第一章

第1話

 昼休みの終わりが迫ったことで、彩日あやひは教室に戻ってきた。玲愛れいあと一緒に歩きたくないので早足だった。その為、彼女は遅れて入ってきた。

 彩日が自分の席に座った辺りで、金髪の女子が玲愛に話しかける。


「お、玲愛、戻って来たな。どこ行ってたんだ?」

「ちょっと友達のところにね」

「そうか」


 断じて友達になった覚えはない。心中でそう呟いたが、決して口にすることは出来なかった。


「さっき遥と話してたんだけど、今週末遊びに行こうぜ」

「夏服が見たいんだよねー。新作コスメも! れいにゃんも気になるっしょ?」


 茶髪の内側にピンク髪が混ざった女子が追随する。


「お、いいね。行こう行こう!」


 玲愛も乗り気だった。彼女は彩日以外のクラスメイトとは男女を問わず誰とでも仲が良いが、この二人はその中でも特に仲が良いらしい女子だった。

 金髪の女子の名前は、鋼白こうじろ八重やえ。その外見を一言で言えば、不良だ。長く伸びた髪は如何にも頭が悪そうな色をしている。切れ長の目は鋭く口調も荒いので、相当怖い。とても近寄りたくはない。カツアゲとかされそうだ。

 軽音楽部でバンドをしているらしいが、どうせお遊びだろう。絶対、煙草とか吸っている。

 そんな彼女が自分でも知っているような大企業、鋼白グループのご令嬢だと言うのだから、世も末だ。ちゃんと教育して欲しい。

 いくら自由度が高い学校とはいえ、八重の見た目は相当に浮いている。流石に大半の生徒は真面目な格好をしている為だ。


 けれど、もう一人は更に浮いた見た目をしていた。

 茶ピンク髪の女子の名前は、燈赤ひせきはるか。その外見を一言で言えば、ギャルだ。脳内お花畑な感じのゆるふわボブで、顔には遠目でも分かるような濃い化粧が施されており、更に耳には痛々しいピアスが複数付いていた。こちらもどう見ても近づいてはいけないやばい奴だ。

 服装もクラス内で彼女だけが違っている。基本的には制服のブラウスとスカートに私服のTシャツやパーカーをミックスしたような形だ。この学校は私服通学が可能だが、九割九分九厘の生徒は面倒で制服を着ている。よっぽどお洒落に自信があるのだろう。

 美術部らしいが、あんなのがまともな絵を描けるとは思えない。どう見ても落書きなのを芸術だとか言ってそうだ。


 そんな彼女達に対して、玲愛は超が付く程の優等生だ。スクールカーストの最頂点に君臨していると言っても良い。それだけの華も能力も兼ね備えている。

 比べて、彩日は最底辺だという自覚がある。クラスの誰とも関わろうとせず、休み時間は本ばかり読んでいて、放課後は帰宅部なので直帰。そのくせ、成績は悪い。どこを取っても褒める要素は一つもなかった。もし虐めがあれば、標的にされていてもおかしくない。

 それは得てして、弱者に牙を剥くものなのだから。

 そんな彩日からすれば、玲愛こそが最も恐ろしい。これまで噂で聞いてきたようなことを素で行える善人なんているはずがない。その裏には想像もできないような醜くどす黒い姿があるに違いない。

 だから、自分に近づいてきたことも何か魂胆があるに決まっている。決して気を許してはならない。他のクラスメイトのように籠絡されてなるものか。


『わたしにあなたの──好きを教えて』


 彩日は先程の玲愛の言葉と表情を思い出す。

 それは何故だか脳裏にこびり付くようで、なかなか離れてはくれなかった。






 数日が過ぎた。その間、玲愛が再び屋上に姿を見せることはなかった。

 懐柔を諦めたのかもしれない。それなら喜ばしいことだ。

 そんな風に思っていた日の昼休み、またしても玲愛が襲来した。


「今日もお昼一緒にいいかな?」

「うっ……」


 彩日は思わず呻き、手に力が入ったことで惣菜パンの袋が歪んだ音を鳴らす。

 ただ、今回は気になることもあったので、小さく頷くことにした。


「やった」


 玲愛は全身で喜びを示し、そのまま隣に座った。

 彼女が弁当を開いているところで、彩日の方から話を切り出す。


「こないだの、私の好きを教えて、って何?」

「あ、うん。こないだはごめんね、急に変なこと言って」


 玲愛は決まりが悪そうに苦笑いした。


「その、別に何かの先生になって欲しいとか、指導して欲しいってわけじゃないの」


 たどたどしい口調だ。彼女自身も改めてあの時の発言について考えているように見えた。


「でも、黒汐さんともっとたくさん話をしてみたい。あなたのことを知りたいと思う」


 玲愛は真っすぐこちらを見つめてくる。やはりその眸は煌めいて見えた。


「だから、わたしと友達になって欲しい」


 こういう流れは大抵、頷くものだろう。普通なら断る理由もない。

 しかし。


「……嫌」


 彩日は玲愛の要求を無下に切り捨てた。


「あはは……やっぱりわたしじゃ駄目かぁ」


 玲愛はショックを受けたような表情で呟くが、それは首を横に振って否定した。


「違う。蒼樹だからじゃない。私は誰とも仲良くなる気なんてない。それだけ」


 友達も恋人も家族も全部見せかけの関係だ。表面的な領域で浅はかなやり取りをしているに過ぎない。本当のところは何一つ分かり合っちゃいないのに、分かっていると勘違いしている。そんな下らない欺瞞に巻き込まれるのは死んでもごめんだ。

 世界に他人なんていらない。自分だけでいい。他は全てただの物質だ。


「それでも、話はしてくれるんだね」

「……友達じゃなくても、世間話くらいはすることもあるでしょ」

「そっか」


 互いに沈黙し、黙々と昼食を口にする。聞こえるのは微かな咀嚼音だけ。

 やがて、玲愛は空になった弁当を前にして両手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


 玲愛はピョンと立ち上がると、こちらを向いた。満面の笑みで告げる。


「また来るね」


 その言葉に彩日は何も言えなかった。結局、拒絶し切れていないのだ。

 昼休みはまだ時間が残っていたがとても映画を観る気にはなれず、自己嫌悪に打ちひしがれながらぼんやりと無機質な青空を見て過ごした。






 あれから玲愛は数日に一度のペースで昼休みの屋上に姿を見せるようになった。

 そこで行うのはほんの少しの世間話と一緒に映画を観るだけ。決して教室で話しかけてくるようなことはない。それがこちらの忌避することだと分かっているのだろう。

 彩日は昼休みに観る映画を自然と、自分一人で観る用と玲愛と観る用に分けるようになった。

 毎回、観終わった後はお互いの感想を言い合った。


 以前のようなオタク語りは控えようと思っていたが、玲愛はそれを聞きたいと言うので、彩日も思ったことや考えたことを片っ端から述べた。彼女は嫌な顔一つせずに聞いてくれる。

 頭の中で一度言葉にはしていても、口にするとまた違う感じがした。話す相手がいると、その内容を上手く纏めようとする中で、曖昧な理解だった部分が露わとなっていく。それは理解をより深める為には必要な過程だと思えた。

 友達ではない。けれど、赤の他人でもない。そんな関係性のまま日々が過ぎていく。

 それは彼女とは三作品目となる映画を観終えた時のことだった。


「まだ昼休み、結構あるね」

「この映画、一時間五十分しかないから」

「そうだ、あと一週間で中間テストだけど、黒汐さんは勉強してる?」

「…………」

「うわ、露骨に嫌そうな顔」

「記憶から消してたことを思い出させないで」


 彩日は深い溜め息を吐いた。一年生の時は何とか乗り切ったけど、二年生はもう初っぱなから厳しい。数学とか意味不明だ。進学校は伊達ではない。


「もし不安なら、わたしが教えてあげようか?」

「忙しいんじゃないの、色々と」

「テスト期間は部活がないからね、割と暇なの。他にも教える約束してる友達は何人かいるけど、それくらい」


 他人に勉強を教えるなんてただでさえ面倒だろうに、それを複数抱えているなんていくらボランティア部と言えど奉仕精神が過ぎる。やはり彼女は不気味だ。


「良くもまあ、自分の得にもならないことばかり出来るね」

「そうかな? わたし的には自分も得してるつもりなんだけど。勉強を教えるのって自分の確認にもなるしね」


 決して勉強だけを指したわけではなかったが、それだけでも十分におかしな話だ。

 内情を良く知らないだけかもしれないが、常軌を逸していると感じてしまう。


「それにね、例えば、八重やはるるんだって……あっ、八重とはるるんっていうのはクラスの」

「分かるよ」

「そう?」


 玲愛は彩日がクラスメイトの名前を覚えていないと思ったのだろう。

 けれど、それくらいは全て覚えている。たとえ、話をしたことがなくても。


「八重は音楽が大好きで軽音楽部で頑張ってるし、はるるんも可愛いものが大好きで美術部で頑張ってて、他の皆にもそれぞれ特別なものがあるでしょ? それなら、勉強がスムーズに進めば、そのことにもっと時間を使えるし」


 玲愛の言うことは確かに間違っていない。けれど、そこで犠牲になっているものがあるはずだ。にもかかわらず、彼女は当たり前のように綺麗な笑顔を形作って言う。


「わたしが勉強を教えることでその誰かが好きなことに時間を使えるなら、そっちの方が嬉しいよ」


 お手本のような自己犠牲の精神。それは勉強を教えるに限っただけでなく、ボランティア部の活動や、その他の行動にも通底しているのかもしれない。

 本心から言っているのだとすれば、紛れもない聖人だ。そこに彩日が睨んでいたような裏の顔、醜い欲望が潜んでいるようには思えない。

 しかし、果たしてそんな人間が実在し得るのだろうか。


「どう? 今ならお安くしとくよ?」

「金取るんかい」

「冗談だって」


 玲愛はカラカラと笑う。

 流石に退学になるのは好ましくないので、猫の手でも借りるしかない状況なのも確かだ。

 それなら、と彩日は渋々ながらも言う。


「じゃあ……頼もうかな」

「うん、お任せあれ。どこでやろっか」

「学校以外で」


 玲愛と一緒にいるところを見られたくはない。


「そっか。うーん、わたしの家は電車乗らなきゃだし」

「私の家も駄目」


 徒歩通学なので近いが、人を出迎えられるような家ではない。


「じゃあ、どこかカフェとかに行こっか。うちの生徒がいないようなところ」


 玲愛は学校でしたくない理由を察しているようだった。


「分かった」


 これで話は終わりかと思いきや、玲愛は最後に恐ろしい要求をしてくる。


「あ、連絡先教えてよ。別々に学校出てお店で合流する為にも、ね?」

「うっ……」


 未だかつて彩日のスマホに他人の連絡先が登録されたことはない。両親でさえも。

 しかし、それは確かに必要なことだった。昔の映画のように、口頭で約束したが為にすれ違いが生じる、なんて時代ではない。

 彩日は葛藤の末に受け入れる。これは退学にならない為、と自分に言い訳をしながら。






 彩日が玲愛から送られてきた位置情報を頼りに辿り着いたのは、いわゆる純喫茶だった。

 こういう店は少し敷居が高い。駅前にはチェーン店もいくつかあるので、学生は大抵そちらに流れるだろう。確かにこれなら他の生徒に見られる心配をせず勉強できそうだった。

 落ち着いた雰囲気の空間で玲愛の待つ席についた彩日は、なかなか良い値のするブレンドコーヒーを注文した。


「それじゃ早速始めよっか。こないだのテストはどんな感じだったの?」

「国語以外は惨憺たる結果だったけど、特にやばいのは数学……」

「そういうタイプね。なら、まずは数学からやっていこうか」


 テスト範囲を確認して基礎的な内容を中心に問題を解いていく。玲愛の教え方は要領を得ていて、非常に分かりやすかった。特に問題への取り組み方の例えが秀逸だ。イメージがスッと入ってきて、意味不明だと思っていた数式が途端に解けるものになる。

 一時間程度が経過したところで一度休憩を提案され、玲愛はふと思いついたように問いを投げてくる。


「黒汐さんって一般受験で入った?」

「うん」

「その時、どれくらい勉強した?」

「……一月くらい?」


 正直、高校なんてどこでも良かったが、遠くまで通うのは面倒なので嫌だった。そこで家から最も近いのが椏高校だった。珍しく頑張って勉強したところ、何とか合格することが出来た。

 しかし、いざ入ってみれば授業ペースが中学の頃と段違いで、まったく付いていけなくなってしまったのだ。


「なるほど。道理で理解が早いわけだ。普通はもっと時間を掛けて勉強して、やっと入れるくらいなんだよ、うちの学校って」


 中学時代も今と変わらない感じなので、受験について誰かに聞くようなこともなかった。傍から見れば、相当無謀なことをしていたのだろうか。


「やれば出来るタイプなんだね。それなら赤点くらいはすぐに回避できるよ。はるるんみたいに推薦で入ってきた人にはやっぱり教え方を色々と考えないといけないんだよね」

「推薦組なんだ」

「そうだよ。美術の能力でね。ただ、うちは推薦組だからって赤点は駄目だから、最低限は勉強しないといけないの。それで彼女には一年の時からわたしが教えてるんだ」


 遥が推薦入学という話は初耳だった。もしかして彼女は凄い人間なのか。普段の様子を見ていると、頭が悪いギャルにしか見えないが。

 そんな雑談をしたところで小休憩を終え、勉強を再開した。二時間ほど教えてもらったが、そのお陰でテスト範囲の結構な部分をカバーすることが出来た。この調子なら何とかなりそうだ。


「それじゃ、また明日ね」


 血のような夕焼けが照らす風景の中、玲愛は駅の方へと消えていった。


「また明日、か」


 彩日はポツリと呟いた。胸の裡側がざわつくのを感じる。それから逃れるように頭を小さく振った。


「……夕飯、買って帰らなきゃ」


 帰り道の途中にあるスーパーを目指して歩き始めた。






 彩日は高層マンション内にある自宅の鍵を開けて扉を開くと、無言のまま中に入っていく。

 家政婦が掃除した綺麗な玄関や廊下を歩いていき、そこから通じている自室へと一直線に向かった。

 彩日がリビングに行くことは基本的にない。そこは戸籍上は父親である慧佑けいすけの領分だ。と言っても、この時間は酔い潰れて寝ているだけだろうが。あと一、二時間もすれば起きて自分のノートパソコンに向かい、仕事を始めるだろう。時折、外出している様子もあるが、興味もないので良くは知らない。


 そして、戸籍上は母親の一華いちかはそもそも家にいない。帰ってくること自体が稀だ。稽古場に近いホテルにでも住んでいるのだろう。彼女にとってこの家はただの物置で、用がなければ近寄るような場所ではない。

 だから、『ただいま』と言ったところで『おかえり』と返す人はこの家にはいない。住んでいるのは、家族ではなくただの他人。家族だから特別、なんて考えには吐き気がする。そんなものは幻想に過ぎない。そこには何の特別な繋がりもありはしないのだ。


 彩日は自室に入って電気をつけた。部屋内にはベッド、本棚、机、椅子、箪笥といった基本的な家具に加えて、小型の冷蔵庫を設置している。その中から炭酸飲料のペットボトルを取り出すと、コクコクと飲んで喉を潤した。

 それから椅子に座って、机上でスリープ状態のノートパソコンを起動する。昨夜観ていたアニメが途中だったので、その続きから観始めることにした。

 彩日にとってこの部屋はどこよりも落ち着く空間だ。家政婦にもここの掃除は不要だと言ってあるので、自分以外は誰一人として立ち入らない、言わば聖域となっている。


 お腹が空けば、スーパーで買ってきた弁当を食べ始める。袋には一緒に明日の昼食用のパンも入っていた。

 今はアニメを観ているが、学校と同じように映画を観ることもある。家で観る場合は期待作のことが多い。食事中以外なら、漫画や小説といった本に移ったりもする。部屋内に設置された本棚にびっしりと詰まっており、入りきらない分は適当に床に積んであった。最低限の清掃はしているが、それらに関してはどうしようもない。

 そんな風に過ごしているうちに眠くなればベッドに入り、起きれば学校だ。休日の場合は今と同様に過ごし、適当なタイミングで外のスーパーやコンビニへと食事を買いに行く。彩日の日常はその繰り返しだった。


 やがて、眠気を感じた彩日が寝る前に放置していたスマホを手に取ると、一通のメッセージが届いていた。玲愛からだ。


『今日はありがとう! 中間テストに向けて頑張ろうね! 勝手かもしれないけど、わたしはもう黒汐さんのこと、友達だと思ってるよ』


 文章の端々には色々な絵文字が付いている。陽キャらしい文面だ。

 勉強を教えてもらっているのはこちらの方なので、お礼の言葉を返すべきなのかもしれない。

『こちらこそありがとう』だけでは素っ気ないだろうか。かといって、絵文字なんてどういう風に使えば良いのかも分からない。

 少しの間悩んでいたところ、ふと我に返り嫌気がさした。


「……馬鹿馬鹿しい」


 玲愛にとって自分は所詮、大勢いる知り合いの内の一人でしかない。彼女は誰とでも仲良くなろうとするタイプの人間で、少しでもそれが出来たことに満足だろう。

 なら、いちいち気を遣う必要なんてない。こちらも今は退学にならない為に利用しているだけだ。互いの利害が一致しているだけの、冷めた関係。

 もう二度と、誰かとの繋がりを求めたりしない。そう決めたのだから。

 彩日は返信をしないままベッドに入って、泥のような眠りに就いた。






 彩日の物心が付いた時、いつも傍にいたのは父親でも母親でもなく、自分の世話係に雇われた家政婦だった。

 保育園や幼稚園で初めて自分が他の子供達と違っていることを知った。

 彼らは基本的に親が迎えに来ていたし、それは自分の世話をしてくれる人でもあった。

 けれど、彩日を迎えに来てくれるのは家政婦で、世話をしてくれるのも家政婦だった。家にいる父が構ってくれることはなく、たまに出会う母も冷淡だった。

 かといって、家政婦を親のように慕うことも出来なかった。二年毎に新しい人に変わった為、そこまで心を許すことは叶わなかったのだ。

 それでも、家政婦の人達には感謝している。今の自分が曲がりなりにも生活していけるのは、親切な彼女達が日常にまつわる様々な事柄を教えてくれたからに他ならない。実の親が何かを教えてくれることはなかった。


 小学校に上がる頃には自分の環境について、ある程度は理解できるようになっていた。

 父親の慧佑はフリーライターであり、依頼を受けて批評やキャッチコピーといった文章を書いていること。

 母親の一華は舞台女優であり、その界隈では人心を惹き付ける圧倒的演技力を持っているとして有名なこと。

 そんな二人は子供であるはずの自分に興味がないこと。


 父は彩日が喋りかけると最低限応えてはくれるが、大半は「俺の邪魔をするな」や「向こう行ってろ」というものだった。

 母は彩日が喋りかけても、返ってくるのは「ええ」や「そう」といった言葉ばかりで、会話になることは稀だった。

 食事は家政婦が用意してくれたものを基本的に一人で食べた。父は自分が食べたい時間に食べており、家にいない母の分はそもそも用意されない。

 彩日の話をまともに聞いてくれるのは家政婦だけだった。彼女達はいつだって同情的に接してくれていたように思う。

 小学校で過ごすうちにそんな自分の家庭環境が“普通”でも“当たり前”でもないと理解し、自然と隠すようになった。

 そんなある日、偶然出くわした母は自分が出演する舞台のチケットをくれた。


「これ、あげるわ」


 彩日からすれば、それは初めてまともに母と交わしたコミュニケーションだった。

 家政婦に連れて行ってもらい、生の舞台を観た衝撃は凄かった。そこには映像とは全く違った、その場でしか感じられない何かがあるように思えた。

 特に、役を演じる母は普段とは別人のようで、観客の誰もが彼女の虜となっており、それは彩日も同様だった。煌めくその姿が眩しくて、美しくて、目を奪われた。それが凄いものだと子供心ながらに強く感じた。生まれて初めて、何かに憧憬を抱いた。


 母はそれからもチケットをくれたし、舞台のことならほんの少しだけ話もしてくれた。

 しかし、彩日は母の舞台を何度も観に行くうちに、次第にそれが自分の母親であるという事実に失望を抱くようになっていった。

 もっと他の子達のように普通の母親が良かった。いつも傍にいて、自分の相手をして欲しかった。

 そんな思いが募っていき、遂には母が手渡すチケットを拒絶した。


「いらない」


 顔を背けた彩日に対し、母は「そう」としか答えなかった。以来、また彼女と話すことはほとんどなくなった。たまに一言二言やり取りする程度。

 小学校の高学年になると、家政婦の仕事は掃除と洗濯だけになり、彩日の世話係はいなくなった。


「他のことは自分で何とかしろ。金は好きに使っていい」


 父はそう言った。

 それからは食事や衣服は自分で買ってくるようになった。分からないことは父に言えばやってくれたが、必ず面倒そうな顔と悪態を吐かれるので、自然と可能な限り自分で済ませるようになった。

 しばらくは大した問題もなく過ごすことが出来ていた。

 だが、彩日が小学五年生の時の教室で“それ”は起きた。

 クラスにはお調子者の男子が一人いた。彼は事あるごとに何かを言っては笑いを引き起こす人気者だった。その時も彼が何かを言って、教室は笑いの渦に包まれていた。

 しかし、そこで昔の彩日は躊躇いなく言葉を発した。


「つまんない」


 率直にそう思ったから、言っただけだった。けれど、場は一瞬で冷え切った。恐ろしいほどに静まり返った後、色々な方向からひそひそと囁き声がした。

 翌日からクラスメイトに無視されるようになった。

 誰が発端となったのかは分からない。そのお調子者の男子が命じたのかもしれないし、何となくそういう雰囲気となったのかもしれない。

 群れというのはそういうものだ。和を乱す者は排除するように出来ている。

 皆が笑っているのだから、空気を読んで笑っていれば良かったのだ。少なくとも、口を出す必要はなかった。今ならそう思える。


 一部の生徒に無視されるくらいなら別に構わなかった。元より誰とでも仲の良いようなタイプではなかったのだから。

 だが、親友と思っていた相手からも無視されたことはどうしようもなく辛かった。本当は親友でも何でもなかった。勝手に期待していただけだった。弱者を切り捨てるのは彼女達にとって当然だった。

 その体験は彩日に大きな心的外傷トラウマを刻み込んだ。初めは我慢していたが、相談できる相手もおらず、すぐに限界が訪れた。それは帰宅した彩日の双眸から涙となって溢れ出した。


「お父さん、私もう学校に行きたくない……」


 リビングにいた父にそう伝えた。自分に興味のない相手に言っても無駄だとは思っても、言わずにはいられなかった。そんな父の言葉は簡潔だった。


「お前の好きにすりゃいい」


 それ以来、彩日は小学校に行かなくなった。自分では何もしていないので、学校には父が対応してくれたのだと思う。

 これといってすることもなく、ボーっとして過ごす毎日。何かをする気力もなく、かといって動かないわけにもいかず、何となく家の中を徘徊していた。

 それを見かねたのか、父は前に使っていたらしいノートパソコンをくれた。


「暇なら部屋で映画でもアニメでも観てろよ。鬱陶しいからうろちょろするんじゃねぇ」


 それまでの彩日は空想世界フィクションにあまり関心がなかった。現実の友達と一緒に過ごすことの方が大切だった為だ。けれど、それはもはや残されていなかった。

 父の言うがままに映画やアニメを観始めた。すると、瞬く間に心奪われた。

 そこには確かに彩日の追い求めるものが描き出されていたのだ。

 誰かと想いを通じ合わせて、分かり合って、共に生きていく──そんな関係性が。

 自分の心の欠落が埋まっていくような感覚がした。


 それからは映画、小説、漫画、アニメといった物語にどっぷりと浸かるようになった。

 一年半ほどが経過し、中学生になったのを機に彩日は不登校をやめた。

 他人も、未来も、何もかもがどうでもいい。自分の世界にそんなものはいらない。フィクションがあればそれでいい。

 たとえ不完全ではあってもそんな風に考えることで、彩日は楽に生きられるようになった。世界は書き割りのように変化し、平穏で満たされたのだ。

 すると、どうしようもなく下らないこの現実や、そこに登場する浅ましく醜い他人キャラクターを嘲笑って楽しむ余裕さえ出来た。

 結果、最低限の関わりだけで中学を卒業し、それは高校でも変わることはないだろう。

 そう思っていたのだ──玲愛が話しかけてきたあの瞬間までは。

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