第3話
修学旅行初日の夜は色々なことがあった。例えば、風呂だ。
何がとは言わないが、
風呂上がりの八重にも驚かされた。だって、化粧を落とした彼女は目つきがおっとりしていたから。一瞬、誰か分からなかった。
『アイメイクで鋭く見せてるんだよ。この垂れてるのが好きじゃなくてな』
困惑する彩日に、八重は自分の目元を示しながらそう言っていた。
また、寝る前には遥が恋バナをしたいと言い出して、巻き込まれた。乗り気なのは彼女だけで、玲愛も八重も渋々だった。
とは言っても、誰か付き合っている人がいるわけでもなければ、身近に好きな人がいるわけでもない、と最終的には好きなタイプを話すことになった。
玲愛は流行りの俳優、八重は憧れのベーシスト、遥は海外のモデルを挙げていた。
彩日は悩んだ末に好きな海外の俳優を挙げた。特に暴力シーンの演技が素晴らしいことをついつい熱がこもって話すと、遥はこう言った。
『あやぴーってもしかして……殴られたい系女子?』
慌てて否定したが、遥はニマニマと笑むだけで、そのままお開きとなった。
そして、翌朝の現在。
「まずはベースからやってくよん」
「こっちはブラッシングしてくね」
座布団の上に座る彩日の眼前には化粧道具を持った遥がいて、背後にはブラシを持った玲愛がいる。
どうしてこんなことになっているのだろうか。
数分前に遥から受けた説明は次のような内容だった。
『昨日のお風呂でさ、あやぴーの素材の良さに気づかされてね。いや、これまで気づいてなかった自分が恥ずかしいよ、まったく。で、これは活かさなきゃもったいない、と思ってれいにゃんに協力を頼んだってわけ。さあ、あたしにメイクさせろ!』
朝食後、二人に捕縛され迫られた彩日は了承した。その強烈な圧に拒否権があるとは思えず頷くしかなかった、というのが正しい。
まあ、迷惑という程ではない。けれど、どこか気恥ずかしさがある。化粧なんて自分には無縁のことだと思っていたからだ。ただ昨夜の八重を見て、こんな風にも変えられるものなのか、と感心させられたのは間違いなかった。
「あやぴーは絶対ブルべ冬だよね~」
「だねぇ。わたしが春で、はるるんが夏、八重が秋だから、綺麗に四季制覇だ」
「確かに。ま、あたしらが勝手に言ってるだけだけどさ。セカンドシーズンは良くわかんないし」
「一回、ちゃんと診断に行ってみたいよね」
「十六タイプの診断とか興味ありまくり」
遥と玲愛はそんな会話をしながらも手は動かしている。彩日は為すがままにされるしかなかった。二人が何の話をしているのかもさっぱり分からない。
「下地とファンデで血色良く見せて……クマはコンシーラーで隠して……うんうん、これだけでも全然違うや、あとは目元を……」
「ブラシで艶も出たし、やっぱり長いのを活かしたいな……前髪は左右に流して……トップで三つ編み作って……」
着実に進行しているようだが、その間、彩日は手持ち無沙汰だった。ふと広縁の方に視線を向けると、そこでは八重が椅子に座りながらぼけーっとしていた。朝は弱いらしい。
「完、成っ!」
「出来上がりっ!」
やがて、遥と玲愛はほぼ同じタイミングでそう言った。どちらも会心の出来と言いたげな顔だ。その成果を手鏡で見せられる。
「おぉ……」
彩日は思わず感嘆の息を漏らした。一瞬、それが自分かどうか分からなかった。
顔は、普段の青白い肌から透明感を帯びた肌になっており、目元もキュッと引き締まっている感じがする。思っていたよりもシンプルでナチュラルな感じだ。
髪型は、長い前髪は綺麗に左右へと流されており、頭の上の部分で作った三つ編みは後ろの髪と一緒にゴムで留められていて、上から桜色のシュシュで飾られていた。
全体的にクールで大人びた雰囲気だ。かといって、それだけでなく、シュシュのような可愛らしさもある。背丈の問題もあって、あまり優雅過ぎる姿も似合わないだろう。その為、ちょうど良い塩梅に思えた。
「どうどう?」
「すっごく可愛くない?」
玩具にされてる気がしないでもないが、その出来上がりに不満は何もなかったので、彩日は素直に答える。
「……良い。こんな風になるなんて、思いもしなかった」
「いぇーい!」
「やったね!」
遥と玲愛は軽快にハイタッチする。
その様子を横目に、彩日は改めて手鏡を見た。そこに映っているのは別人のようでありながら、紛れもなく自分だった。まるで魔法だな、と思う。
変われるのだろうか。変わってもいいのだろうか。
ふと浮き上がってきた問いかけ。しかし、答えてくれる者は誰もいない。
「じゃあ、次は服ね」
「……えっ?」
遥がサラッと告げた言葉に、彩日は己の耳を疑う。
しかし、彼女は自分の荷物から代わる代わる服を取り出してきた。明らかに日数に対する必要分を越えていた。どれも彩り豊かで可愛らしい、けれど、決して自分で着ようとは思わない服ばかり。
「その日の気分で決めようと思って、色々持ってきてたんだよね。身長あんま変わらんし、着れるっしょ。あやぴーにはどれが似合うかな~」
「全部似合いそうで困っちゃうね。悩ましい」
勝手に二人の間で話が進んでいっていた。彩日は慌てて制止の声を上げる。
「ちょ、ま、待ってっ……!」
「ま、着た姿を見ないと何とも言えんよね」
「時間もあんまり残ってないし、サクサクいこっか」
遥と玲愛は思い思いの服を取って迫り来る。一度許容したことにより生まれた流れは激しくなっており、それはもはや彩日に抗うことを許さなかった。
「うぅ……」
彩日は歩きながら落ち着かない気持ちでいっぱいだった。通りがかる人々にちらちらと見られている気がする。羞恥から必死に身を竦めるが、決して姿を消すことなど出来やしない。
彩日が着ているのは遥の持っていたワンピースだ。胸元から上と袖の部分が白の生地、他は黒の生地で出来ていた。色合い自体はそこまで目立つものでもないので、文句はない。
ただ、何よりの問題が一つ。それは、白の部分が透けている、ということだった。袖が全体的にふわっとしているのも気になる。服を着ている感じがしない。
また、普段スカートを履くことも時にはあるが、こんな膝が見えるほど短くないしヒラヒラもしていない。
つまるところは、自分には恥ずかし過ぎてとても外を歩けない、と思ってしまう少女趣味全開の服に他ならなかった。
「いやぁ、めっかわだわ。あたしの目に狂いはなかったぜ」
「うんうん、可愛いは正義、だね」
遥と玲愛はさっきからこんなことばっかり言っている。着せ替え人形で遊んでいる子供のようだ。
彩日がなおも羞恥に震えていると、八重がこそっと囁いてきた。
「まあ、今日だけは付き合ってやってくれ。明日はそんなことないようにするから、な?」
「……分かった」
どうせ既に外に出てきてしまっているので、今から違う服に着替えるのは難しい。それに、ほんの少しだけ慣れてきたような気がしなくもない。気を取り直して前を向く。
二日目も初日同様、頭上はどっしりと分厚い雲に覆われていた。そのせいか京都の風情ある町並みもくすんで見える。
彩日達は旅館近くの駅から電車に乗って移動し、目的の駅で降りて地上に出ると歩道を歩いていく。
その視線の先、左手側に如何にも美術館や博物館といった外観の建物が見えていた。
京都国際マンガミュージアムだ。まだ開館したばかりの時間帯となっている。
入場券を購入して受付を抜けると、そこから壁に並んだ書架に漫画が敷き詰められていた。特に二階のメインギャラリーは見上げるほど高い書架に囲まれており、圧巻の光景だった。
「こういうの興味ないから、あたしはあっち見とくね~」
漫画の歴史や製作背景に関する展示を見始めると、そんな風に遥はマイペースに離れたりもしていたが、彩日にはとても興味深く思えた。
また、過去にイベント等で来館した有名な漫画家の石膏手型と直筆の絵が置かれたコーナーでは、八重と玲愛も感嘆の息を漏らしていた。
「この手がこの絵を描いたんだって思うと、何だか色々感じるものがあるな」
「繊細な絵の雰囲気と違ってごつかったり、激しい絵の雰囲気と違って華奢だったりで、面白いね」
最後はかの漫画の神様が描いた作品の有名キャラクターのオブジェ前で、玲愛のスマホで四人一緒に写真を撮ったりもした。
「はい、チーズ! ……うん、良い感じ。後で送っとくね」
玲愛は撮った写真を見せてくれたが、他の三人が自然な笑顔やポーズの中、彩日だけは仏頂面だった。写真慣れしていないことが明らかで、居た堪れない気持ちになった。
京都国際マンガミュージアムを後にすると、次はバスで八坂神社の方まで移動した。近くの予定していた店で昼食を済ませた後、参拝もそこそこに気が急く遥と一緒に目的の地へと向かった。
周囲に『
「あぁ、美のオーラが満ちている……」
「ほら、さっさと入れよ。邪魔になるだろ」
「あいたっ……風情がないなぁ、やえっちは」
それぞれ参拝した後、社の傍にあった『身も心も美しく 美容水』と刻まれた石碑の前に移動した。そこでは湧き水が石の受け皿へと滴り落ちていた。
「こここれが霊験あらたかと名高い美容水……! これさえあれば、あたしは超美少女戦士はるるんに……!」
「何だか肌にスーって染み込んでいく感じがするね。これは確かに効果ありそう!」
「初めは眉唾物だとは思ったけど、いざ来ると神秘的な何かを感じる気がするな」
元よりここを大きな目的としていた遥はまだしも、玲愛と八重も前のめりで顔にぺたぺたしていた。三人とも美意識が高いんだな、と思わされる。
その後、軽く見回ってから本殿の方に戻ると、遥が売り場を指差して言った。
「恋みくじ、引こうぜ!!」
誰一人賛同する者はいなかったが、縋りつくように言われ、全員で引くことになった。
昨夜の恋バナといい、遥は恋愛事に興味津々のようだ。
恋。昔はほのかにそんな感情を抱いたこともあったかもしれないが、今は物語の中のものとしか思えない。それはどこか遠い世界にあるもので、自分の中からはもはや失われてしまったように思う。
「それじゃいっせーの、せ!」
遥の合図でそれぞれ購入した恋みくじを開く。
「げ、凶……」
「吉だな」
「あ、大吉だ」
「私も大吉……」
遥だけがガクッと肩を落とす結果になっていた。世界の無情さが表れているように思う。
「わたし達のやつ、同じ大吉でも違うこと書いてるね」
玲愛にそう言われ、互いの紙を見せ合う。彩日の分には『自分の心を偽らず正直に進むべき』というようなことが書かれており、玲愛の分には『迷いが晴れて希望の光が見つかる』というようなことが書かれていた。自分の恋愛事に興味はなくとも、悪い気分はしなかった。
そこで八坂神社を後にし、徒歩で清水寺へと向かった。その道中にある観光スポットにも立ち寄っていく。
やがて、清水寺へ到着し、『清水の舞台』として有名な本堂へとやって来た。そこから見える景色を一望し、高さ約十八メートルらしい地面を見下ろしながら、玲愛は言う。
「おおぅ、たっかいねー。良くもまあ、ここから飛び降りるなんてしたもんだよね。いくら願いの為とは言えさ」
「何かを為すにはそれくらいの勇気が必要、っていうのは分からなくもない」
「勇気、ねぇ。わたしには良くわからないなぁ」
「確かに、そういうの分からなさそう、
「……それってどういう意味!?」
「そろそろ次に行こう」
彩日は玲愛の追及をスルーしてそう促すと、彼女は不服そうにしながらも移動を開始するのだった。
隣接している地主神社にて、遥は先程の恋みくじで懲りておらず、恋占いの石にチャレンジしていた。目を閉じたまま片方の石から十メートルほど先にある石まで辿り着くことができれば、恋の願いが叶うとされているらしい。
「おい、そっちじゃねーよ! もっと右だ、右!」
「右ぃ!? こっちか!」
「あ、馬鹿! 行き過ぎだっ!」
「ぐぇぇ!?」
八重はどんどんズレていく遥を見かねて助言したが、それによって彼女は脇の建物に衝突する結果に終わった。目を閉じているのに迷いなく直進していけるのは凄いと思う。
「……ふっ」
「わ、笑っちゃ可哀そうだよっ」
そんな光景を見ていた彩日は、思わず笑みを零していた。隣にいた玲愛は窘めるように言うが、その頬は確かに緩んでいた。
「やえっちの策略に嵌められたぜ……」
「右って言ったら百八十度転回するとは思わないだろ……」
照れ臭そうに頭を掻く遥と多少申し訳なさそうな八重だったが、彼女達もすぐに笑い合った。
楽しいな、と彩日は素直に思う。それは以前の自分には決して起こり得ない感情だった。
最後の目的地である清水寺と地主神社を見終わった彩日達は、来た道を戻っていた。まだ旅館に戻る時間までは余裕があるので、近くの色々な店を見て回る予定だ。
清水寺から伸びる坂を下っていく。人が混雑しているので、あまり離れないようにしながら、並んでいる土産屋などを通り際に眺めて楽しんでいた。
「おっ、このキーホルダー可愛い!」
「そうかぁ? キモくね?」
「ちっちっち、やえっちは分かってないなぁ。むしろ、こういうのがいいんだよ」
遥と八重が前方でそんな話をしており、彩日と玲愛は少し離れた位置からその様子を眺めていた。
ふと玲愛の方を見ると、なぜだか道の反対側に視線を遣っていた。どうしたのだろう、と思った時には既に彼女は駆け出していた。人混みの間をするすると抜けていってしまう。
「えっ、ちょ……!」
八重も遥も商品の方を見ていて玲愛が離れたことに気づいていない。
なら、今すべきはまず彼女達に知らせることだ。その間に玲愛の姿を見失ってしまうかもしれないが、向こうはスマホも持っているので、下手に動くより賢明だと言える。
「っ……!」
それでも、彩日は反射的に玲愛を追いかけていた。何か大切なものが手の中をするりと抜けていってしまうような気がしたのだ。
人混みを何とか突破すると、そこでは玲愛が腰を屈めて小さな子供に話しかけていた。
どうやら親とはぐれてしまったらしい。あの人混みの中で良く気づけたものだと思う。
「そっか、お父さん達と清水寺に向かってたんだね。じゃあ、お姉さんと一緒に探しに行ってみようか」
そうして、清水寺まで戻ってみたところ、子供の両親を苦もなく発見することが出来た。子供がいないと気づいても、人混みの流れに逆らえずに上がってくるしかなかったようだ。猛烈に感謝され、親子で去っていく姿を見送った。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「別にいいけど、早く鋼白さん達に連絡しないと」
「あ、そうだね。電話電話」
玲愛はスマホを取り出すが、画面を見て「あっ」と声を上げる。
「どうしたの?」
「……電池、切れちゃった」
これまで慌てた様子をほとんど見せたことのない玲愛だったが、それには表情を凍り付かせていた。
そう言えば、今日はどこへ行くにも彼女がスマホで地図を見たり写真を撮ったりしていたので、電池の消耗が激しかったのかもしれない。
もちろん彩日もスマホは持っているが、これまで特に必要がなかったこともあって、八重達とは連絡先を交換していなかった。
「モバイルバッテリーは?」
「持ってない……
「私も」
スマホを良く使う人は常備しているように思うが、どちらもそのタイプではなかったらしい。
「ど、ど、どうしよう!?」
「……とりあえず、元いた場所まで戻ろう」
彩日と玲愛は再び坂を下っていく。しかし、先程までいた店の辺りに八重達の姿はない。
もしかすれば、向こうもこちらを探しており、すれ違ってしまったのかもしれない。
「うううう、黒汐さん、ごめんねっ……」
玲愛は今にも泣きそうな顔で謝ってくる。普段はあんなに完璧なのに予定外のことがあればこんなにも慌てるんだな、と意外な一面を見た気分となる。
そんな彼女を見たことで彩日は逆に冷静になった。別に今時、はぐれたくらいで大して問題はない。
「お金はある?」
「まあ、それなりにはあると思う」
「なら、モバイルバッテリーを買おう。下手に探すよりは電話するのが確実だし」
「……うん、そうだね、そうしよう!」
それが無闇に探し回るよりも確実な方法だと理解したようで、玲愛は強く頷いた。
彩日がスマホで近くのコンビニを調べ、道中で八重達の姿を探しながらも、そちらに早足で向かった。結局、彼女達を見つけることはないまま到着した。
「早く、早く……」
すぐにモバイルバッテリーを購入してきた玲愛はスマホに接続すると、電源が入るのを祈るように待つ。少しすると、無事にスマホが起動した。
向こうからいくつも着信が来ていたようで、すぐに折り返しの電話を掛ける。
「ごめん! わたしがちょっと離れちゃって……うん、黒汐さんも一緒。今、近くのコンビニにいるの……うん、うん、分かった、今からそっちに向かうね」
玲愛は電話を切ると、スマホを仕舞いながら安堵の表情で言う。
「見つからなくて疲れたから、途中にあったカフェで休憩してるって」
「そう」
八重達が待つカフェへと向かいながら、玲愛はシュンとした様子で呟く。
「……その、ありがとう、黒汐さん」
「何が?」
「わたし一人じゃ焦って上手く対処できなかったかもしれない。黒汐さんがいてくれて、凄く助かった」
別にそんなこともないだろう、と思う。打てる手はいくらでもあったはずなのだから。
「でも、どうして追いかけてきてくれたの?」
「どうしてって……」
玲愛は足を止めており、彩日も立ち止まって振り返る。
「追いかけてきてくれるなんて、思わなかったから」
玲愛は申し訳なさそうに言う。
けれど、それは確かにその通りだった。彩日自身、追いかける必要性なんて感じていなかった。なのに、身体が勝手に動いてしまった。
失いたくないと思ったのだ。だから、必死に足を動かして、手を伸ばした。
それが意味することは一つしかない。もう、自覚せずにはいられなかった。
彩日は玲愛との間に繋がりを感じていた。どうなっても構わない存在とは思っていなかった。
またあの時と同じような想いをすることは怖い。全部諦めていた方がずっと楽だった。
それでも、やっぱり欲しい。誰もいない世界なんて嫌だ。独りは寂しい。誰かと繋がっていられる世界がいい。たとえ傷つくことがあっても、欲しいものに向かって手を伸ばし続けたい。
清水の舞台から飛び降りるのは今だった。
「──と、友達、だから」
そう言った瞬間、辺りが眩しくなるのを感じた。
この二日間、天を分厚く覆い続けていた雲が割れており、その隙間から射した
彩日の言葉を受けた玲愛は驚いた様子だったが、やがて微笑みを浮かべて言う。
「これからは彩日って呼んでいい?」
「……別にいいけど」
「やった。彩日もわたしのことは名前で呼んでね」
正直、自分の名前は好きではない。この陽射しのように綺麗でも明るくもない人間だから。
だけど、玲愛に呼ばれるそれは不思議と嫌ではなかった。
「待たせてるし、行こう……玲愛」
「うんっ」
隣には上機嫌な玲愛がいる。行く先には八重と遥も待ってくれている。
彩日は止めていた足を動かして、再び歩き始めた。
修学旅行三日目は学校側が決めた複数のコースから選ぶという形式だった。
彩日達は、午前は嵯峨野のトロッコ列車に乗って、午後は東映太秦映画村に行くコースを選んでいた。豊かな自然を堪能したり、忍者気分を味わったりで楽しかった。
そうして、日が暮れる前には新幹線で京都を後にした。
行きの時は最初から最後まで一人で過ごした彩日だったが、帰りは玲愛達と過ごしていた。
ただ、およそ一時間が経過した頃には、多くの生徒が疲れ果てたように寝入っていた。
「みんな、寝ちゃったね」
隣に座る玲愛が小さな声で言った。対面の席では、片腕を枕代わりに窓辺に寄り掛かって寝ている八重と、彼女の膝を勝手に枕代わりにして寝ている遥がいた。
そんな姿を見て、彩日も欠伸を噛み殺す。
「私もちょっと眠い」
「寝ててもいいよ? 着く頃には起こしてあげるからさ」
それは甘美な誘いだったが、緩やかに首を横に振った。
「やめとく」
それでは、玲愛が一人になってしまう。別に起きている必要もないのに、彼女は律儀にもそのまま起きていそうだ。
「わたしのことは気にしなくていいのに」
そう言いながらも、玲愛は頬を綻ばせていた。
ゆったりとした時が流れる。窓の外はすっかり暗くなっていた。
少しして、彩日は玲愛にまだ伝えていなかった言葉があることを思い出す。
「そう言えば……ありがとう」
「え、急に何のお礼?」
玲愛は見当が付かないようで首を傾げた。
今更取り繕う必要もないな、と秘めていた思いを吐露する。
「私はさ、正直もう誰かと仲良くなるなんて二度とごめんだと思っていたんだ。どうせいつか裏切られる、人間は他人と分かり合うことなんて絶対に出来ないって」
それは懺悔のようなものだった。
もう一度立ち上がろうと決めた今だからこそ、誰かに聞いてもらいかった。
「物語相手なら一方的な関係性でいられる。此処じゃない何処かに思いを馳せるのは楽しかった。でも、そうしてたらいつしか、この現実もどこか遠くの出来事みたいに感じるようになってた。自分には関係ないんだって」
玲愛は黙って話を聞いてくれる。神妙でもなく、同情するでもなく、ただ穏やかに。
「でも、それって結局、楽だからそうしてただけなんだよね。他人と向き合うことから逃げてたんだ。本当は欲しがってたくせに。手に入らないから自棄になって、遠ざけて、貶して、価値がないと思い込もうとしてただけだ。まさに酸っぱい葡萄だよ」
停滞していた。どこにも行けなくなっていた。
袋小路。出口のない迷路。閉じ切った世界。
それは確かに平穏だったけれど、心の底から欲しているものではなかった。
「あの日、玲愛が話しかけてくれたから、寄り添ってくれたから、やっと気づくことが出来た。私はやっぱり今のままじゃ駄目なんだって。変わりたい、って思う」
話を聞き終えた玲愛は何を思ったのか、こちらの手の上に自分の手を重ねてきた。
「少しでも彩日の助けになれたなら、わたしも嬉しいよ。これからもよろしくね」
彼女はにこやかに笑う。それを見ると、こちらも自然と頬が緩んだ。
この世に永遠なんてないし、変わらない関係もないのだと思う。
だけど、今は、今だけは、この温もりを確かなものとして感じていたかった。
彩日はふと窓の外に視線を移した。すっかり晴れ渡っており、星々が顔を覗かせている。
話をしている間も新幹線は動き続けていた。そして、この世界もまた。
色々な感情を呑み込んで、次の駅へと向かっていく。
修学旅行が終わり、休日を挟んだ週明け。彩日は教室の扉の前で立ち尽くしていた。
いつも自分の視線を隠してくれていた前髪は、もうない。
休日の間に美容室に行き、伸ばしっぱなしだった髪をバッサリと切ってもらったのだ。
といっても、急に短くするのも抵抗があるので、前髪以外は少し短くなった程度。
それでも、以前の重苦しかった雰囲気から随分と違っていると思えた。美容師って凄い。
ただ、そのせいで夏休みデビューでもしたような気分となっており、教室に入るのが非常に恥ずかしい。
流石にいつまでもそうしているわけにはいかず、意を決して扉を開ける。既に来ていたクラスメイトの好奇の視線が向くが、気にしないようにつかつかと自分の席へと歩いていく。
リュックを置くと、既に来ていた隣の席のクラスメイトに目を遣った。
彼女の名前は、
初めの相手として彼女を選んだことに、何とも狡い奴だ、と自嘲する。けれど、そんな臆病な自分も認めてやりたいと思った。その上で必要なことを模索していこう。
彩日は勇気を振り絞って、茉莉花に声を掛けた。
「お、おはよう、雪村、さん」
「えっ、あっ、く、
茉莉花は泡を食ったような様子だった。いつも置物のようだったクラスメイトが急に話しかけてきたのだから、当然だろう。
ただ、彼女はその優れた包容力ですぐにふわりと笑いかけてくれる。
「おはよう。髪型、変えたんだね」
「うん、まあ……何となく」
心機一転のつもりだったが、それを赤裸々に話すのも躊躇われた。
「前より似合ってると思うよ」
「あ、ありがとう」
軽い会話を終えて、席に座る。
……よし、頑張った、私。
別にクラスメイト全員と仲良くなろうなんて、玲愛みたいなことをするつもりはないが、それでも知らない相手のことを知ろうとする努力は出来る範囲で行いたい。
そうしていく先にきっと、求めるものがあるはずだから。
「おはよー。あ、彩日、髪切ってる!」
教室に入ってきた玲愛は目敏く気づくと、素早く駆け寄ってきた。
「うんうん、やっぱり彩日は前髪短い方が良いよ。せっかく綺麗な顔立ちしてるんだから」
玲愛はそう言いながら、こちらの顔や髪を弄くり回してくる。何て遠慮のなさだ。
「……人の身体で遊ばないで、玲愛」
「えー、またヘアアレンジとかさせてよぉ」
そんな様子に隣に座っている茉莉花が不思議そうな顔をする。
「玲愛ちゃん、黒汐さんとそんなに仲良かったっけ?」
「こないだの修学旅行で急接近したんだ!」
「へぇ、そうなんだぁ。二人の班はどんなことしたの?」
そうして、彩日達は修学旅行の話をし始めた。
やがては八重や遥も登校してきて、談笑の輪が一層広がっていった。
歯車はもう孤独に空転してはいない。
いくつかの異なる歯車と噛み合って、共に
「ただいまー」
玲愛はボランティア部の活動を終えて帰宅した。
洗面所で手洗いうがいをし、二階の自分の部屋に荷物を置くと、リビングへと向かった。
「あら、おかえりなさい、玲愛」
母親の
「手伝うよ」
「ありがとう」
玲愛は聞くまでもなく、母がしていたことを引き継ぐ。
もう何年も手伝っているので、状況を一目見れば何をすれば良いかは大体分かる。
「お父さん、今日は早く帰って来れるみたいよ」
「そうなんだ。珍しいね」
父親の
基本的に激務なので、昔から日付が変わる前に帰って来れるだけでもマシという感じだった。その為、夕飯を共に出来るというのは稀なのだ。
少しして階段を下りてくる足音がした後、リビングに一人の少年が入ってきた。
「あ、おかえり、姉ちゃん」
「ただいま、憲ちゃん」
弟の
「母さん、もうこっちも準備しといたらいい?」
「ええ、お願い。今日はお父さんも一緒だから、四人分ね」
「オッケー」
弟はテーブルを拭いたり、箸を並べたりと食卓の準備をしていく。料理こそ出来ないが、自分に出来ることはいつも率先してやってくれる。
やがて、夕飯の準備がすっかり出来た頃に父は帰ってきた。
「おかえりなさい、あなた」「おかえり、お父さん」「おかえり、父さん」
三者三様の言葉を受けて、父は淡々とした調子で言う。
「ああ、ただいま、紫織、玲愛、憲心」
四人揃ったところで、席につくと各々が両手を合わせて「いただきます」と言い、夕食を食べ始めた。
テーブル上に並ぶのは、白米、味噌汁、鯛の昆布蒸し、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、切り干し大根、と如何にも和食だ。母は和食を得意としており、彼女に教わった玲愛も同様だった。
「姉ちゃん、ちょっと勉強で分からないところがあるんだけど、また教えてもらってもいい?」
弟は口に含んでいた食事を飲み込むと、そう聞いてきた。
「憲心。あまり頼っちゃ駄目よ。お姉ちゃんだって忙しいんだから」
「えー」
母が弟を窘める。玲愛に頼りきりになってしまわない為だろう。
ただ、それはこちらも気をつけていることだ。あくまで助言するだけに留めている。
「大丈夫だよ、お母さん。それじゃ後でそっちの部屋に行くね」
姉弟間の話がまとまったところで、父が口を開く。
「玲愛は最近、どうだ?」
父はあまり口数が多いタイプではない。表情も仏頂面なことがほとんどだ。
小さい頃は喜怒哀楽が分からず、ずっと怒っているように見えていたことを思い出す。
今は微かな表情の変化が示す感情も、何を聞かれているのかも大体分かる。
「バッチリだよ。模試の結果も良いし、ボランティア部で色々な人と関わることが出来てるし、ちゃんと成長できてると思う」
勉強は大事だがそれだけに尽力するようなこともあってはならない、というのは父の教えだった。その為、中学時代には生徒会で学内の人達との関わりを経験し、今はボランティア部で地域の人達との関わりを経験している。
「大学ではやはり総合職を受けるつもりなのか?」
「そのつもり。どの省庁を希望するかまでは決めてないけどね」
「そうか……まあ、まだ時間はある。じっくり考えることだ」
「うん」
父が自分と同じような道へ行くことを望んでいるのは分かっている。彼にとっては社会に役立つ人間であることが価値なのだから。それは玲愛にとっても大きな指針となっていた。
それこそ、玲愛に刻み込まれた至上命題だった。その為に日々を懸命に過ごす。
夕食後は約束通り弟に勉強を教え、それから風呂に入ってスキンケアもしっかり行い、後は日付が変わる頃まで自分の勉強をこなした。
寝る準備を終えてベッドに入る。瞼を閉じると、ふと脳裏に浮かんできたのは彩日の姿だった。
初めてクラスで見た時、彼女は溺れているように見えた。苦しみの渦中で必死に堪え忍んでいるようだった。
目の前で溺れている人間がいれば、飛び込んで助けずにはいられない。それが玲愛の生き方、存在意義だ。
その為、今朝の彩日の様子を見て深く安堵した。もう大丈夫だろう。これからはクラスで気楽に話せる友達も増えていって、楽しい日々を送れるはずだ。もし何かあれば、その時はまた介入すればいい。
ただ、彩日に関して言えば気に掛かることもあった。
「……好き」
ふと呟いた言葉は虚空に呑まれて、消える。
彩日と初めて話したあの時、彼女の語ったそれは他の人とは少し違って感じられた。もっと言えば、彼女の態度そのものが。だから、思わずあんなことを言ってしまったのかもしれない。
けれど、一体何が違っているのか。彩日の手助けをしながらも考えてきたが、分からない。気のせいかもしれないし、拘泥する必要はなさそうだ。
思考を止めて意識を緩めると、玲愛は瞬く間に微睡みの中へと落ちていった。
凍てつくような冷気と空虚な暗闇で満ちた大地が広がる。
遥か彼方でたくさんの星が瞬いていた。どれも宝石のように色とりどりで綺麗だ。
でも、届かない。この手の中に下りてきてはくれない。
だから、そっと目を閉じる。何も見えないように。
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