第7話

「……駄目だ」


 彩日あやひは力なく自室のベッドに倒れ込んだ。

 数時間前の光景を思い出す。電車内で玲愛れいあに決別を告げられた。もう二度と踏み込んでくるな、とそういう意味合いの言葉だった。

 何も言い返せず電車内に取り残された彩日。その胸中を満たした感情は絶望ではなかった。

 自然と両拳をギュッと握り締めており、胸の裡に湧き上がっていたのは、怒りだ。


 ……ふざけんな。馬鹿、大馬鹿!

 本当に“好き”がなくても良いと思ってるなら、そんな顔をするはずがない。

 欲しいくせに。求めてるくせに。手に入らないから、背を向けて。

 それは以前の自分を見ているようだった。そんな自分は玲愛が寄り添ってくれたことで、確かに救われたのだ。

 今度はこちらの番だ。諦めるな。まだ何も終わっていない。


 そう強く思いながら帰宅したは良いものの、それから何の案も出せないまま時間だけが経過していた。

 玲愛はもうこれまでのようには付き合ってくれないだろう。その為、手探りで進んでいくわけにはいかない。玲愛が求めるもの、すなわち彼女の“好き”を提示する必要がある。

 しかし、それはやはり不可能なのではないかと思えてしまう。もし可能だというなら、何らかの形で玲愛の語った言説を打ち崩さなければならないが、いくら考えても答えは出なかった。


“好き”が感じられないという感覚。彩日には想像することしか出来ない。けれど、想像するだけでも思わず身を震わせてしまう。

 だって、どうしようもなく辛かったあの頃、物語が“好き”だという想いだけがこの生を支えてくれていたから。

 もし自分が同じように“好き”を持っていなければ、きっと無気力に日々を過ごしていたに違いない。生きていたかさえ怪しい。

 その点、玲愛は凄いと思う。それが“好き”を持たないことへの悲愴な思いの上に成り立っているものであろうとも、あれだけ頑張ることが出来ているのだから。


「はぁ……」


 彩日は大きく溜息を吐くと、途端に空腹を感じ始めた。既に夜になっていることに気づく。

 夕飯を買いに行かなければ。そう思って自室から出たところで、ふとリビングに視線を向けた。

 その瞬間、一つの考えが稲妻のようによぎる。


 もしかすれば、誰より頼れるかもしれない相手がすぐ傍にいる。

 しかし、これまでそんな風に頼ったことは一度もなく、あまりに未知数だった。その上、こちらは悪感情を抱いている。

 ただ、玲愛達と関わるようになったことで、僅かにその心境は変化していた。

 親失格なのは間違いないが、きちんと向き合ってみると、何か分かることがあるのかもしれない。

 それに今にして思えば、どうしようもなく苦しかった時、物語にのめり込むきっかけをくれた相手でもあった。あれは偶然だったのだろうか。それとも、意図してのものだったのだろうか。


「っ……」


 意を決した彩日は、リビングの扉を開ける。そこでは起きて間もない様子の父親、慧佑けいすけがテーブル上のノートPCに向かっていた。髪はボサボサで無精髭も伸びており、シャツにスウェットという適当な姿だ。

 相変わらず部屋の中には酒の臭いが充満している。今日も朝まで飲んでいたのだろう。

 彩日からすれば、だらしなく、軽薄で、ろくでもない大人そのものだ。


 しかし、芸の道では超人じみたあの母親と結婚する人間が只者のはずはない。

 そして、彩日を親として導こうという気は微塵もなくとも、これまで最低限の務めを果たしてきたのは、いつだってこの父親だった。

 彼なら自分には導き出せないことを教えてくれるかもしれない。

 そう願いながら、藁にも縋る思いで話しかける。


「ねぇ、お父さん。聞いて欲しいことがある」

「あぁ? 見て分かんねぇか、俺は忙しい」


 父はカタカタとキーボードを叩いており、こちらを見もしない。

 以前の彩日ならこの時点で引いていただろう。けれど、今は違う。

 諦めずに、もう一度可能な限りの誠意を込めて言う。


「お願い。私にとって大事なことなんだ」

「……ちっ、しょうがねぇな。さっさと話せよ。手短にな」


 父は渋々といった様子でこちらを向いた。

 玲愛のことをどこまで話すべきか。悩んだ彩日は比喩的な話を試みる。


「私には苦しんでいるように、溺れて藻掻いてるように見える人がいるんだ。でも、その人は手を差し伸べても払いのけてしまう。苦しくなんてないって。そんな時、私はどうしたらいいのかな」

「なら、手じゃなくて足でも差し伸べてみろよ」


 本気で言っているのか、と彩日は疑いの目を向けた。しかし、父は不服そうな顔をする。


「何だよ、別に冗談で言ってるわけじゃないぞ。要は違う方法を考えろってことだ。溺れてる奴を救うにも、手を差し伸べる以外に誰か助けを呼んだり、救命道着を持って来たり、ボートで傍に行ったり、方法はいくらでもある。そして、これが正解と言えるものもない。相手によって、状況によって、いくらでも変化するもんだ」


 違う方法か、と彩日は悩む。

 他に一体、何が出来るのだろう。何を言えるのだろう。

 それを見かねたのか、父は問いを投げ掛けてきた。


「お前は誰かに何かを伝えたい時、直接言葉で言うのが一番優れていると思うか? 物語や絵画、音楽はその劣化品だと思うか?」

「そんなことない」


 彩日は迷いなく答えた。なぜなら、自分は間違いなくそういったものから、上手く言葉に出来ないたくさんのものを受け取っていたから。

 その瞬間、見過ごしていた可能性の一端に触れたような気がした。


「そういうこった。同じ内容でも方法が違えば、結果が違うこともある。一つの立ち位置や見方に囚われるんじゃねぇ。そうやって工夫を重ねた結果、今までは届かなかった手が届くことだってある。ま、簡単なことじゃねぇがな」


 玲愛が“好き”を感じる何かを探せば良いと思った。けれど、それでは何も見つからなかった。“好き”はどこまでいっても感情的なもので、自分はそれを感じられないように出来ている、と否定された。

 なら、今度はそんな考えをもっと根幹から変える。全てをひっくり返すように。

 それはか細く微かだけれど、光明のように感じられた。


「これで用件は済んだな」


 父はそう言うと、興味なさそうにPCへと向き直った。

 これまではどうせこちらに興味がないと思って、関わらないようにしていた。一緒に住んでいるだけの赤の他人だ、と。

 けれど、それは勝手に壁を作っていただけなのかもしれない。例え粗野ではあっても、問いを投げればこんなにもちゃんと答えてくれるのだから。

 まさに見方が変わった。それでも、ろくな親ではないことに違いはないが。


「ありがとう、お父さん」


 彩日は素直に伝えるが、父は「ふん」と鼻を鳴らすだけだった。

 自室に戻ると、改めて一から考え直し始めた。夕飯を買いに行こうとしていたことはすっかり忘れていた。

 弱まっていた情熱の炎も、今では再び激しく燃え滾っている。

 遡ろう、これまでの日々を。違った視点ならきっと、見えてくるものがある。

 彩日は思考の海を潜っていく。深く、深く、どこまでも。


 ──そうして、彩日は遂に至る、一つの答えに。






 彩日は空き教室で八重やえはるかに向き合っていた。

 事前に連絡して集まってもらったのだ。玲愛には秘密で。


「で、何だよ、玲愛のことで話って」

「そうそう。あたしも文化祭の製作で忙しいんだけどねぇ」

「二人に協力して欲しいことがあるんだ。玲愛の為に」


 彩日は自分の考えた二つの計画について話す。

 一つ目は、玲愛の二日目の予定を全てなくして文化祭を楽しんでもらうこと。八重と遥に一緒に回って欲しいと考えている。

 そして、もう一つは彼女の為に用意した物に関する話だった。


「面白いね。いいじゃん、あたしは協力するよ」


 遥はニヤッと愉快そうに笑みを浮かべた。後者の内容に不思議なくらいに食いついていた。


「それが、玲愛の為になるんだな?」


 八重はそう問いかけてきた。

 彩日は詳しい理由を話していない。それは玲愛の許可なしに勝手に話して良いことではないからだ。八重が疑わしく思ってしまうのも無理はない。

 その上で、彩日は言う。


「うん。私はこれが何よりも玲愛の為になると思ってる。だから、やりたいんだ」


 彩日は自信のこもった声音と表情でそう言った。

 すると、八重は何かを納得したように頷いた。


「分かった。私も協力する。だけどな、それなら何で玲愛と文化祭を一緒に回るのが私達なんだよ」

「えっ、それはやっぱり、私が考えたことだから……」


 一つ目の計画の為には二日目の間もやることがあり、それは全て自分が務めるつもりだった。

 しかし、八重は言う。


「そっちは私と遥で分担してやる。だから、彩日が玲愛と一緒に回れよ」


 それは願ってもない提案だった。本音を言えば、そうしたかった。

 だが、それは彼女達への迷惑となってしまう。八重は特に当日はライブの準備などあるだろうに。


「……本当に、いいの?」

「ああ。私らの方は二人でライブと作品を見に来てくれれば、それでいいさ。そうだろ、遥?」

「うむうむ。あやぴーはもっとワガママになりなよ」


 彼女達の優しさに涙ぐみそうになる。けれど、それは全部終えた後にしなければならない。


「ありがとう、二人とも」


 父といい、彼女達といい、力を貸してもらってばかりだ。

 以前の自分がどれだけ大切なものから目を背けていたのかが良く分かる。

 今は独りではない。だからこそ、出来ることがある。


「それじゃ、これ。お願い」


 八重と遥にそれぞれ一枚の紙を渡した。

 これこそ彩日の導き出した答えの要となるものだった。


「なるべく早く渡すよ。もうそんなに時間もないしな」

「こういうのはちょっち苦手なんだけどねぇ。ま、あたしらしいものにするかんね」

「うん。さっき伝えた内容になっていれば、後は自由に任せるよ」


 彼女達の協力を取り付けたことで、計画を進めていける。

 なので、次だ。この計画にはまだ必要不可欠なものがある。






 翌朝、始業の前に彩日は学校の中庭で人を待っていた。


「お待たせ~、彩日ちゃん」


 いつも通りのんびりした口調の茉莉花まりかが姿を見せた。


「急にこんな場所に呼び出してごめん。来てくれてありがとう」

「びっくりしちゃったよ。まさか告白でもされるのかなぁって」


 茉莉花は冗談めかしてそんなことを言う。

 それに対し、彩日は最初から本題を切り出した。


「文化祭の玲愛のシフトのことで相談があるんだ」

「玲愛ちゃんの?」

「二日目に入っている分を全部空けて欲しい。代わりに八重と遥が入ってくれることになってるから」

「それなら別にいいけど……そのこと、玲愛ちゃんは知らないんだよね?」

「……うん。これは私が勝手にやろうとしていること」


 そう言うと、茉莉花は少し考える様子を見せた。

 その後、一つの問いを投げてくる。


「それで、時間の空いた玲愛ちゃんと何かするの?」

「私と一緒に文化祭を回る、予定」


 上手くいくかは分からないので、断言は出来なかった。

 にもかかわらず、それを聞いた茉莉花は柔らかい笑みを浮かべた。


「なら、一つだけ条件があるよ」

「条件……?」

「英国風カフェに二人でお客さんとして来て」


 それはとても簡単な条件だった。しかし、懸念がある。


「でも、クラスの人間が行っても迷惑じゃ……」

「ううん、そんなことないよ。店員の経験はあっても、お客さんとして味わうのはまた別物だし、迷惑なんてことあるわけない」


 茉莉花の言葉からはとにかく皆に楽しんで欲しいという気持ちが感じ取れた。


「玲愛ちゃんも料理の試作の時に味見なんかはしてたけど、皆で作り上げた英国風カフェとアフタヌーンティーを体感して、素敵だなって思ってもらいたいの。もちろん、彩日ちゃんにも、ね?」


 彩日は迷わず頷いた。


「うん、分かった。必ず行くよ」

「楽しみに待ってるね。それじゃ、用件はそれだけかな?」


 そう言われて、彩日はまだあったことを思い出す。


「あ、あとこれもお願いしたいんだ」


 八重達に渡した物と同じ紙を取り出した。

 内容を簡単に説明して、茉莉花に手渡す。


「なるほど~。玲愛ちゃんは果報者だねぇ、こんなに想ってもらえて」


 彼女がどういう意味合いでそう言ったのかは良く分からなかった。

 何にせよ、これでクラスのシフトに関しては問題なくなった。

 けれど、玲愛がボランティア部として請け負った仕事がまだまだあるだろう。

 それを解決する為、そしてもう一つの目的の為、彼女の協力を仰ぎに行くとしよう。






 同日の昼休み。彩日は一年生の階を訪れていた。目当ての人物を探していると、一つの教室の中にいた彼女と目が合った。


「あれ、彩日先輩? ここ、一年生のフロアですけど、迷子ですか?」


 出てくるなりそう言ったのは、すずだ。ボランティア部に所属し、先輩の玲愛に深い尊敬の念を抱く一年生。


「そんなわけない」

「ですよねー」

「鈴ちゃんに用があったんだ。ちょっといい?」

「別に構わないですけど」


 人気のない廊下の端の方に移動すると、早速用件を切り出した。


「え、駄目ですよ! ボランティア部の記録を見せて欲しいなんて、個人情報の漏洩です!」

「そこを何とか。もし何かあったら、私に脅されたとか言ってくれていいから」


 必死に拝み倒す。実際、問題のある行為なのは間違いないので、それ以外の方法は思い付かなかった。以前、ボランティア部の部室を訪れた際に、依頼や活動の内容に関してはきちんと記録が取られていることを知っている。


「そもそも、どうしてそんなものが見たいんですか? 先輩が見ても面白いものじゃないと思いますけど」


 鈴は呆れた様子で問いかけてきた。

 嘘を吐くわけにはいかない。正直な気持ちを言葉にする。


「玲愛の為に、必要なんだ」


 それを聞いた鈴は、しばらく悩む様子を見せた後、遂に頷いてくれる。


「……わかりました。内緒ですよ」


 職員室に行って鍵を取り、二人でボランティア部の部室へと向かう。

 その最中、ふと鈴に問いかけてみる。


「鈴ちゃんは玲愛に憧れてるよね」

「そりゃそうですよ。あんなに完璧な人、他にいませんし」

「じゃあさ、もし玲愛が今みたいに完璧じゃなかったら、どう? 例えば、別に運動も勉強も得意じゃなくて、みたいな」

「うーん、いまいち想像できませんけど……それでも、やっぱり憧れてるような気がします」

「それはどうして?」

「だって、玲愛先輩の本当に凄いところって、もっと別にありますよね。普通はあんな風には出来ないですよ」


 鈴の答えに安堵する。それは自分の為そうとしていることを改めて確認させてくれた。


「……やっぱり、鈴ちゃんもそう思うよね。でも多分、玲愛はそのことに気づいてないんだ。だから、伝えなくちゃならない」

「彩日先輩……」


 やがて部室に着くと、鈴はボランティア部の記録を取り出して見せてくれた。

 彩日が求めたものは二つあった。一つは文化祭でボランティア部、特に玲愛が請け負っている依頼に関する情報。もう一つは、玲愛が過去に完了した依頼に関する情報だ。全て記録を取らせてもらう。特に学外であれば電話番号や施設の場所などを知らなければならない。

 必要な情報はこれで集まった。けれど、それをもとにまだまだやることがある。


「ありがとう、鈴ちゃん。それじゃ、これ。お願いしていいかな」

「さっき言ってたやつですね。わかりました。他の部員にはわたしが話を通しときます。みんな、玲愛先輩にすっごくお世話になってますから、喜んでもらえるならきっと何でもやりますよ」


 彼女にも八重達に渡した紙と同じ物を、玲愛を除くボランティア部の人数分だけ渡す。

 文化祭までもう日がない。時間との勝負だ。急がなければ。

 間に合うだろうか。いや、必ず間に合わせてみせる。

 全ては玲愛に“好き”を教える為に。






 玲愛は状況が呑み込めずに困惑していると、彩日がこちらを導くようにして言う。


「家庭科室の中、ちょっと見てみてよ」


 言われるがままに覗き込んだ。どうやら既に仕込みを始めている様子だった。

 だが、すぐにおかしな点に気づく。この部活に関係ないはずの者がいるのだ。

 それは異なる時間帯で玲愛に代役を頼んでいる他クラスの生徒だった。


「彼女ね、望む時間の代役を用意する代わりにこの時間だけここを手伝ってくれないか、って頼んだら快く引き受けてくれたんだ。早い時間なら空いてるからって。やっぱり誰かに一方的に自分の役割を押し付けるのは心苦しかったみたい」


 玲愛が言葉を失くしていると、彩日は更に驚きの内容を口にする。


「今日、玲愛が行う予定だった代役はどれも同じように他の依頼人に頼んで手伝ってもらう約束をしてる。だから、さっき言った通り、今日の玲愛の予定はもうないよ」


 そう言われても、とても信じることは出来ない。そもそも、なぜ彩日がボランティア部の依頼人を把握しているのか。いや、それ以前にそんなことをする意味がどこにあるのか。


「なんで、そんなこと……」

「玲愛が色々な人の予定を一人で背負い込んで、せっかくの文化祭を楽しめないなんておかしいと思ったから」


 彩日は迷いなく言い切った。純然たる彼女のエゴが感じられた。

 しかし、それとは別の角度からの問いを投げ掛けてくる。


「それにさ、玲愛の行いは本当に皆の為になってると思う?」

「ちゃんと喜んでくれてる……それの何がいけないの」

「はっきり言って、玲愛がこの文化祭でやってることはただの自己満足だよ。一時的な解決にはなっても、その後に繋がっていないことだらけだ。むしろ、状況が悪くなってることすらある」

「えっ……?」

「例えば、昨日も他のクラスのシフトに代役で入ったよね。私、何人かに確認したよ。その代役を頼んだクラスメイトをどう思ったかって。誰も良い顔はしてなかった。明確に悪口を言うほどでもなかったけどさ。ちょっと気に入らないってくらい」


 彩日の言葉に愕然とする。依頼人が喜べば、それで良いと思っていた。

 けれど、その結果、他の生徒に不快感を与えていたり、関係性に影響を与えているなんて、考えもしていなかった。


「クラスで決まったシフトなんて、誰かに押し付けるものじゃない。もしどうしてもその時間が駄目なら文化祭委員に相談して変えてもらうとか、クラスの友達に変わってもらうとか、そういうところから始めるべきでしょ? もしそれが出来ないのなら、そういうことが出来るように寄り添って手助けしてあげることが、一番その人の為になるんじゃないかな」


 彼女は同じ問題に対して異なる解決策を提示していた。そして、その行いには少なからず覚えがあった。


「それはさ、玲愛が私にしてくれたことなんだよ」


 彩日は以前なら決して見せなかったような優しい微笑を浮かべる。

 確かにその通りだった。彼女の場合、合理的で単純な解決法はなかった為だ。中学時代の八重の時も似たような感じだった。

 もし自分が労働力を提供するだけで喜ばれるなら、間違いなくそうしてしまう。

 けれど、それは提示された問題の表面しか見ていない。そう突きつけられていた。


「もちろん、単純に人手が欲しいってこともある。ここみたいにね」


 そう言って、彩日は家庭科室の中を指し示した。

 部員ではない者が混ざっていても、和気藹々とした様子だった。


「だから、私は依頼人同士で協力する形を考えたんだ。この方法なら誰か一人が背負う必要はない。色々と管理する必要はあるけど、ボランティア部は彼らを仲介する立場になっても良いと思う。どうかな?」


 玲愛一人の身体で引き受けられる依頼の量には限りがあった。正直、今年も止むを得ず断ったことはあった。しかし、この方法なら理論上は際限なく引き受けることが可能となる。文化祭は特別なので、普段は別にそんな必要もないが。


「良いと思う、けど……」

「良かった。それじゃ、最後にもう一つだけ」


 彩日はこちらの顔をしっかりと見据えて、告げる。


「この文化祭で、私が玲愛の好きを教えてあげる。だから、私を信じて」


 一度無理だったのだから、諦めればいいのに。そう思っても、自信満々な彩日の顔に心が揺らいだ。彼女に突きつけられた内容によって、既に十分な程に打ちのめされている。

 だからこそ、あっさりと身を預けることへと傾いていった。


「……わかった。任せるよ」

「うん、任された。昨日頑張ったんだから、今日は文化祭を楽しもう、一緒に」


 彩日は自然な笑顔を浮かべて、こちらの手を引いてくれる。その手は燃えるような熱を帯びているように感じられた。一体何が彼女をそんな風に駆り立てるのか。

 彼女に連れられて、歩き出す。この身はどこへ行くのだろう。もはや自分には見当もつかない。ただ流されていく。

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