第二章

第4話

 夏休み。それは帰宅部にとっては堕落の日々を意味する。

 その例に漏れず、彩日あやひは一週間が過ぎても怠惰に毎日を過ごし続けていた。

 宿題は一切手を付けていない。朝から晩まで創作物を貪っている。外に出るのは食事を買いに行く時くらいだ。

 以前と比べれば連絡先こそ増えていたが、みんな部活だったりで忙しいだろうな、と思えば連絡する気にはなれなかった。そもそも、連絡したところで何をすれば良いかも分からない。

 そんなこんなで、以前までの休日の過ごし方と何ら変わりはなかった。


「お腹空いたな……」


 重い身体を引きずって部屋の外に出ると、ちょうどリビングから出てきた人物と遭遇した。


「あら、いたの」

「……うん」


 それは母親の一華いちかだった。相変わらず年齢を感じさせない、際立って美人な見た目をしている。舞台女優として長い間、華々しい活躍をし続けているだけある。


「ああ、夏休みね、そう言えば」


 母は記憶を辿るような仕草で呟く。そんな細やかな動きでも目を惹かれるものだった。

 普段ならやり取りはこれで終了だ。けれど、今日は違っていた。


「これ、あげるわ」


 母はバッグからチケットを取り出す。どうやら新作舞台の物らしく、二枚あった。それは一度拒絶して以来、初めてのことだった。


「いらないなら、あの人にあげるか捨てなさい」


 首を僅かに動かし、リビングにいるであろう父親の慧佑を示した。いつものように酔い潰れて寝ているのだろう。

 母は横を通り過ぎていく。そのまま出ていくかと思いきや、玄関先で立ち止まり、ぼそりと言う。


「……少し、変わったわね」

「そう、かな」

「前はこちらの目を見ることはなかったし、そんな風に話をしようとすることもなかったわ」


 優れた役者はきっと、他人を見る目も優れている。

 そんな母にとって彩日の心境の変化は一目瞭然だったのだろう。


「それで、いいのね?」


 母は問いかけてきた。何かを変えようという意図があるわけではなく、ただの意志の確認。

 それが彼女にとってどんな意味があるのかは分からない。けれど、彩日は迷いなく頷く。


「……うん。これでいいんだ」

「そう」


 それ以上は何も言わなかった。昔からそうだ。全てをこちらに委ねられている。導かれることも、強いられることもない。

 母が家から出ていくのを見送った彩日は、手元に残されたチケットを眺める。


「どうしようかな、これ……」


 日にちは決まっているので、相手の予定が都合よく空いていなければならない。もし空いていなければ、相手に申し訳ない気持ちとさせてしまうだろう。

 そう思うと、なかなか一歩踏み出せずにいた。独りだった時と違い、誰かと関わることは恐ろしいことだらけだ。傷つけることも、傷つけられることも、怖い。


 誘う相手として初めに頭に浮かんだのは、玲愛れいあだった。

 彼女なら、きっと大丈夫。もし予定が合わなければ、それは仕方がないことだ。

 彩日はそんな風に思いながら、何とか自分の背中を押す。


「っ……」


 彩日はスマホで誘いの連絡を送信する。少しして、返事が返ってきた。


『行く行くー! 誘ってくれてありがとう! バッチリ空いてるよ! 久々に会えるの楽しみ!』


 それを見た彩日は深い安堵の息を吐いた。






 彩日は玲愛と一緒に母親の一華が出演する舞台を観に来ていた。

 既に席についていたが、開演まではまだ少し時間があるので、雑談をして時間を潰す。


「わたし、生で舞台観るのって初めて。彩日は来たことあるの?」

「何度かだけ。最近は全然来てなかったけど」

「そうなんだ。何か気を付けることとかある?」

「特には、ないかな。拍手のタイミングなんかは周りに合わせたらいいし」

「なるほど。そう言えば、チケットがタダで貰えるって凄いね。ちょっと調べてみたけど、どれも満席で人気みたいなのに」

「それは、その……」


 彩日は素直に答えるかどうか悩んだ末に、舞台のチラシを取り出して、その真ん中に映った主演女優を指差して言う。


「……この人、私の母親なんだ」

「えっ!?」


 流石の玲愛もそれは予想できていなかったようで、驚いていた。

 役者名のところにも『杉咲すぎさき一華』と旧姓で記されているので、気づかないのは無理もない。


「確かに言われてみれば、ちょっと顔立ちが似てるかも。もしかして、お父さんも凄い人だったり?」

「……私も詳しくは知らないんだけど、批評とかキャッチコピーなんかを書くフリーライターらしい」


 そこまでは話しても構わない。しかし、両親に対する複雑な感情については話したくなかった。

 玲愛もそれを察してくれたのか、自分の話に切り替えてくれる。


「うちはお父さんがいわゆる官僚で、お母さんは専業主婦なんだ」

「エリートだ」

「別に普通だけどね。あ、あと弟が一人いるよ」

「あー、お姉ちゃんって感じする」

「そう?」


 そんな風に話をしていると、やがて、辺りが暗闇に包まれた。開演時間になったようだ。

 緞帳が上がっていく。少しして、パッと照明が舞台の上を照らした。

 そこには母が一人で立っていた。主人公の心情を語るモノローグを行っていく。

 劇場内に綺麗に響き渡る声で台詞が紡がれる。全身は身ぶり手振りで僅かに動かす程度。

 なのに、目が離せない。その流麗な一挙一動に視線が吸い寄せられるようだ。


 決して高くはない背丈だが、それを覆うように圧倒的存在感が立ち上がっている。

 観客の心を瞬く間にグイッと引き付けて、呑み込んでいくのを感じた。その感覚に懐かしさを覚える。誰より輝く私を観ろ、と命じられているような気分だ。それには決して抗えない。

 けれど、当時と違う感覚もあった。それは、母と玲愛は似ている、ということ。ほんの少しだけ、僅かな雰囲気に過ぎないが、確かに似たものを感じたのだ。


 なら、一体それは何なのだろう。考えてみたが、見当も付かなかった。

 後はもう余計なことを考えることもなく、舞台の上から放たれる煌めきを浴び続けるだけ。

 そこには紛れもない、幼き日に抱いた憧憬があった。






「凄っっっ、かったー!」


 観劇後、彩日は玲愛と一緒に近くのカフェに移動した。

 そこで彼女はたっぷりと溜めて、賛辞の言葉を口にした。


「何となく映像で見る舞台のイメージはあったけど、やっぱり生だと全然違うんだね!」

「そうだね。息遣いとか、迫力とか、雰囲気とか、現地でしか味わえないものがたくさんあると思う」


 たった今観た舞台のことを話すには、主演である一華に触れずにはいられないだろう。

 なので、こちらから話題とする。あまり暗くはならないように、話せる範囲で話すとしよう。


「私も久しぶりに観たんだけど、やっぱりあの人は凄いんだなって思った」

「ほんとだね。誰もが虜になってた。最後なんて泣いていない人がいないってくらいだったよ」

「昔さ、こんな風に言ってたのを聞いたことがあるんだ。私は客に響くように演技してるだけ、って。そう言われると、認めたくない気持ちになるのに、いざ観ると感動させられた。それだけ人の心を動かす力があるってことなんだろうね」


 そう言うと、玲愛は少し間を空けて、問いを零した。


「……でも、寂しくなったりはしないのかな?」

「寂しい?」

「ほら、それって観客に合わせた演技をしてるってことじゃない?」


 そう言われると、確かにその通りだ。見方によっては客を楽しませる為だけの見世物的存在とも言える。けれど、少なくとも彩日の知る母は嫌々やっているようには思えなかった。


「多分、好きなんだと思う。演じる為に演じてるっていうか、それ以外は何でもいいっていうか」


 だから、家にも帰って来ないし、母娘で会おうとすることもない。彩日はそう言いそうになったが、何とか思い留まった。

 その間、玲愛も何かを考えていたようだった。普段はレスポンスが速いので珍しい。


「好き、か……」


 彼女はボソリと呟く。それは意図せずに口から漏れ出た感じだった。

 初めて話した日のことを思い出す。あの時も玲愛は“好き”という言葉に反応していた。

 切実な表情。その面影が今の彼女に重なる。

 そこにどんな思いがあるのだろう。それは彼女にとって何を意味しているのだろう。

 まだ玲愛のことを何も知らない。もし彼女に何か悩みがあるのだとすれば、力になりたい。自分がしてもらったように。

 そう考えた彩日は一つの問いを投げ掛ける。


「ねぇ、玲愛は何が好きなの?」

「食べ物は和食で、趣味はメイクとかファッションとか、あとボランティア部の活動も好きだし、色々あるよ」


 玲愛は綺麗な笑みを形作り、淀みなく言う。けれど、それは立て板に水と言うような滑らかさで、むしろ違和感があった。まるでこう聞かれた時にはこう答えると決めているかのように。

 疑念を持って訊いているからこそ、違和感を覚えてしまうのかもしれない。それでも、彩日はその疑問を口にせずにはいられなかった。


「玲愛……何か隠してない?」

「何も、隠してないよ」


 玲愛はニコリと笑んで言うが、そこには明確な拒絶があった。

 両者の間に緞帳が下りる。観客と演者に区切られ、彼女は舞台の裏に消える。自分達は同じ舞台に立っていないことを突きつけられたのだ。

 少し前までは暖かかった空気が、急に凍てついたような気がした。それは彩日の心を酷く震えさせる。他人と関わることの恐怖を思い出させる。


「そろそろ帰ろっか。もう時間も遅いしね」

「……うん」


 彩日は玲愛の提案に弱々しく頷くことしか出来なかった。






 彩日が玲愛と舞台を観に行ってから一週間が過ぎていた。お盆も明けて、夏休みは残り二週間だ。そろそろ夏休みの宿題に手をつけていかなくてはならない。

 そう思いはするものの、彩日はベッドに寝転がったまま動く気力が出ずにいた。


「……はぁ」


 もう何度目か分からない、深い深い溜息。彩日の感情は沈みに沈んでおり、自傷的な考えに支配されていた。そのせいで何も手につかない。ただただ、己を苦しめ続けている。

 その原因は、舞台後のカフェでの出来事だ。玲愛のことを知ろうとして、拒絶されたことを未だに引きずっている。

 あの後、帰宅してからメッセージも届いたが、いつもと変わらないような文章にもかかわらず、どこか冷たく感じられた。


 以来、玲愛とのやり取りは一度たりとも行われていない。だから、不安になる。もしかして、もう彼女は自分と仲良くしてくれないのではないか、と。

 こちらからメッセージを送ってみても良いのだ。理由なんてなくても、ただの雑談的な内容でもいい。そこで彼女がこれまでのように返してくれたなら、きっとこの気持ちは救われる。

 けれど、無視されたらどうしよう。淡泊な返事だったらどうしよう。そんな風に思うと、身が竦んでとても行うことが出来なかった。


 彩日は改めて実感していた。他人と関わることの絶対的な恐ろしさを。

 昔の自分はその恐怖と向き合うことが出来なかった。だから、逃げた。自分だけの世界に引きこもった。きっと、そうでなくては救われない人もいるのだろう。けれど、自分はそうではない。むしろ、そこでは決して得られないものを欲してしまっている。そう、知ったのだ。

 その為、今の彩日は以前のように繋がりを拒絶するのではなく、何とか折り合いを付けようと必死に藻掻いていた。

 適切な距離感。他人と関わる上でお互いが傷つかない距離を模索しなくてはならない。彩日に触れられたくない部分があるように、玲愛にも必ずある。きっと世の人々は誰もがそうして誰かと関わっているのだ。


 だから、もう間違わない。必要以上に踏み込んだりしない。次に玲愛と会う時にはもっと上手くやろう。きっとやり直せる。今の自分にはそう願うことしか出来ない。

 そんな風に考えていると、枕元のスマホが軽快な音を鳴らした。メッセージの通知だ。

 慌てて確認すると、玲愛からメッセージが届いていた。


『今度、ボランティア部で学校の清掃活動をするんだけど、良かったら参加してみない?』


 その内容からは人手が欲しいことが窺える。ボランティア部への勧誘でもあるのかもしれない。

 けれど、彩日にはそれが玲愛の垂らした蜘蛛の糸に思えた。考えていたようなやり直す機会をくれている。ただし、余計なことをしてしまえば、あっさりと切れてしまうに違いない。

 慎重に、細心の注意を払って、上らなくては。そう思うと、胃がキリキリと痛む。

 それでも、玲愛がこんな風に連絡をくれたことが嬉しかった。感情面ではフッと楽になる。

 奉仕精神が自分にあるとは思っていないので、内容自体には乗り気ではないが、学内なのでまだ精神的には楽だ。

 彩日は参加の旨を記してメッセージを返す。上手くいくように願いを込めながら。






 気温が最高潮の昼下がり、彩日は一学期の終業式以来に学校へとやって来ていた。

 まだ夏休みの最中なので、グラウンドの方からは運動部の掛け声が聞こえている。歩いているだけでも溶けてしまいそうなのに大変だな、と思う。

 校舎の指定された場所に行くと、そこには玲愛を含めた五人の生徒が待っていた。


「彩日~、こっちこっち!」


 まだ離れているのに玲愛は大仰に手をブンブンと振っている。その様子は普段通りに見えた。まるでこの間のことなどなかったように。

 なので、彩日も意識的にそのように振舞うことを決める。


「今日は手伝いに来てくれてありがとうね。人手は多い方が良いから助かるよ」

「……別に、暇だったし」


 玲愛はクスリと笑うと、他の生徒達に向けて言う。


「みんな、今日はわたしの友達も手伝ってくれるから、挨拶しよっか」


 どうやら全員一年生らしく、それぞれ自己紹介してくれるが、正直ちゃんとは覚えられない。


「く、黒汐彩日です、よろしく……」


 声に覇気はなければ仕草もおどおどとしており、彼らに比べれば明らかなコミュ障っぷりを見せつけてしまった。


「それじゃ一階ずつやってくよ。こっちからあっちにゴミを集めていってね」


 間髪なく玲愛が指示を出してくれたことだけが救いだった。

 他の部員達は清掃道具を手にすると、積極的に廊下の奥の方へと行ってくれたので、彩日と玲愛はあまり動かずにいれた。その際にふと思った疑問を口にする。


「玲愛が部長なの?」

「まあね。前部長含めて三年生の先輩もいるけど、元々あまりやる気がない人達だったから、早々に引退しちゃった」

「じゃあ、ボランティア部はこの五人だけ?」

「一応、まだ二年生や一年生に何人かいるんだけどね。いつも自由参加にしてるから、やっぱりほとんど来ない人もいるんだ」


 こうして話を聞くと、ボランティア部は栄えていないことが分かる。他の運動部や文化部の方がよっぽど自分のやりたいことが出来るだろうし、こういった奉仕活動では難しいのだろう。

 彩日自身、玲愛に誘われなければとても参加したいとは思えなかった。そう考えると、彼女以外の四人も立派だ。


「さ、わたし達も掃いていこうか」

「分かった」


 玲愛から箒を受け取ると、少し距離を取って掃き始めた。

 やがて、次の階に移ったところで、思わぬ人物に遭遇する。


「あり? れいにゃんとあやぴーじゃん。何してんの?」


 正面から歩いてきたのははるかだった。無地のTシャツにジャージという姿だ。シンプルな服装ゆえに胸部の膨らみが目立つ。お洒落好きな彼女にしては珍しい格好だった。

 良く見ると、服のあちこちに絵の具が付着している。また、独特な臭いが彼女に纏わりついているように思えた。


「ボランティア部で校舎の掃除してるの。彩日はそのお手伝い」

「ふーん、そいつはご苦労さんなこって」

「はるるんは今日も文化祭用の作品?」

「そそ。今のうちにやっとかないと、文化祭前は美術部全体でのアーチ作りがあるからね~」


 文化祭。この椏高校では十一月の後半に行われる。彩日からすればまだ先のことに思えるが、作品を作る人間からすれば決して悠長にしていられる期間でもないのだろう。


「あやぴーは去年、あたしの作品見た?」

「……いや、ごめん、見てない」


 正直、昨年の文化祭の記憶はほとんどない。大半の時間を屋上で本を読んだり映画を観たりしていたからだ。一人で見て回ろうという気も起きなかった。


「そっか~。じゃあ今年は見に来てよ。損はさせないぜ」


 遥はやたらと自信満々だった。今作っているものによっぽど手応えがあるのかもしれない。

 どうせ文化祭にこれといった予定もない。クラスでの出し物くらいだろう。


「分かった。必ず行くよ」


 そう言うと、遥は嬉しそうに頬を緩めた。


「れいにゃんも今年こそは絶対ね。凄いんだから」

「うん。きっとね」

「そんじゃね~」


 遥は手をパタパタ振りながら去っていった。

 最後の言葉が少し気にかかった。“今年こそ”ということは昨年の玲愛は見に行けなかったのだろうか。

 再開した掃き掃除をしながらそんな風に考えていたところ、気づかないうちにボランティア部員の一人がすぐ傍にやって来ていた。


「彩日先輩、少しいいですか?」


 急に自分の名前を呼ばれて驚く。しかも、先輩付き。そんな風に呼ばれたのは初めてだ。


「えっと……桜川さくらがわ、さん?」

「はい、桜川すずです! 鈴でいいですよ、彩日先輩!」


 ショートカットでさっぱりとした見た目の女の子だ。身長は平均よりも低いくらいだろう。ただそれでもこちらが低いので、少し見上げる形になる。

 彼女のことは一人だけやたらと元気が良かったので、印象に残っていた。それにしても、遥に匹敵するフランクさだ。基本的に及び腰な彩日には考えられない。


「彩日先輩って玲愛先輩と同じクラスなんですか?」

「え、うん、そうだけど……」

「いいなー! 羨ましいです!」

「そうかな」

「だって、玲愛先輩って完璧じゃないですか! 綺麗で、可愛くて、かっこ良くて、頭も良くて、運動も出来て……わたしもあんな風になりたいんです! だから、もっと一緒にいて色々なことを学ばせて欲しいです!」


 鈴はキラキラと目を輝かせながら言う。玲愛に心の底から憧れていることが分かった。

 それは何も間違っていない。きっとそんな風に見ている人間がほとんどのはずだ。

 しかし、彩日の知っている玲愛は少し違っていた。

 彼女は想定外のことがあればちゃんと慌てるし、頑張り過ぎているようにも見えるし、何か悩みを抱えているようにも思える。それなのに、そんな風に超人のように見てしまって良いのだろうか。

 と、そこで玲愛の子供を叱るような声が飛んできた。


「こーら、彩日、鈴ちゃん、サボらないの。お話は掃除が終わってからね」


 彩日と鈴は二人揃って謝った。完全に手が止まっていたので仕方ない。改めて掃くことに専念する。

 やがて、各階の清掃を終えると玲愛が生徒会へと報告に行き、人数分の飲み物とお菓子を持って帰ってきていた。ボランティア活動と言っても、大抵そういう風に何かしら報酬を用意してくれているらしい。

 その後はボランティア部の部室で休憩がてら貰った物を飲み食いしながら、これまでの活動といった色々な話を聞かせてもらった。記録もきっちりと取っているらしい。そこで何より感じたのは、鈴以外の部員も玲愛を良く慕っていることだった。

 日が暮れる前には学校を後にした。もうすぐ駅に到着するというところで、玲愛はふと聞いてくる。


「彩日もボランティア部に入らない? 大歓迎だよ」

「……遠慮しとく」


 少し考えたが、やはり性に合わない。今日一日だけなら良くても、続けているうちにきっと嫌になってしまう。元々、自分のこと以外へのモチベーションが著しく低い人間だ。普段から誰かの為に頑張り続ける玲愛の凄さを実感させられた。


「そっか。じゃあ次に会うのは始業式かな。またね」


 駅に着くと、玲愛は他の部員を連れて改札の向こうへと去っていった。

 彼女の背を見て、彩日は思わず手を伸ばそうとするが、その意志はすぐに霧散した。

 力になりたいと思った。だけど、当人が望んでいないのであれば、それは自分勝手な行いでしかない。双方向に望んで初めて成り立つもの。だから、踏み込んではいけない。


 彩日は部員達と話をしているうちに湧き上がってきた感情を思い出す。

 それは、嫉妬だ。彼らが自分の知らない玲愛の姿を知っていることを羨んだ。

 けれど、同時に玲愛が自分だけの存在ではないことに気づかされた。

 彩日が一緒にいない時、玲愛はどこかで別のことをしているし、他の誰かと共にいることおもある。その中では自分が彼女と過ごしている時間なんてほんの僅かに過ぎない。

 そんなことは当たり前の話だが、長い間、他者との繋がりを絶っていた彩日にとっては、改めて認識する必要があることだった。


 玲愛の力になりたいというこの想いも、きっと過度に執着してしまっているだけだ。

 ちゃんと適切な距離を保たなければならない。欲望を押さえなければならない。

 そうやって折り合いを付けていくことで初めて、人と人の関係は成り立つのだろう。

 彩日は頭を振ると、自宅に向けて歩き出した。振り返ることはない。

 それでも、その胸中では玲愛のことがいつまでも熾火のように燻り続けていた。






『明日の昼前、駅まで出て来れるか? 飯に行こう』


 彩日のもとにそんなメッセージが届いた。送り主は、八重やえだった。

 思わぬ相手からの連絡に不安な気持ちとなるが、断るわけにもいかず、了承の返事を送った。

 翌日の十一時に駅前で戦々恐々としながら待っていると、肩にライフルケースのような物を抱えた制服姿の八重が現れた。


「よう、久しぶりだな、黒汐くろしお

「あ、うん……久しぶり、鋼白こうじろさん」


 彩日の視線が向いているのに気付いたのか、抱えた物について説明してくれる。


「これは私のベース。家でも練習したいから毎回持って帰ってるんだよ」


 八重は軽音楽部でバンドをやっている。冷静に考えれば、それは楽器ケースに決まっている。完全にアクション映画脳になっていた。


「何か食べたい物とかあるか?」

「いや、別に」

「じゃあ、ファミレスでいいか」

「うん」


 駅からすぐのところにあるイタリアンなファミレスへと入る。

 お互いに注文すると、八重はリュックから袋を取り出した。小さな箱が入っている様子だ。


「これ、忘れないうちに。旅行の土産だ」

「あ、ありがとう……」

「昨日学校で遥にも渡したんだが、そこで黒汐の家が近いことを聞いてな。部活のついでに渡しときたかったんだ。食べ物だから早い方がいいし」


 修学旅行以後、遥とは何度か一緒に帰ったことがあり、その時に話した覚えがある。

 どうやらここに呼ばれたのは土産を渡す為だったらしい。勝手に怯えていて申し訳ない気持ちになる。


「旅行、行ってたんだ」

「ああ、こないだのお盆休みにな。うちの親が若いうちに色々見とけって、長期休みは基本的にあちこち連れてかれんだよ」


 こういう話を聞くと、どうしても自分の親と比べてしまう。何かを教えられたり、導かれたりした覚えはないから。

 その後はやって来た料理を食べながら、八重の旅行話を聞いた。

 食べ終える頃には話もひと段落し、時間は十二時を少し回った程度だった。


「黒汐はどうしてたんだ? 夏休み」

「特に大したことはしてない、かな。この間、玲愛の手伝いに行ったくらいで」

「遥が言ってたな。何か掃除してたって。ボランティア部、入るのか?」

「いや、誘われはしたけど、断ったんだ。あんまり興味もないし」

「だよなぁ。良くも誰かの為にあんなにやる気になるもんだ」


 やはり彩日と同じようなことを八重も思っているらしい。

 そこでふと思いつく。八重は玲愛と中学時代からの付き合いだ。なら、彼女が抱える問題についても何か知っているのではないか。婉曲的に確認してみることにする。


「鋼白さん。玲愛って何が好きなのか、分かる?」


 彩日の急な質問に八重はキョトンとした様子を見せるが、真面目に考えてくれる。


「あいつの好きなもんか……言われてみればこれってのはあまり思いつかないな。何でも好きそうではあるけど。人に何か勧められたりしたら、大抵すぐにそれを見たり聞いたりしてくれるし」


 それは彩日自身も覚えがあった。以前、少し話題に出しただけの映画を、玲愛が翌日には観てきたことがある。そんな風にしてくれると嬉しいし、気を許したくもなる。

 どうやら彼女は他の人にも同じ感じらしい。きっとクラスメイトの誰とでも仲が良いのはそういうところが関係しているのだろう。

 けれど、それはあまりにお人好し過ぎるようにも思う。普通、人に勧められてもなかなか手が出ないものだろう。少なくとも、彩日自身はそういうタイプだ。自分で興味を持ってこそ手を伸ばすことが出来る。


「まあ、やっぱり人助けだな。あんな風にボランティアだとか生徒会だとか、そういうことが好きじゃなきゃやってられないだろ」


 確かに、普段の玲愛を見ていればそういう風に思える。けれど、彩日はそんな彼女に疑念を抱いている。それは初めて話したあの日の言葉をきっかけとして。


「黒汐もあいつのお陰で変わったんだろ?」


 八重は確信している様子だった。玲愛と仲の良い彼女からすれば、それは明らかだったのだろう。隠す理由もないので、頷く。


「まあ……うん」


 少し遅れて、彼女の問いの初めの部分に引っかかった。


「黒汐も、ってことは……?」

「私も似たようなもんさ。中学時代の話だけどな。ちょっとこれ見てみろよ」


 八重はスマホを取り出すと、一枚の写真を見せてきた。そこには今とさして変わらない笑顔の玲愛と、黒髪ロングで清楚な雰囲気だが仏頂面の女子が映っていた。どちらも恒聖こうせい学院の物らしい制服を着ている。


「玲愛は分かるけど、もう一人は誰?」

「私だよ、それ」

「えっ!?」


 八重は予想通りと言わんばかりに笑う。彩日は慌ててもう一度見た。

 確かに言われてみると、修学旅行の時に見た化粧を落とした八重の顔に似ている。しかし、黒髪なこともそうだが、その表情の暗さは今と全然違う。正直、他人事ではない。


「流石に中学の時は金髪は禁止されてたけどな。それでも、当時の私はまさか今みたいな見た目にしたり、軽音楽部でベースを弾いてるなんて思ってもいなかったよ」


 つまり、玲愛と出会ったことでそんな風に変わった、ということだろうか。


「その話、聞いてもいい?」

「ああ。でも、別に面白い話じゃないからな」


 八重はそんな風に前置いてから、自分の過去について話し始める。


「私はさ、昔から鳥籠の中に囚われているように思ってたんだ。鋼白グループって巨大な組織から逃げることは出来なくて、そこでどうにか生きていかなきゃならないんだって」


 鋼白グループは同族経営の大企業だ。その中でも社長に位置するのが八重の父親らしい。

 その娘である八重がどんな環境で育ったのか、彩日には想像も出来ない。決して自分が羨むようなことばかりではないことは分かった。


「恒聖学院の初等部は私みたいな奴ばっかでな。許嫁がいるようなのも少なくなかったし。親にレールを敷かれた人生ってやつだ」


 八重はうんざりするような口調で言った。


「私はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。でも、親に直接言うことも出来なくて、言われるがまま従って。そんなだから、中学の時には随分と荒んでいたよ。あの頃は人ともろくに話さず、音楽ばっか聞いてたな」


 今年の春まで本を他人との壁代わりにしていた彩日にとって、その行動は他人事には思えない。八重からしてもそうだったのかもしれない。


「玲愛はそんな私に近寄って来てさ、まあ何だかんだで仲良くなって、ある時、家のことを話したんだ。そしたらあいつ、こう言ったんだよ」


 八重は一度言葉を切ると、玲愛の真似をするように言う。


「じゃあ私と一緒に外の学校を受けてみない? って」


 そんな玲愛の姿を想像することは難しくなかった。きっとにこやかな笑顔で、手を差し伸べるようにして、言うに違いない。


「予定していた恒聖学院の高等部から他の高校に変えたって大したことじゃない。だけど、その時、何だかパーッと目の前が開けた気がしたんだよな」


 それは八重にとって盲点だったのだろう。自分一人では見ることが出来なかった、気づくことが出来なかった領域。他人とはいつだってそういうものを与えてくれるように思う。


「で、いざ覚悟を決めてそのことを両親に話したら、拍子抜けするくらいにあっさりと了承されてな。結局、私が勝手に閉塞感とか重圧を感じてただけだったんだよ。両親は別にそんな風に思っちゃいなかった。何になるかなんて自分で決めろ、ってそう言われたよ」


 それは彩日にも通じることだった。以前は話したこともない人間の性格や内面を印象で決めつけていたのだから。けれど、実際に玲愛や八重、遥と関わったことでそれが間違っていたことを知った。もちろん関わった結果、相手を悪く思うこともあるのだろうが。

 そう考えた時、ふと両親のことが頭をよぎった。そこにも今の自分には見えていない何かがあるのだろうか。


「ま、私の話はそんなところだ。そういうことがあって玲愛には恩があるし、あいつが困ってるなら力になりたいと思ってる。今のところ、そんな機会もないんだけどな」

「ありがとう、話してくれて」

「またさ、黒汐の話も聞かせろよな。無理にとは言わないけど」

「もちろん。私の話せることなら」

「まあ、今日はもうちょっと時間ないんだけど」


 八重は店内の時計を見て、そう言った。どうやら部活の時間が迫っているらしい。


「そんじゃ、また学校でな」


 ファミレスを出ると、学校の方角へと歩いて行こうとした八重を、彩日はふと手元を見て呼び止めた。


「あ、お土産ありがとう、鋼白さん」


 受け取った時も言ったが、改めて言っておきたかった。

 すると、彼女は振り返ってフッと頬を緩めた。


「八重でいいよ、彩日」

「……八重、ありがとう。また学校で」

「おう」


 そのやり取りは今日の交流がもたらした繋がりを象徴しているように思えた。

 八重を見送ってから、帰路に就く。その道中で一つ、考えることがあった。

 彩日には玲愛が抱えている問題の輪郭は既に掴めている。これまでの彼女が発した言葉を思い返していけば、十分に推測は可能だった。

 ただ、八重はそうでないように思えた。玲愛は他の人の前ではああいった発言をしていないのだろうか。もしそうだとすれば、それは何を意味しているのか。見当も付かない。


 彩日は自分が気づいていることについて、八重に話さなかった。どこにも確証はないし、憶測で話すことは気が引ける。

 そもそも彩日は玲愛の内面へともう一度踏み込む決心が出来ていなかった。もう一度拒絶されれば、とてもその痛みに耐えられる気がしない。お互いが傷つかない距離。それでいいじゃないか、と思えてしまう。

 しかし、もしその問題を自分だけが知っているのだとすれば、自分が玲愛にとって何か特別な位置にいるのだとすれば、それでも果たして踏み込まないことが正しいのだろうか。

 彩日の心中では、自分が欲していた関係性が少しずつ築かれていくことへの喜びと、玲愛が抱える問題に対しての迷いが、混ざり合い渦巻いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る