと言うが、その表情は真剣だった。


「それって……」

「彩日はさ、我慢しないでいいんだよ。わたしはその想いを全部受け止めたいから」


 そう言って彼女は微笑む。

 こちらの気持ちを見透かしたようだった。きっとそれだけ露骨に表れていたのだろう。

 恥ずかしい。でも、そこにはやっぱり御し切れない自分の本心がある。

 玲愛の全てが欲しい。なのに、自分の心を晒すことには抵抗を抱いている。アンビバレントな感情。

 それは彩日に二人の関係を一気に進めることを躊躇わせる。一度は乗り越えたはずの隔たりを再び作り出そうとしてしまう。


 なら、玲愛の覚悟を無下にするのか。また先延ばしにするのか。言い訳し続けるのか。

 きっと彼女は待ってくれるだろう。けれど、本当にそれでいいのか。

 ……良くない。いいわけがない。だから、踏み出すんだ、前へ。

 彩日は覚悟を決めて、言う。


「明日の夜まで家に誰もいないから、来て」

「うん、喜んで」






「おぉ~、ここが彩日の部屋かぁ」


 玲愛と一緒に帰宅した彩日は、リビングには酒瓶が転がっていそうなので、そのまま自室へと連れてきた。

 一軒家住みの彼女には高層マンションは何かと物珍しいらしく、エントランスの時からいちいち感嘆の息を漏らしていた。


「散らかっててごめん」

「確かに物が多いけど、全然汚くはないし、気にならないよ」


 そう言えば、来客用のクッションなんてない、と気づく。

 地べたに座らせるわけにもいかないので、彩日はベッドを勧めることにした。


「もし玲愛が良かったらだけど、ベッドに座って。その、ちゃんと洗ってるし、綺麗だと思うから」


 もう一つの選択肢としてはPCの置かれたデスク前のチェアがあったが、そちらよりも柔らかいベッドの方がきっと楽だろう。他意はない。


「ありがとう、そうさせてもらうね」


 玲愛が躊躇う様子もなくベッドに腰かけると、ギギと微かに軋む音がした。

 この部屋は自分以外は決して立ち入らない、言わば聖域だった。

 そこに今、玲愛がいる。それは実に不思議な光景に思えた。


「彩日?」


 玲愛が不思議そうに首を傾げた。

 ハッと正気に戻り、彩日は慌てて言う。


「な、何でもない」


 チェアの方に座ろうとすると、玲愛に呼び止められた。


「彩日もこっちに一緒に座ろうよ」

「う、うん……そうする」


 促されるがままに隣に座った。自分の部屋なのに、何となく身を小さくしてしまう。

 これまでは何だかんだ二人きりになるのは外だった。

 けれど、今は違う。誰かが来る心配もない。二人で何をしたって構わない。

 そう思うと、途端に玲愛を欲する気持ちが溢れ出してきた。

 彼女の側から漂ってくる甘やかな香りや、触れる手の柔らかな感触にクラクラする。

 けれど、まだ駄目だ。その前にしなければならないことがある。


「お風呂、沸かしてくる」


 一度落ち着きたい彩日はそう伝えて部屋を出ると、浴室に行って給湯のボタンを押した。

 それから大きく深呼吸する。少しでも高鳴る心臓を静めたかった。

 部屋に戻ると、もう一度玲愛の隣に座って、言う。


「玲愛に聞いて欲しい話があるんだ」

「うん、何でも聞かせて」


 玲愛はどんな自分でもきっと受け入れてくれる。

 だから、何も隠さなくていい。思っていることをきちんと話そう。

 そうして初めて、自分は前に進むことが出来るはずだから。


「この間のカラオケでさ、皆で進路の話したよね」

「あったね。それがどうかした?」

「皆はこうなりたいとかこんな風であって欲しいと思う将来があって……でも、私はそういうのが何もないんだ。自分がどうなっても構わない。そんな風に思いながら生きてきたから。未来なんてこれっぽっちも考えてなかった」


 彩日は思わず視線を落とす。真っすぐ玲愛を見たまま吐露することが出来なかった。


「これから自分がどう生きていけばいいのか、今も分からない。だけど、それじゃ駄目だっていうのは分かる。だって、玲愛が好きだから。置いていかれたくない、から」


 あの時から感じ続けていた不安。

 玲愛の手を離さないと誓ったはずだった。けれど、本当にそれが出来るのか。こんな漠然と生きてきた人間が変われるのか。彼女のように立派に生きていけるのか。

 そんな弱さや怯えを玲愛に見せることは出来ないと思っていた。一人で抱え込もうとしていた。

 だけど、そうやって隠したままで彼女に触れられるほど自分は器用ではない。きっと近づけば近づくほど、心が耐えられなくなる。

 今こそ、この心に吹き溜まった想いを打ち明ける。


「ねぇ、玲愛……私はどうすればいいのかな。私は何になればいい……? 何になれば、玲愛とこれからも一緒にいられる……?」


 彩日は切に問いかける。気づけば、双眸からは大粒の涙が零れ落ちていた。

 答えが欲しいわけではない。ただ、知って欲しかった。こうやって悩んでしまう、みっともない自分を。


「大丈夫」


 そう言って、玲愛は優しく抱き締めてくれた。

 温かい。こうやって彼女に包まれていると、不思議と乱れた感情が落ち着いていくようだった。


「彩日はこれって決めたら、何にだってなれるよ。わたしはそう思う」


 その言葉には玲愛からの強い信頼が感じられた。


「進路の話をしてた時、わたし言ったよね。まだわからない、って」

「……言ってた」

「そんな風に思うようになったのは、彩日の影響なんだよ?」

「えっ……?」


 彩日は思い当たる節がなかった。すると、玲愛は呆れ気味に息を吐いた。


「だって、わたしはこんな風に自分が誰かを好きだと思って、一緒にいることを選ぶなんて考えてもいなかったんだから」


 ギュッと一層強く抱き締められる。身体が密着して、お互いの鼓動まで感じられた。

 玲愛は耳元で囁くように言う。


「未来がどうなるか分からないのは怖いよね。不安になるよね。わたしだってそうだよ。でも、分からないからこそ、わたし達は希望を抱くことが出来るんじゃないかな」

「希望……」

「わたしは願ってるよ、彩日と一緒に幸せになれる未来を。彩日にも願って欲しいな。そうして、頑張っていこうよ、二人でね」


 玲愛は一度身体を少し離すと、正面から花が咲くような笑顔を向けてくれた。

 それには溜まっていた澱みが全て浄化されるような気分だった。


「……うん。私も玲愛と一緒に幸せになれる未来を願ってる。諦めたりしない」


 彩日は涙を拭うと、玲愛の手の上に自分の手を置いた。

 彼女が向けてくれている想いの強さを知った。だからこそ、挫けるわけにはいかない。


「まずは今の自分がやりたいこと、やってみたいことをとことん考えてみるといいんじゃないかな。別に未来でまた違う何かを見つけたなら、どれだけ変えたっていいんだよ」

「もっと考えてみる。ありがとう、玲愛」

「どういたしまして」


 まだまだ二人で話したいことはある。けれど、今はそれどころではなかった。

 心でつっかえていた物が取れたことに加えて、玲愛からの抱擁と言葉は彩日の心に火を入れるには十分過ぎた。

 玲愛の細やかな唇に自らの唇を重ねる。彼女もそれを拒まない。こちらの衝動を受け入れてくれる。

 もう、止まりはしない。

 そう思っていた彩日だが、そのタイミングで風呂が沸いたことを示す音が聞こえてきた。


「…………」


 二人は思わず見合う。少しして、どちらともなく吹き出した。

 屋上の時といい、どうにも間が悪い。それでも、確かにまだ済ませていない準備もあったので、焦らずに事を進めることに決める。


「玲愛、先に入ってくれる? その間に色々と用意しとくから」

「うん、わかった」


 玲愛の着替えは彩日の服から着れそうな物を用意する。

 それらを抱えると、洗面所へと案内した。玲愛は自分のメイクポーチを手にしていた。

 タオルを取り出して服と一緒に浴室前の脱衣スペースに置く。

 それから一緒に浴室に入って説明を行った。


「もし他にも必要な物があったら言って」

「ううん、十分だよ。ありがとう」

「それじゃ、ごゆっくり」


 彩日はそう言って、浴室へと通じる洗面所の扉を閉じた。

 玲愛が家の浴室を使う。その事実だけでドキドキするが、のんびりしているわけにもいかない。

 今のうちに彼女が泊まる準備をしておく必要がある。少し悩んだが、枕だけ用意した。今更、別の布団を用意して取り繕うようなことはしない。


「お待たせ~」


 しばらくして、玲愛が部屋に戻ってきた。

 彩日が着ればオーバーサイズな服も、彼女が着ればピッタリだった。

 僅かに火照った顔やしっとり艶めく髪の毛が色っぽく感じられた。


「それじゃ私も入ってくる。飲み物とか置いといたから、好きに飲んで」


 そう言い残して、入れ替わりに出ようとする。


「急がないでいいからね」


 玲愛はそう返すが、後から一言付け足した。


「でも、待ってる」


 こちらを見上げるその顔は最上級の可愛さだった。

 急がないでいられるわけがない。彩日は烏の行水の如き最高速度で入浴を済ませた。もちろん、しっかりと身を清めた上でだが。

 そうして、部屋に戻ったところ、玲愛に揶揄するように言われる。


「急がないでいいって言ってるのに」

「わ、私はいつもこんなもんだから……」


 それが嘘なことはバレバレだっただろう。ただ、玲愛も深く追及してくることはなかった。

 彩日は彼女の隣に座る。先程までとの違いがあるとすれば、ベッドの枕が二つになっており、寝る準備は万端だということくらい。既に入眠には十分な時間帯なので、このまま寝てしまうことも出来る。

 けれど、今の彩日はもうそんな言い訳をする気はなかった。

 不思議と落ち着いている。間違いなく昂揚はしているけれど、それだけではない。心中で情熱と冷静が両立しているようだった。

 真っ向から見据えて、必要な言葉を口にする。


「玲愛。もう我慢しないから。全部受け止めて、私の気持ちを」

「うん。彩日の好きにして。あなたをわたしに刻み込んで」


 初めは優しく触れるだけのキス。しっとりとしていて、ほんのり温かな感触。

 それは浅い部分から、徐々に深い部分へと進んでいく。重ねて、絡めて、繋がって。

 玲愛の息遣いや温もりが感じられる。今の自分達に距離はない。限りなく近づいている。

 その滑らかな素肌に触れながら彼女の感覚に思いを馳せる。どんな風に感じているだろうか。この部分はどうだろうか。

 それは未知の体験だった。言葉ではない領域。自分と相手の感覚に意識を研ぎ澄ましていく。

 きっとこうすることでしか分からないこともあるのだろう。また玲愛の好きなところが増えていくのを感じた。

 抱き合って、互いの身をとろかせ合って、聖なる夜は過ぎていった。






 玲愛はふわりと包み込まれるような眠りから目覚めるのを感じた。

 時計は見ていないが、いつも起きるくらいの時間だろう。

 彩日はすぐ隣でまだ眠っていた。子供のようなあどけなさを残す寝顔に微笑ましくなる。

 お互いに一糸纏わぬ姿であり、掛け布団だけが覆い隠してくれていた。


「っ……」


 昨夜のことを思い出すと、求められる嬉しさやら気恥ずかしさやら色々と押し寄せてくる。

 その上で、やっぱりそれは今の自分達に必要だったのだと思った。

 彩日は抱え込んでいた不安を打ち明けてくれた。それが隔たりとなっていたことを知った。

 けれど、身も心も溶け合わせていくような営みは、自分達の関係を新しいものへと変えてくれただろう。


 人は決して誰かと一つにはなれない。でも、一つになろうとすることは出来る。

 きっとこれからはこれまでよりもお互いに素直でいられるだろう。

 そんな二人の未来に何が待ち受けているかは分からない。

 もしかすれば、引き裂かれてしまうようなことだってあるのかもしれない。

 その可能性をあり得ないと一蹴することは決して出来ない。

 それでも、彩日との幸いな未来を願い続けよう。それが自分の“好き”だから。

 玲愛は寝ている彩日に淡い祝福キスをする。こちらからするのは初めてだった。


「ん、ぅ……」


 彩日は長い睫毛を震わせ、吐息を漏らす。


「ごめん、起こしちゃった? まだ寝てていいよ」

「……ううん、玲愛が起きてるなら私も起きていたい」


 彩日はそう言って、くっついてきた。肌と肌が優しく擦れて、お互いの体温が重なっていく。

 カーテンの隙間から漏れた陽の光が部屋の中をほんのりと満たしていた。

 新しい朝の訪れだ。それは冬なのに春を思わせるような暖かな心地を伴っていた。

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