第三章
第6話
今日の服装は、トップスにはオフホワイトのタンクトップにライトベージュのシャツを羽織っており、ボトムスにはマスタードイエローのテーパードパンツを履いている。
自分は一般平均に比べると、背が高くてウエストは細く手足が長い、スタイルが良いとされるタイプなので、それが映えるような服を選んでいる。秋らしい色合いにもしていた。
「ごめん、待たせた」
約束の時間より早くやって来ているのに、謝るのが彩日らしい。
「わたしも今来たところだよ」
デートみたいな台詞だ、と言ってから思う。
すると、彩日は照れた様子を見せていた。同じことを考えたのかもしれない。
彼女の服装は、トップスにはグレーのプルオーバーパーカーを着ており、ボトムスにはネイビーのワイドパンツを履いていた。
らしいと言えばらしいが、彼女にはもっとガーリーやフェミニンな服装も似合うように思う。修学旅行時に着せたビスチェ風のレースワンピースは彼女にとても似合っていた。ただ、それを説得するのは恥ずかしがり屋なので難しそうだ。
「今日はどこに行くの?」
「それは行ってからのお楽しみ」
玲愛も自分の“好き”を探した経験がないわけではない。一般的な範疇のことであれば、大抵は経験済みだ。しかし、彩日ならこちらが思い付きもしないことをしてくれそうだと思えた。
「シューティング、レンジ?」
玲愛は店の看板を見て、初めて目にした言葉を思わず口にする。
「うん。普通の場所は色々行ったことありそうだけど、流石にこれは来たことないだろうなって」
交友関係は広いと思うが、確かにその中でも聞いたことはなかった。
店内の様子から何をする場所かはすぐに見当がついた。壁にはたくさんの銃が並んでおり、奥からはタタタタと小気味良い音が聞こえてくる。エアガンの射撃場だ。
「彩日は来たことあるの?」
「……いや、初めて。その、前から興味はあって」
彩日は何やら言いにくそうにしていた。その様子からここが選ばれた理由を察する。
「もしかして、一人じゃ心細いから、ちょうどいいと選んだ?」
「うっ……ごめん」
彩日は悪いことをして叱られた子供のような様子を見せ、微笑ましい気持ちとなる。
「別にいいんだけどね。実際、エアガン撃つなんて初めてだよ、わたし」
そう言うと、彩日はホッと安堵する様子を見せた。分かりやすいなぁ、と思う。
彼女はいつだって繊細で、臆病で、純粋だ。極めて珍しいくらいに。
だからこそ、この間は驚いた。まさかあんな風に踏み込んでくるとは思いもしていなかった。
玲愛には見通すことの出来ない、深層的な領域で変化があったのだろう。
なら、それは一体何なのか。彩日は今も変わらず不思議な存在だ。
そんな彼女だから、期待したくなる。自分では見つけられなかった“好き”を見つけてくれるのではないか、と。
「ほら、行こ?」
彩日を促して店の中へと入る。
二人とも初めてな為、店員にレクチャーして貰えるコースを選んだ。
まずは簡単な説明を受ける。どうやらいくつかの種類の銃を体験できるらしい。
「見たことある銃ばかりで、ここから選ぶとなると困る……」
彩日はそんなことを言いながらも、表情は緩んでいた。楽しそうで何よりだ。
最初は10m先にある的を電動ガンで撃つことになった。指定された的を全部撃ち落とすまでの時間を競う、タイムアタックが出来るらしい。
彩日は悩みに悩んだ末に好きな映画に出ていたという銃を選んでいた。
こちらは良く分からないので、店員におすすめを選んでもらった。ダットサイトなる物が上部に付いていて、表示された光の点の部分へと弾が飛んでいくとのことだ。
準備も整い、先に彩日が試射を始める。射撃地点に立った彼女はストックという部分を肩前に当てて、構えた銃の引き金を引いた。
「わっ……!?」
撃った際の反動に驚いていた。彼女の銃はリアルな重量や反動があるタイプらしいので、それがなかなかに強力なのかもしれない。
試射を終えた彩日は満足気に言う。
「本当に銃を撃ってる感じがして楽しい!」
「おー、映画の中の人物になった気分?」
「そうそう!」
彩日のテンションがこんなに高いのは珍しい。
続けて、玲愛も試す。教えられた通りに安全装置を解除して、ダットサイトを覗き込んで照準を合わし、引き金を引いた。
銃口からBB弾が軽快に飛び出していく。僅かに反動はあったが、すぐに慣れる程度だった。
的に綺麗に当たると、確かに気持ち良い。これは未知の体験だ。
二人ともが試射を終えたところで、いよいよタイムアタックを行う。
「勝負だ」
「負けないよ」
先攻は彩日だ。店員が開始の合図を出し、撃ち始めた。しかし、的には思うように当たっていない。銃口がブレているように見えた。やはり反動が彼女には大きいのかもしれない。慣れもあるだろう。
少し時間が掛かりながらも最後の的を撃ち終える。彼女の結果は二十秒ほどだった。速ければ十秒を切るようなので、遅い方のようだ。
「お疲れ様」
「難しい……」
戻ってきた彩日は納得いかなそうにしていた。
それを見て、玲愛はどうしようかなと思う。花を持たせても良いが、彩日がそれを望むかどうか。
少し考えた末に本気でやることに決める。彼女はそういう配慮を喜ぶタイプではないだろう。
玲愛は先程の試射で大体の感じを掴んでいたので、始まる前からダットサイトを覗き込んで銃の角度を調整しておく。
開始と共に引き金を引くと、予想と少しズレていたが、そこから修正していく。こういうのは得意だ。最後は一列に並んだ的を薙ぎ払うように一掃し、一気に終わらせた。
結果はおよそ十秒だった。こちらの勝利だ。
「ふふっ、どうかな、わたしの腕前は」
振り返って勝ち誇ると、彩日は見惚れたような表情をしていたが、すぐに悔しそうな表情となって言う。
「次! 次は負けないから!」
その後も他の銃で遊ばせてもらい、気づけば決められた時間が終了していた。
「また来たいな」
店を出ながら彩日はポツリと零す。どうやら相当気に入ったらしい。始終楽しそうだった。
「玲愛はどうだった?」
「うーん、楽しかったけど、いつも通りかな」
彩日の問いに、“好き”は感じないことを示す。
彼女もそう簡単にはいかないと思っていたようで、落胆することはなかった。
「そっか……じゃあ次に行こう。まだまだ色々考えてるんだから」
「それは彩日が気になってた場所?」
「……だ、駄目?」
不安そうな顔をする。こういう表情をしている時は、その小さな体躯もあって、実に小動物的だ。安心させる為の笑顔を形作る。
「構わないよ。その方が彩日も楽しいもんね」
「……ありがと、玲愛」
彩日の先導に従い、次の目的地へと向けて歩き出した。その道中でふと考える。
あっちに行ってみたい、こっちも行ってみたい。彩日はそんな風に親の腕を引いていく子供のようだ。
その好奇心や情熱が羨ましい。自分にはまるで理解できない感覚だから。
心のベクトルの欠如。自ら何かへと向かう想いというものがない。
だからこそ、両親や社会の示す価値観に縋らずにはいられなかった。誰かに指針を与えてもらうことで、やっとどこかに向かっていける。
この胸の裡には何もない。虚無で満たされている。瞬間瞬間の感覚が全て呑み込まれていく。
それは玲愛にとって何よりのコンプレックスだった。他者には決して知られたくない部分。
だから、これまでは誰にも踏み込ませなかった。自分からは踏み込んでいくくせに、踏み込もうとして来た相手は拒絶してきた。
本当は彩日にも“好き”を持たないことを晒すつもりなどなかったのだ。それでも、期待してしまった。彼女ならあるいは、と。期待すれば期待しただけ、叶わなかった時が辛いと分かっているのに。
“好き”が欲しい。それは積年の切なる願い。
期待と不安を共に抱きながら、彩日の灯す篝火に導かれていく。
しかし、その裏では彼女が以前語った“好き”の分析が着実に進んでいた。
十一月に入り、クラスのホームルームでは文化祭に関する話が行われるようになった。
玲愛は自席で教壇に立つ二人の文化祭委員の話を聞いていた。その一人は
「それでは、文化祭のクラスの出し物はアフタヌーンティーを売りにした英国風カフェとなりました。皆で力を合わせて頑張りましょう」
その案は文化祭委員である茉莉花が出したものだったが、単にカフェというだけではなく既にコンセプトが決まっていることもあって、投票で多くの票を集めることが出来ていた。
ホームルームが終了し、玲愛のもとに茉莉花がやって来た。
「玲愛ちゃん、良かったら色々と相談に乗ってくれないかなぁ? もちろん無理のない範囲でいいから」
「いいよ。料理でも衣装でもお任せあれ」
「やった。何でも得意な玲愛ちゃんがいれば百人力だよ~。それじゃ明日の休み時間とかにまた」
「うん、わかった」
茉莉花とそう約束したところで、部活に行く為に立ち上がった。そこでふと彩日に視線を向けると、彼女はホームルームが終わったことにも気づいていない様子だった。どうやら考え事をしているらしい。その表情は決して明るくはない。
考え事の内容はきっと自分のことだろう、と玲愛は推測する。
彩日と一緒に“好き”を探し始めて既に一月が経過していた。その間、休日や部活のない放課後には色々な場所に行って、色々なことをした。
玲愛からすれば彼女の提案はどれも変わっており、新鮮だった。シューティングレンジを初めとして、執事喫茶とか、メイド喫茶とか、ボルダリングとか、釣り堀とか、デイキャンプとか。
彩日は前に漫画やアニメなどで知って興味を持っていたらしい。緊張しながらも心躍らせている様子が窺えた。玲愛自身も初めての体験に楽しい時間を過ごすことが出来た。
しかし、それらに“好き”を感じることはなかった。
そうして、今では彩日もアイディアが尽きてきているように思える。だから、ああして悩んでいるのだろう。焦燥感を抱き、苦しみ始めている。そんな風に見えた。
彩日も一緒に楽しむことが出来ているのであれば、いつまでも続けていても構わないと思っていた。しかし、彼女が苦しむことになるのであれば、話は別だ。そんなことは望んでいない。
どこかで見切りを付けなければならない、お互いの為に。玲愛はそう思った。
ざざー、ざざーと穏やかな潮騒が目の前で繰り返されている。
真正面には海が広がっており、その向こう側にはぼんやりと山並みが見えていた。
玲愛は彩日と共に海水浴場へとやって来ていた。電車で終点まで揺られて辿り着いたのだ。
どちらも制服姿で、今日は普通に学校があるというのに。
「今頃、皆は授業受けてるんだね」
「そう思うと、何か気分良くない?」
彩日は悪戯っぽく笑って見せた。確かに、他人が憂鬱そうに授業を受けている中、こうして自由にしているというのは爽快感があるかもしれない。
「あはは、まあね」
昨夜、彩日から連絡を貰った。それは朝に駅前で待ち合わせようというものだった。てっきり一緒に登校しようということかと思った。
『今日は学校サボって海に行こう!』
会うや否やそう言われた時には流石に驚いた。どうやら玲愛がしたことがないと考えての提案だったらしい。実際、学校をサボったのは初めてだった。
「私、海ってほとんど来たことがないんだ。玲愛は来る?」
「うーん、そんなには。友達に誘われたりでたまにって感じかな。でも、夏に来るのとは全然違うね」
「私は人が少ない方が好きだから、来るならこの時期がいいかな」
彩日の言う通り、人気はほとんどない。たまに犬の散歩やランニングをしている人がいるくらいだ。リュックを適当に置くと、二人で波打ち際へと寄っていく。
「裸足で海に入ってはしゃぐと、凄く青春っぽい」
「やってみる?」
「まさか。この寒さじゃ流石にね」
彩日はギリギリで立ち止まると、そう言って肩を竦めた。
玲愛も合わせて踏み留まり、ふと思った。ここがきっと彼女の連れて来れる最果てだ、と。
しばらく海を満喫した後は砂浜を散歩しながら、スマホで調べた近くのカフェへと向かった。
そこは海と遠くの富士山が一望できる立地の店だった。せっかくなので、窓際の席へと座る。テラス席の方が見晴らしは良いが、外気に触れるのはもう十分だった。
少し早い昼食として、二人とも特製ハンバーガーを注文した。
「んっ……」
先にガブッと齧り付いた彩日は頬を緩める。美味しいようだ。
玲愛もゆっくりと口を付ける。ジューシーな肉の味わいとフレッシュな野菜にほんのりと甘みのあるソースがマッチしていた。
「美味しいね」
「うん」
頷く彩日の口元にはソースがべったりと付いていた。豪快に口を開けて食べている為だろう。
食べやすいサイズになるまで食べるのを待ってから、ナプキンで拭ってあげる。
「口、付いてるよ」
「あ、ありがと……」
彩日は申し訳なさそうにする。少しして、不思議そうな顔をした。
「玲愛は全然付いてない……どうして?」
「一回で口に含む分量とか、食べる時の角度とか、そういうのを気にしてるからね。料理は綺麗に食べるように教えられたから」
「へぇ、道理でいつも綺麗なわけだ。凄い」
彩日は感心した様子だった。けれど、綺麗なら良いというわけでもない。
「彩日みたいな食べ方も見てて気持ち良いし、作った人も嬉しいと思うよ」
「そ、そうかな……」
思わぬ褒められ方だったのか、彩日ははにかんでいた。
ハンバーガーを食べ終えた後は、コーヒーを飲みながら他愛もない話をしたり、少しテラスに出て海と富士山を眺めたりと、まったりした時間を過ごした。
最近は彩日と一緒にいることで随分と心身の休まる時間を送ることが多かった。
彼女が望んでくれるなら、喜んでくれるなら、そういう日があっても良いのだろう。
ただ、それも今回限りだ。これ以上、彩日に徒労を感じさせるわけにはいかない。
彼女も薄々と察しているのではないだろうか。たとえどれだけ未知の体験をしようとも、この身が“好き”を感じることはない、と。
それは皮肉にも彩日の理性が導き出す“好き”という考えが突きつけていることだった。その考えが至る最終地点を理解してしまった。
お互いの道を歩んでいかなければならない。相手の足を引っ張るようなことがあってはならない。
もう、一緒には行けない。
玲愛はそんな決意を胸の裡に秘めながら、彩日と談笑するのだった。
玲愛は彩日と一緒に帰りの電車に乗っていた。
ちょうど学校が終わったくらいの時間だ。平日なので、他に乗客はほとんどいない。
「今日は、どうだった?」
彩日が問いかけてくる。
玲愛はこれまでと同様に首を横に振った。
「特に変わりないかな」
「そっか……」
初めの頃に比べると、その返答によって彩日の表情が陰るようになっていた。
それでも、彼女は健気にそれを悟られないようにと話題を変える。
「もう来週には文化祭か」
「何だかあっという間に感じるね」
「そうだ。
彩日はそんな提案をしてきた。
けれど、玲愛はスケジュールを確認することもなく断る。
「ごめんね。わたし、文化祭中はちょっと忙しくて」
「えっ、二日とも?」
「うん。ほとんど隙間時間もなさそう」
そう言うと、彩日は信じられないという顔をしていた。
しかし、別に嘘を吐いているわけではない。そういう風にするから。
「……ボランティア部で何かするの?」
「色々なクラスとか部活の手伝いをね。単純に人手が足りなかったり、代役が欲しい人とかいるからさ。ボランティア部としてわたしが引き受けてるんだ」
「わたしが、って……他の部員は?」
「皆には生徒会の手伝いだけお願いしてる。やっぱり文化祭を楽しんでもらいたいから」
彩日は何かを察した表情で言う。
「……もしかして、去年もそんなことしてたの?」
「そうだね。それもあってか、今年の方が依頼も多いんだ」
彩日は絶句していたが、少しして苦言を呈する。
「やめた方がいいよ。少し手伝うくらいならまだしも、玲愛が文化祭を楽しむ時間もないなんて、そんなこと……」
「別にいいの、わたしは文化祭に興味ないから」
「玲愛を利用してるだけの奴だっているかもしれない。せめてちゃんと選んだ方が……」
「利用されていても構わないよ。それでその人が楽しくしたいように過ごせるのなら」
何を言われてもやめる気はない。
彩日は必死に言葉を探しているようだった。
「玲愛は自分に好きがないから、そうやってするんでしょ? なら、私がちゃんと見つけるから……だから……」
その気持ちは嬉しい。でも、そうする度に彩日は傷ついていくだろう。そんな姿はとても見ていられない。だから、ちゃんと言わなければならない。
玲愛は軽く息を吐くと、告げる。
「ねぇ、彩日。気づいてる? 理性が導き出す、本当の好き。それが何を意味しているのか」
「えっ……?」
彩日は急な話題の転換に呆然としていた。しかし、玲愛は言葉を続けていく。
「好きの分解って考えると、分かりやすいよね。何となく感じた好きがどういう風に出来ているか、どんどん細かく分析していく。機械を分解してその構造を学んでいくみたいに。彩日がしていることってそういうことなんじゃないかって思う」
それは作品を分解することと重なるだろう。相互に関連させて見ていくのだ。
例えば好きだと感じた映画があったとして、まずは脚本、登場人物、音楽、演出といった要素に分解して、それぞれについて考えていく。ここが良かった、ここが面白かった、ここが美しかった、というように。
「多分、考えているうちにこれまで気づかなかった好きが見つかったり、これまで何となく好きだと感じていた部分が実際には違っていたりするんだろうね。不明瞭で曖昧だった好きが明瞭でハッキリしたものになっていくんだ」
自分がどんな部分に“好き”を感じたか、ということへの理解が進むのは間違いない。
それでも、そんな作業をいくら続けても解明できないことがある。
「でもさ、そうやって良く見えるようになった好きの先にあるのは何?」
「それ、は……」
「何も変わらない、ただ詳細になっただけの、好きという感情。自分はこういうものに好きを感じる、ということが分かるだけ。なぜそう感じるかを理性が教えてくれることはない。だけど、わたしはそのなぜが知りたいんだよ。根拠が欲しいんだよ。だって、わたしは好きを感じたことがないから」
もし何か間違っているなら言って欲しい。それならちゃんと考え直すから。
そう思っても、彩日は何も言えない様子だった。
「多分さ、人も物もこの世の全てがジグソーパズルのピースみたいなものなんだ。それぞれが違った形をしていて、他のピースがピタリと嵌った時に好きだと感じる。でも、わたしのピースは何とも嵌らないようになっている。そういう形をしてしまっていて、変えられない。わたしという人間には好きを感じる資格が与えられなかったんだよ」
恩寵が与えられた者と与えられなかった者。それは根源的な違いだ。
玲愛はフッと微笑を浮かべる。そこには深い諦念があった。
「だから、もういいよ。彩日は彩日の進むべき道が、わたしにはわたしの進むべき道がある。別に好きがなくても、わたしはこれまで通りやっていけるから、心配しないで」
玲愛は可能な限り優しい声で言う。これ以上、彩日に自分のことで思い煩って欲しくはなかった。
きっと今の彼女ならこうして実質的な決別を告げても、立ち上がっていけるだろう。
そこでちょうど電車が止まった。良いタイミングだった。
「わたしが降りる駅に着いたみたい。今日は楽しかったよ。またね、彩日」
玲愛は電車から降りると、振り返らなかった。彩日がどんな表情をしているのか、見たくはない。
この駅で他に降りた乗客はいなかった。電車の扉はすぐに閉まり、次の駅へと向けて動き出した。その駆動音は瞬く間に遠くへと消えていった。
玲愛は自分一人だけが取り残されたような感覚を抱きながらも、その場から歩き去った。
翌週末となり、文化祭が始まった。
椏高校の文化祭は二日間行われる。初日は本校生徒と職員のみで、二日目は一般客にも解放する、という形だ。その為、二日目がメインとなっており、体育館で行われるステージなどもそちらに集中している。
クラスの出し物、英国風カフェは前日までに無事準備が完了した。
ここしばらくの玲愛は茉莉花の手伝いに尽力していた。家庭科部のクラスメイトなどの協力も得て作った衣装と料理はどちらも好評だった。
店員のシフトにも今日明日ともに入っている。客の人数の予測が付かないので、店員の数は余裕があるようにしているが、そうなるとどうしても多く入る人間が必要だったのだ。文化祭係は当然のように多く入っているのだから、玲愛も可能な範囲は全て入るように自ら志願した。
それによって、まだ余裕があった初日も全て埋まり、二日間とも朝から夕暮れ時まで働き詰めとなる。けれど、別に嫌ではない。むしろ充実感があった。
「さて」
玲愛はボランティア部で請け負った依頼の為、朝早くから学校に来ていた。
単に受け付けや案内をするだけなこともあれば、模擬店の調理役だったり演劇部のエキストラだったりをすることもあって、その内容は多岐に渡る。
合間合間に多少は空き時間もあるので、そこで確実に食事や水分補給、休息を取る必要がある。もし自分に何かがあって、シフトに穴を空けてしまえば大問題だ。それだけは避けなければならない。
きちんと自分に可能な範囲で行っているのだから、彩日や他の誰かに咎められる謂れはない。
彩日とはしばらく話が出来ていなかった。最近の彼女は不思議と忙しそうにしていた為だ。朝はギリギリに登校してきて、休み時間も気づけばいなくなっていて、放課後もすぐさま鞄を持って教室を出て行っていた。何度か屋上にも行ってみたが、影も形も見当たらなかった。
けれど、時間がないからというだけではなく、僅かな機会でも避けられているように思う。
彼女の善意を否定するようなことを言ってしまったのだから、無理もないだろう。
出来れば、以前のような適度な距離感であれたらと思うが、彩日は望まないかもしれない。
その時は仕方ない。当初の目的は達成しており、彼女が以前のように苦しみの渦中にいなければ、それで良い。
「……ふぅ、疲れた」
文化祭初日をこれといった問題もなく無事に乗り切った玲愛は、早々に寝る準備をしてベッドに寝転がった。
英国風カフェの評判は上々で、生徒と職員だけとは言えたくさんの客が訪れてくれた。二日目はより多くの客が来てくれるだろう。
流石に今日ばかりは勉強といった他のことも気にしないようにしよう。そう考えて、普段よりも随分と早く就寝した。
そうして、文化祭二日目。一般公開日なので、校内は昨日よりも賑やかになる。
今日も朝から夕方まで予定が目白押しだ。とても遥の作品や八重のライブを見に行っている時間はない。
学校に到着した玲愛は一つ目の場所へと向かった。部活で出す模擬店の仕込みの手伝いを頼まれており、家庭科室で行うらしい。
しかし、向かった先では思わぬ人物が待っていた。
「えっ……?」
「待ってたよ、玲愛」
そこに立ち塞がるようにしていたのは、彩日だった。
「彩日、どうしてここに……」
彼女がこの場所にいる意味が分からない。予測できない展開に混乱する。
「先に結論から言うと、今日は私と一緒に文化祭を楽しんでもらう」
「ちょ、ちょっと待ってよ、わたしにはやることが……」
「ううん、今日は玲愛の予定はないよ。だって、私が全部なくしたから。そういう風にしたんだ」
まったく意味が分からない。
けれど、そんな風に語る彩日の顔はいつになく真剣に思えた。
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