第5話

 夏休みが明けて、二学期が始まった。

 久々に早い時間に起きるのは大変だった。普段よりも家を出るのが遅くなったので、既に教室には多くの生徒が揃っており、その中には玲愛れいあもいた。ただ、彼女は他のクラスメイトと話をしているようだ。

 彩日あやひはとりあえず自分の席に向かうと、茉莉花まりかが寄ってきた。終業式以来だ。修学旅行の後、彼女とは教室で話をする程度の仲にはなっていた。


「彩日ちゃん、久しぶり~。元気だった?」

「うん。まあ、大したことはしてないんだけど。茉莉花は?」

「夏休みはカフェ巡りが捗ったねぇ。たくさん写真撮ったんだ、見て見て~」


 そう言って、茉莉花は煌びやかなスイーツの写真を見せてくれた。彼女は休日に色々なカフェに行ってみるのが趣味らしい。


「彩日、おっはよぅ!」


 話が終わったらしい玲愛がいつの間にか寄って来ていた。夏休み明けだというのに明るく元気だ。彩日としてはやはりのんびり家で過ごしていられた時間が名残惜しい。


「おはよ、玲愛」

「二人で何見てるの?」

「わたしが夏休みに行ったカフェの写真だよ~」

「おっ、わたしも見たい!」


 そんな風に話をしていると、じきに始業のチャイムが鳴った。クラスメイトの多くがまだまだ話し足りない様子で席に着いていく。

 彩日も自分の席に座りながらも、チラリと玲愛の様子を窺った。

 彼女は普段通りだったと思う。何事もなかったように、一人の友人として接してきているように感じた。

 彩日もなるべく普段通りでいるように努めた。それが彼女も望んでいることだと思いながら。傷つけず、傷つけられない為に。

 今も踏み込む決心は付いていなかった。






 初めこそ夏休みボケでぼんやりとしていたが、すぐに学校がある毎日に馴染んでいく。

 二学期が始まって間もなく行われる行事は、九月末の体育祭だ。二週目にもなれば、早速その準備が進められていった。


「それじゃこれから男女に別れて各自が出場する競技を決めていきます。女子はこっちに集まってくださーい!」


 ホームルームで教壇に立った体育委員の指示のもと、教室の左右で男子と女子に別れてメンバー決めが始まった。まずはそれぞれの競技の希望者を募り、決まったら用紙に書き込んでいく。

 得点が高いリレーから決められていくが、そこに帰宅部で運動音痴な彩日の入る隙はない。

 運動部を中心に順調に決まっていく中、4×100mリレーの選手がなかなか決まらずにいた。


「玲愛と、八重やえと、あと二人誰かいない?」


 体育委員は皆の顔を見回していくが、どうやら残りは足に自信がない者ばかりのようで、目線を逸らしていた。


「別に勝ち負けは気にしなくていいからさ。誰もやりたくないなら、後でくじ引きか何かで決めるしかないけど……」


 体育委員の困った様子を見て、彩日は悩む。リレー系は体育祭の花形的側面が強いので、足が遅い自分には向いていないことは明らかだ。

 けれど、こんな自分でも役に立てるのであれば、結果を重視するなら絶対に選ぶべきではないけど、それでも構わないというのなら。

 そう考えた彩日は恐る恐ると手を挙げた。体育委員は驚いた様子で言う。


「わっ、黒汐くろしおさん、いいの? ありがとー!」


 彼女は何の躊躇いもなく書き込んでくれた。その姿にホッとする。

 いざ挙手したら拒否された、なんてことがあれば地獄だった。しばらく立ち直れなかったかもしれない。他のメンバーが玲愛と八重というのも大きかった。まったく話したことのない相手だけであれば、多分手を挙げることは出来なかっただろう。


「彩日が加わるならもう一人ははるかでいいだろ」

「えっ」

「おぉ、修学旅行班、再結成だね!」

「ちょっ」

「了解。じゃあこれで4×100mリレー決定、と。いやー、二人とも助かるよ~」

「あたしに拒否権はないんかっ!?」


 そんなやり取りに皆が笑う中、遥だけはぐぬぬと顔をしかめていたが、渋々と承諾した。

 やがて、それぞれの競技に出場するメンバーが決まり、そのままホームルームも終了した後、体育委員が玲愛の傍に寄っていって言う。


「そっちのチームは玲愛に任せるからね。期待してるよ」

「任せて」


 そんな姿を見ていると、自分も出来る限りは頑張りたいと思えた。

 なので、彩日は玲愛に声を掛ける。


「玲愛、ちょっといい?」

「ん、彩日、どうかした?」

「その……リレーの特訓に付き合ってくれない? なるべく、迷惑は掛けたくないから」

「おー、やる気だね。もちろん、わたしに出来ることなら何でもするよ。放課後にグラウンドの端でやろっか」

「うん、お願い」


 失敗が怖い。情けない結果に終わりたくない。自分のせいで負けて欲しくない。

 そんな風に思う今の自分には、こうして頼りに出来る相手がいる。その事実が嬉しかった。

 悔いのないようにしたい。心の底からそう思う。






「っ……!」

「にああぁぁぁっ……!」


 グラウンドの端を必死の形相で駆ける、体操服姿の彩日と遥。抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げる。最後、僅かに勝ったのは、彩日だった。

 しかし、そんな激闘を見ていた八重はぼそりと呟く。


「……二人ともめっちゃ遅いな」

「だーかーらー、あたしは遅いって、初めから、言ってるじゃん……!」

「はぁっ……はぁっ……」


 彩日がすっかり息切れしていてとても言葉を発せないのに、遥は途切れ途切れだが喋ることが出来ている。


「うんうん、どっちも伸びしろがあるよ!」


 玲愛は指導教官的な雰囲気を漂わせながらそう言った。


「それ、無理やり褒める為に、言うやつ……」


 彩日が息も絶え絶えに突っ込むと、玲愛は首を横に振った。


「ほんとほんと。わたしも昔は遅かったんだよ。でも、走り方を教えてもらったりして今みたいに走れるようになったんだから。足の筋力とかも大事だけど、それは今からじゃあまり変わらないし、無理して怪我しても困るしね」


 玲愛が自分の体験から語っているらしい言葉には説得力があった。

 少し休んでからということで、その間に八重が疑問を口にする。


「そういや、走る順番はどうする?」

「やっぱりわたしと八重が多く走るようにした方が良いと思うから、交互になるようにしないとね」

「となると、第二走者と最終走者アンカーがいいか」


 それを聞いて、彩日と遥はコクコクと頷いた。最終走者は流石に勘弁願いたい。


「そうだね。第一走者にはるるんで、第三走者に彩日がいいと思う。見た感じ、はるるんの方が体力あるし」

「うぇぇ、上手くスタート出来るかなぁ。ま、別にいいけどさ。いきなりこけても知らんからね」


 第三走者か、と彩日は思う。一番走る距離は短いが、それでも自分が結果に大きく影響を与えてしまうことに変わりはない。可能な限り負担を掛けないようにしなくては。


「八重は第二走者と最終走者、どっちがいい?」

「……第二走者だな」

「じゃあ、それで決まりね。よーし、そろそろ再開しよっか」


 玲愛はパンと手を鳴らして言った。

 後はしっかりと100m走ることはなく、玲愛にフォームの調整をしながら、短いダッシュを繰り返した。彼女の指導は分かりやすく的確で、実際に効果が感じられた。

 特訓はしばらく続いた。彩日と違って三人とも部活があるのに、こうして付き合ってくれている。その気持ちには感謝しかなかった。

 体育祭に向けてこんなにちゃんと頑張っているのは生まれて初めてだ。中学時代も去年もとにかく目立たないようにして、さっさと終わることを願っていたのだから。

 そういう意味では、これが初めての体育祭だと言えるのかもしれない。


 上手くやれるだろうか。失敗してしまわないだろうか。

 不安になる。何だか最近はそんな風に思ってばかりだ。以前の心境とは随分と違っている。

 けれど、不思議とそれが嫌ではない。不安を抱えながらも、こうで在りたいと思う自分に向かっていくことが出来ているから。そうやって頑張ることの大切さが今なら分かる。

 ただ立ち尽くすのではなく、目指したい場所に向かって、手を伸ばす。

 今の自分にはそれが出来ているような気がした。






 体育祭当日は中止を疑う必要はない程に晴天だった。

 グラウンドにはテントが張られており、コース用の白線も綺麗に引かれている。生徒会や体育委員を中心として、前日に用意したものだ。

 彩日達のクラスは体操着姿に加えて、赤組なので赤い鉢巻をしていた。

 初めは全体で準備運動をした後、それぞれの競技が開始されていく。

 自分達のクラス用のテント下へと行くが、4×100mリレーの予選は午前の早い時間にあるので、それほどのんびりはしていられなかった。

 すぐに放送で呼び出しが掛かった。並びに行かなければならない。その前に八重が言う。


「よし、景気づけに円陣組んどくか」

「やえっちは好きだねぇ、そういうの」

「まあ、いいじゃない。ね、彩日も」

「うん、分かった」


 四人で円形になり、顔を突き合わせる。

 掛け声はこのチームを先導してきて最終走者でもある玲愛に委ねられた。


「全力を尽くして頑張ろう!」


「おうっ!」「いぇあっ!」「お、おぉっ」と三者三様に声を上げる。

 こういうことに慣れない彩日は上手く出来なかったが、それでも炉に火が入ったような気分となった。

 四人で集合場所へと行き、前の競技が終わると、いよいよコースの脇に並んでいく。

 第三走者の彩日は第一走者の遥と一緒にスタート地点の脇に、第二走者と最終走者の八重と玲愛はコースの反対側に並んでいた。


 予選は複数のグループに分かれているので、先に他のグループの戦いが目の前で繰り広げられる。

 多くの生徒や親達の注目が集まっていた。自分もこの視線に晒される。それはとても恐ろしく思えた。

 しかし、今更逃げることは出来ない。自分達の番が迫るにつれ、心臓の鼓動が速くなっていく。いよいよ前のグループが終わり、遥がコースの中に入った。

 彼女が走り出したら、彩日はコースに入って、八重が走ってくるのを待つことになる。

 震える自分の手をギュッと握り締めた。大丈夫。ちゃんと特訓もした。それに、自分で決めたことだ。


 スタートラインにバトンを持つ第一走者が並んだ。教師がスターターピストルを上げる。

 程なくして、パンと軽快な音が響き渡った。

 遥は無事にスタート出来ていた。他の走者より遅れていたが、あまり離されずに何とか食らいついている。

 声援が飛び交う中、彩日はコースに入った。バトンの受け渡しが可能なゾーンの奥へと向かう。端から助走がつけられる程度の距離だけ空けた。


 その間に次々と第一走者から第二走者へとバトンが受け渡されていた。ゾーンの手前に立っていた八重も遥からバトンを受け取る。

 最下位だ。けれど、一位の走者とはそれほど離れていない。

 バトンを持った八重が一気に距離を詰めていく。足の速い彼女は一位まで手を伸ばしていった。

 しかし、相手も負けてはおらず、粘る。なかなか一位の座を譲らない。


 いよいよ八重がすぐそこまで来ていた。彩日は片手を後ろに伸ばしながら、助走をつけ始める。

 八重の表情がしっかりと見えた。その目は「後は任せた」と言っているように思えた。

 彩日は彼女の手からバトンを受け取り、走り始める。手に握ったそれからは確かな熱を感じた。受け渡されたのだ、遥から繋がれてきた想いを。八重の分も上乗せして。


「っ……!」


 玲愛に教わった通りに走る。しかし、八重が競っていたクラスとの距離が詰まることはない。むしろ少しずつ離されていく。それだけでなく、他のクラスにも抜かされ始めていた。

 だからといって、諦めるわけにはいかない。この先では玲愛が待っているのだから。

 感じるのは地面を蹴る感覚だけ。右。左。右。左。その度に靴裏が地面を擦っていた。

 意識が真っ白になっていく。周囲の観客や他の選手が消え去り、ただ目の前だけが見えていた。そんな状態でふと思う。


 以前の自分はきっと、ツルツルした氷の上にいた。摩擦がない世界。

 今はこのザラザラとした大地を踏み締めている。摩擦がある世界。

 不安や恐怖は繋がりを感じている証に他ならない。必然的に生じる摩擦だ。

 それを否定するのでもなく、ただ怯えるのでもなく、悩んで迷って苦しんでも、こうで在りたいと思う道を進んでいこう。

 傷つくかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。それでも、この手を伸ばしたいのだ。

 自分にとって大切な存在だと思えるから。


「彩日っ!」


 玲愛の声でハッと正気に戻る。気づけば、彼女が目の前に迫っていた。受け渡しゾーンの端で手を伸ばしている。

 彩日はバトンを渡そうと手を伸ばすが、焦りから揺らいでしまう。

 しかし、彼女はそれを迷わずに掴んでくれた。遥と八重から託されてきたバトンが、彩日の手から最終走者の玲愛へと渡る。


 順位としては三位だった。一位とは十五メートルは離れている。

 しかし、玲愛の身体はグングンと速度を上げていく。その姿は一陣の風のようで、とても綺麗だった。

 瞬く間に距離を詰めていく。まさにごぼう抜きだ。あっという間に一位を捉えようとしていた。

 ただ、約100mでは追い上げるにも限りがあり、相手はゴールテープの近くまで来ていた。あと少しの差が縮まらない。

 そんな状況に、彩日は思わず叫んでいた。


「い……いっけぇ玲愛っ!!」


 その瞬間、玲愛は少しだけ加速した。

 偶然かもしれない。けれど、自分の応援が力になれたのなら、嬉しいと思った。

 そうして、遂にゴールテープが切られる。ほんの僅かだけ先に、玲愛の身体が駆け抜けていた。

 ワッと声援が上がる。見事な逆転勝利の光景に観衆が沸いていた。

 そんな中、玲愛はこちらを向いてガッツポーズをしていた。彩日は遥と一緒に手を振って返す。

 予選の全てが終わると、コースから退場した。そこで玲愛と八重と合流し、お互いの健闘を称え合った。


「みんなお疲れ様!」

「ふっ、あたしのロケットスタートが火を吹いたね」

「極めて普通なスタートだったろ。ま、良くやったとは思うけど。彩日もな」

「ありがと……八重も凄かった。相手、多分運動部なのに競ってて」

「あれな。出来れば抜かして渡したかったんだけどなぁ」

「ま、結果オーライっしょ。いやぁ、最後はもう駄目かと思ったけど、流石れいにゃん、やる女だぜ」

「皆が頑張ってあそこまで繋いでくれたお陰だよ。あとちょっとでも遅れてたら追いつけなかったと思うし」


 そんな話をした後、クラスのテントの方へと歩いていく。

 その際、玲愛がスッと傍に寄ってきた。彼女は囁くように言う。


「聞こえたよ、彩日の声」

「そ、そっか……」


 そう言われると、途端に恥ずかしくなる。そんな熱血系な人間ではないのに。

 その後、テント下に戻ったらクラスメイト達に激しく褒め称えられた。割り振られたグループの運が良かったこともあると思うが、運動部が一人もいないチームでの予選通過は大金星と言って良いだろう。

 彩日達の結果を受けて、男女問わずやる気になっており、クラスの一致団結が感じ取れた。

 それだけでリレーの参加を希望して良かったと思える。午後には決勝もあるので気を抜くわけにはいかないが。

 そして、この体育祭が終わった時、彩日はやると決めたことがある。

 もう、迷わない。






 すっかり日が落ちるのが早くなった夕暮れ時、数時間前まで行われていた体育祭の様相はグラウンドから跡形もなく消えていた。

 大雑把な片づけは全体で行ったが、生徒会に体育委員、そしてボランティア部は残って、細かい部分の復旧などをこなすようだった。

 彩日はグラウンドの端を歩いていく。そこで見知った顔と遭遇した。


「あ、彩日先輩!」

すずちゃん」


 後輩を呼び捨てにするのも何となく偉そうだったので、玲愛と同じ呼び方をしている。


「皆さん、凄かったです!」

「ありがとう……決勝は全然駄目だったけど」


 午後には他グループの勝者と競う決勝が行われたが、当然のように負けた。

 足手まとい二人を抱えたチームに結果を出させてくれるほど甘くはなかった。


「そんなことないですって。赤組の勝利に貢献してますし!」


 彼女の言う通り、所属していた赤組は僅差で白組に勝利した。予選に勝つだけでもポイントが入るので、自分達の勝利がなければ負けていた。そう思うと頑張った甲斐があった。もちろん他の人達の勝利があってこそだが。


「玲愛先輩が走る姿、めちゃくちゃカッコ良かったなぁ……」


 鈴はその光景を思い出して、感慨に浸っている様子だった。

 彼女の気持ちには同感だが、それよりも聞きたいことがあった。


「玲愛、どこにいるか知らない?」

「さっき体育倉庫の方に行くの見ましたよ」

「そっか。ありがとう」


 彩日は鈴と別れて、体育倉庫へと向かった。

 辿り着くと扉が開いており、中を覗いてみれば、薄暗がりの下に玲愛がいた。


「玲愛」

「あれ、彩日。どうしたの?」

「ちょっと、話があるんだ」

「今忙しいからまた今度でもいいかな? 今日はもう遅いし」


 玲愛は退かせようとしていると感じた。それは前と同じ、拒絶。

 だが、彩日は僅かに身を震わせただけで、光の生んだ境界線を踏み越えて玲愛の傍に近づいた。


「なら、私も手伝うよ。それで、終わってから話をさせて欲しい」

「……仕方ないなぁ」


 玲愛は走り高跳び用らしきマットの上にボフッと腰を下ろし、隣をポンポンと叩く。


「立ち話も何だしね」

「うん」


 彩日は隣に座ると、彼女の方に身体を向かせた。


「それで、何?」


 もはや様子見は必要ない。彩日は単刀直入に告げる。


「──玲愛は、好きという感情が分からないんじゃない?」


 それこそ、彩日が導き出した推論だった。

 これまで玲愛の言動の端々に覚えてきた違和感も、そう考えると納得がいった。


「そんなことないよ。前もいくつか言ったじゃない」

「あれは嘘だよ」

「酷いなぁ。他人ひとの好きを否定するなんて」

「私だって普段ならそんなことしない。でも、玲愛は初めて話したあの日、気になることを言ってたから」

「何か言ったっけ?」


 玲愛はとぼけた様子を見せる。覚えてないと言い張るなら、突きつけるまでだ。


「言ったよ。好きを教えて、って」


 玲愛は口を閉ざした。その様子は覚えがないようにはとても見えなかった。


「どういう意味なんだ、ってあの時は思った。でも、今なら分かる気がする。玲愛は好きって気持ちが分からないんだ。だから、誰かの好きを大切にしようとしてるし、その為なら自分の時間を差し出すことにも躊躇いがない」


 それが彼女の行動原理。自己犠牲的な行動を取りたがる理由。

 ただ、それを心の底から受け入れているわけでもない。


「だけど、玲愛はそんな好きを知りたいとも思ってる。だから、私にあんなことを言ったんじゃないの?」


 あの時、何を感じてそう言ったのか。それは玲愛にしか分からない。

 けれど、彼女は間違いなく助けを欲している。溺れているのだ。藻掻き苦しんでいる。

 だから、手を差し伸べたい。彼女がそうしてくれたように。


「もし、仮に、そうだったとして、彩日に何が出来るの?」


 玲愛は認めたわけではないことを強調する。しかし、それは認めているに等しかった。

 彩日は自分の推論が正しかったことを確信する。その上で、素直に首を横に振った。


「分からない。でも、力になりたいんだ。だから、聞かせて欲しい、玲愛のことを」


 自分なら絶対に解決できる、なんて傲慢さはない。むしろ、不安でいっぱいだ。

 それでも、手を伸ばすと決めたから。自分に出来る全力で向き合うのだ。


「…………」


 しばらく沈黙が続いた。彩日はただひたすら玲愛の答えを待つ。

 やがて、彼女はそっと口を開いた。


「……明日、暇?」

「え、うん、大丈夫」


 急な問いかけに、驚きながらも頷く。休日なので、特に予定はなかった。


「じゃあ、わたしの家に来て。そこで話すよ、わたしのこと」


 それは許容の言葉だった。玲愛は力になりたいという申し出を受け入れてくれたのだ。

 まだ彼女が抱える問題の一角に触れたに過ぎない。これからどうなるかは分からない。

 けれど、今回の行動としては上手くいったと言える。それは彩日に深い安堵と細やかな自信を与えてくれた。


「よっ」


 玲愛はピョンと勢い良く立ち上がった。


「もう、結構時間経っちゃったよ。彩日、手伝ってくれるんだよね?」

「もちろん」


 彩日も立ち上がると、一緒に体育倉庫から外に出た。

 二人で肩を並べて歩いていく。夕日に照らされ、ゆるりと伸びた影法師はその先で交差していた。






 体育祭翌日の昼下がり、彩日は玲愛の家の前に来ていた。

 閑静な住宅街の中にある一軒家だ。『蒼樹あおき』という表札が出ているので、間違いない。

『着いた』とメッセージを送ると、程なくして扉が開き、玲愛が姿を見せた。


「入って入ってー」


 瀟洒な玄関で靴を脱いでいると、リビングらしき部屋から上品な雰囲気を漂わせた女性が現れた。


「いらっしゃい。玲愛の母です」

「お、お邪魔します……黒汐彩日です」


 彩日は緊張しながらも挨拶する。

 彼女の立ち居振舞いは一目見ただけで玲愛の綺麗な仕草の源流だと感じ取れた。彩日の母親、一華の立ち居振舞いは人の視線を惹き付ける為の分かりやすく強調した動きだが、彼女の場合は水が流れるようにしなやかで目立たないが美しい動きに思えた。


「お母さんは出てこなくていいよ」

「玲愛が友達を家に呼ぶなんて珍しいんだから、どんな子か気になるじゃない」

「はいはい、彩日、行こ」


 玲愛に連れられて、階段を上がっていく。どうやら彼女の部屋は二階らしい。


「彩日さん、ゆっくりしていってね」


 その際、彼女の母親からは微笑みと共にそう言われた。


「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「じゃあ、コーヒーで」

「それじゃちょっと待っててね。寛いでていいよ」


 そんなやり取りをして、玲愛の部屋に一人待たされることになる。クッションに座り、小さなテーブルを前にしていた。

 他人の部屋に入るのなんて小学生の時以来だ。ふと鼻先を掠めるのは玲愛の甘やかな匂い。それは彼女と過ごす中で時折感じるものだけど、ここでは何だか包み込まれているようで、心臓が高鳴るのを感じた。


 落ち着かない気持ちで部屋の中を見回す。

 物は多くない。ベッドや机といった基本的な家具があって、その上や脇に化粧道具だったり、ぬいぐるみといった女の子らしい物が並んでいる。きちんと整理整頓されていて。綺麗な部屋だ。

 けれど、何となく違和感がある。何なのだろう、これは。

 彩日が上手く言語化できずに悩んでいると、玲愛がコーヒーと洋菓子を載せたお盆を持って戻ってきた。


「お待たせー。ミルクと砂糖も自由に使ってね」

「ありがとう」


 ミルクと砂糖はインスタントでなく、それぞれ専用の容器に入れられている。まるで喫茶店だ。各食器も根拠はないけど高そうに見えた。

 用意してくれた物を有り難く頂戴する。普段は炭酸飲料とジャンクな菓子を貪る生活なので、優雅なティータイムに心が洗われるようだった。

 一息ついたところで、玲愛は問いを投げ掛けてきた。


「この部屋に入って、何か感じたことない?」


 彩日は深く考えず、初めに思ったことを口にする。


「えっと……良い匂いがする……」

「……そうじゃなくてっ」


 意表を突く返答だったようで、玲愛は恥ずかしそうに顔を赤らめていた。確かに、それはわざわざ聞くことでもない。

 そこで彩日は何となく覚えた違和感のことではないかと気づく。改めて考えてみて、ぼんやりとだが思い立った結論を言葉にする。


「統一感がない、かな」


 部屋には自然と主の色が出るものだ。彩日の部屋も趣向や性格を良く表しているように思う。

 しかし、玲愛の部屋にはどうにもそういうものを感じなかった。色合いにしても、所有している物の種類にしても、バラバラに見える。


「そうだね。わたし、この部屋に自分が好きで選んだ物って一つもないんだ。お母さんが選んだ物とか、プレゼントで貰った物とか、後は客観的に自分に合う物とか」


 玲愛の言葉を聞いて納得する。確かに自分自身の好みで選んだ物が一つもなければ、こういう部屋になるのかもしれない。


「彩日の言った通りだよ。わたしは昔から何かを好きだと思えない。特別だって感じないの」


 玲愛は微笑を浮かべたが、それはとても寂しく見えた。


「綺麗とか、カッコいいとか、可愛いとか、どんな物事に対してそういう言葉を使うかは大体分かるんだけどね。わたしのそれはただ学んだだけなんだ。世の中ではこれが綺麗とされている、世の中ではこれがカッコいいとされている、世の中ではこれが可愛いとされている、って。社会的な価値観、って言うと分かりやすいかな」


 善悪や美醜の基準は時代や社会によって異なっている。全体を観察すれば、どういう物事を価値があるとされる傾向があるか、学習することが出来るだろう。それは一つの基準になる。

 彩日自身も何となくは理解している。それは玲愛と同様に学んできたということだ。


「社会的に価値あるものを好きと言う。それなら分かりやすかった。でも、違うんだよね。だって、皆ちゃんと使い分けてるもん。良いとは思うけど好きじゃない、とかさ。それって社会的に良いものだとは思うけど、わたしは好きじゃない、ってことだよね。きっと好きは個人的な価値観を表す言葉なんだ。みんな二つの価値観を併せ持っているんだよ」


 玲愛の語る言葉は明晰でスッと入ってきた。彼女がこれまでその問題についてどれだけ考えてきたかが良く分かる。


「でも、わたしにはその個人的な価値観が大きく欠けている。分からないんだ。皆が言うような、これが好きって感覚が。これが良いって思う気持ちが。まったくないってことはないんだけどね。だって、わたしも皆と同じようになりたいって、思うから……」


 そう口にした玲愛の表情は今にも泣きそうだった。それこそ彼女が切望しているものなのだと理解できた。縋るように訊いてくる。


「ねぇ、教えてよ、彩日。あなたはどうしてこれが好きだって感じるの? そこにはどんな根拠があるの?」


 根拠なんてない。ただそう感じるだけ。意識せずとも自然に行えること。

 それが“好き”だと思う。まさしく感情だ。自分の意思でどうにか出来ることではない。

 ただ、そんな“当たり前”な言葉を告げても玲愛を失望させるだけだ。彼女はそれが分からなくて苦しんでいるのだから。

 なら、自分には何が言えるだろう。彩日は深く考え、口にする。


「私は前も言った通り、何となく感じた好きについて考えることがある。多分、それに納得がいかないんだ。初めに感情が好きだと判断しても、後から理性によって否定される。そんなこともあるんだから。理性が導き出す、本当の好き。私はそれが知りたいんだと思う」

「理性が導き出す本当の好き……それがあれば、わたしにも好きが分かるのかな」

「分からない……それに、私も結局は何となくの好きを出発点にしてるから……」


 そう言うと、玲愛は諦めの表情となって口を開こうとした。

 しかし、彩日はそれを遮る。言いたいことはまだ終わっていない。


「でも、玲愛はまだそんな自分の好きと出会えていないだけかもしれない。だからさ、探しに行こうよ、一緒に。この世界は広いんだから。玲愛がまだやったことも見たことも聞いたこともないことなんて、きっといくらでもある」

「彩日……」

「抗おうよ、玲愛。本当は欲しているのに、諦めていいことなんて一つもないんだ」


 それは玲愛と出会って知ったことだった。心の底からこうで在りたいと思う自分に向かって頑張っていくこと。今の彩日にとって何より大切な考え。


「一緒に見つけよう、玲愛だけの好きを」

「……わかった。彩日のこと、頼らせてね。修学旅行の時みたいに」


 玲愛は頬を綻ばせる。それは自然な笑みに感じられた。

 話はひと段落し、彼女は一つの提案をしてくる。


「じゃあ、お返しにメイクのやり方教えてあげるね。彩日、前に興味ありそうだったし。うちなら道具も揃ってるから、今からやってみない?」


 確かに、最近は身嗜みにも気を遣うようにしていたので、その一環として知りたくは思っていた。玲愛達のように凝りたいわけではないが。


「うん、ぜひ教えて欲しい。自分じゃ何から始めればいいか、良く分からないから」


 その後は玲愛に基本的な化粧の仕方を実演も交えて教えてもらった。おすすめの商品も教えてもらったので、今度家でも試してみようと思う。

 夕飯にも誘われたが、それは流石に辞した。彼女の家に迷惑、というよりはこちらが平常心でいられる自信がなかったので。

 彩日は帰路に就きながら心境の安らぎを感じる。玲愛に受け入れてもらえたことが嬉しかった。ここしばらく悩んでいたことが完全に解消される。

 まだまだ考えることは山積みだが、それでも確かな充実感で満たされていた。

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