好きを教えて─Comment te dire“Je te veux”─

吉野玄冬

プロローグ


 わたしたちは戦うことができる。希望をいだくこともできる。そのうえ信じることすらできるのだ。しかも、学問的・科学的に信じる必要などは、ないのである。

 ──ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳






 歯車が廻っている。異なる歯車は存在しない。たった一つ、孤独に空転し続けている。

 けれど、それは理想の状態だ。唯一だからこそ廻り続けられる。他の歯車と噛み合うということは、ぶつかって、磨り減って、やがては壊れてしまうことに他ならないのだから。

 平穏。ただひたすら穏やかに時間が過ぎていく。歯車の寿命が尽きる、その瞬間まで。


「……ふぅ」


 黒汐くろしお彩日あやひは学校の屋上、その片端に設置されたベンチに腰を落とすと、一息吐いた。

 このきのまた高校は屋上が庭園となっており、生徒にも解放されている。

 とは言っても、人気はない。夏場は暑いし、冬場は寒い。加えて、花壇があるので虫も多い。決して過ごしやすい環境とは言えない為だろう。

 けれど、彩日にとっては入学した昨年の当初に見つけてからお気に入りの場所だった。目立たない位置にあるこのベンチだけは日陰になっているので、多少暑くても気にならない。冬場は厚着しておけばいい。

 難点はたまに人がいないと思ったカップルがいちゃつき始めることがあるくらいだ。そういう時には心中で呪詛を送り込むことにしている。効果は半々といったところ。


 今は昼休みだ。その為、片手には昼食として惣菜パンを持っている。

 制服のポケットからスマホを取り出すと、付属しているイヤホンを耳に着けた。

 学校での昼食時はいつも映画を観るようにしている。映画以外にも小説、漫画、アニメといった物語を伴う創作物は何でも好きだ。退屈な授業で疲れた心身を癒す至福の時間。


「──あっ、こんなところにいた」


 しかし、突如としてそれは打ち壊された。

 風鈴が鳴るように清々しい声と降り注いだ影によって。

 彩日は反射的に顔を上げ、イヤホンが耳元から零れ落ちる。

 そこには一人の女子生徒が立っていた。同じ制服を着ているはずなのに、別物のように美しく着こなしている。


 彼女の名前は、蒼樹あおき玲愛れいあ。クラスメイトだ。

 しかし、その噂は一年生の時から耳にしていた。

 カッコ良さと可愛さを兼ね合わせたような整った顔立ち、モデルのように手足が長くほそやかでしなやかな身体。

 優れているのは見た目だけでなく頭脳もだ。この椏高校の入学試験は首席で合格し、定期考査でも一年の時からトップを取り続けているらしい。

 才色兼備、秀外恵中、才貌両全。そういった言葉が彼女ほど相応しい人間を他に知らない。


 そして、その人間性にも瑕疵は存在しない。

 ボランティア部に所属しているようで、学内外を問わずあちらこちらを縦横無尽に駆け回っては、誰かの手助けをしているともっぱらの評判だ。その為、学内で彼女のことを知らない者は一人もいないほどの人気者。

 クラスでも陰キャ陽キャを問わずに積極的に話しかけては見事に仲良くなる真の陽キャ。

 例外は陰キャの最底辺とも言える彩日だけだ。教室では常に本を読んでいて、髪は伸ばしっぱなしのボサボサで前髪など目元を覆い隠しているので、如何にも近づき難い雰囲気を放ち続けている。

 それは中学時代から他人を近づけない為の壁として有効に機能していた……はずだったのだ。


「黒汐さん、一緒にご飯食べてもいいかな?」

「……えっ」


 彩日が驚きから呆然としていると、彼女は影となっているこちらの領域へと踏み込んできて、隣に座った。持参していた弁当箱を膝上に開く。


「いただきます」


 彼女は律儀に両手を合わせていた。それも、形式的なものじゃなく、しっかりと何かに祈っているように見えた。食材か、作り手か、神様か、もしくはもっと違った何かか。全体的に一つ一つの所作が丁寧に思う。

 彩日にとって他人は架空人物キャラクターのようなもの。

 この世界で唯一、魂を持つのは己だけ。他の人間は動き喋るだけの肉塊に過ぎない。

 だが、彼女の声や姿はあまりにも活き活きとした存在感を発していた。


「何見てたの?」

「え、映画……」


 玲愛は彩り豊かな弁当の中身を箸で摘まみながら、当たり前のように話しかけてきた。

 自然に問いを投げ掛けられたことで、思わず素直に答えてしまう。


「へぇ! いつも本読んでるから本が好きだとは思ってたけど、映画も好きなんだ! わたし、あまり観ないから知りたいな。どういうのが好きなの?」


 彩日は語りたくなる欲求をグッと堪え、理性の力を総動員し、弱々しいながらも抗いの言葉を発する。


「……一人でいたいんだけど」

「あー……そうかなとは思ったんだけど、黒汐さんと話してみたくて。駄目、かな?」


 玲愛は絶妙に悲しそうな顔を見せ、罪悪感を植え付けてきた。

 表情筋を操るのが上手い奴め……!

 彩日は内心で毒づき、揺らいでしまう自分を律しながら、抗戦する。


「だ、駄目……」

「そこを何とか!」


 玲愛は拝み倒すようにお願いしてくる。

 何なの、こいつ……。


「じゃ、じゃあ、黒汐さんは映画を観てていいから! わたしは横で静かにしてる! これでどう!?」

「どう、って言われても……」


 そもそも一人でいたいと言ったのだから、それではこちらの要望が成立していない。ただ、映画の続きを観たいというのも間違いではない。これ以上拒絶するのも面倒になった彩日は投げやり気味に言う。


「……好きにしたら」

「っ! うんっ」


 玲愛の表情はパーッと花が咲くようだった。目的が果たせていないのに、そんなに喜ぶことだろうか。理解に苦しむ。

 彩日は外れていたイヤホンを付け直すと、スマホで映画を再生した。一日三十分ほどで今日はこれを観始めてから四日目なので、いきなりクライマックス間近な場面から始まる。


「…………」


 映画に集中しようと思うが、ふと横に視線を向ければ、玲愛の視線はこちらの顔とスマホの画面を交互に行き来しているようで、確かに言葉は喋っていないが、全然静かではない。

 彩日は大きく溜息を吐くと、イヤホンを外してスマホのジャックからも引き抜いた。その為、映画の音声が周りに聞こえるようになる。


「えっ」


 玲愛は驚きの声を上げて、咄嗟に口を押さえていた。ただ、その目は「どうしたの?」と問いかけてきている。しかし、彩日はその問いには答えず、代わりに違うことを言う。


「この女の子を殺そうと狙っている敵がいて、こっちの男──主人公は彼女を守る為に戦ってる。アクション映画だから複雑なストーリーじゃないし、ここから観てもまあ、楽しめると思う」


 彩日はスマホを少しだけ玲愛の方に動かした。それらの言動が表しているのは、映画を一緒に観ることの許容。その意味は伝わったようで、彼女は嬉しそうにコクコクと頷いていた。


「…………」


 彩日と玲愛は一つのスマホの画面に視線を集中させる。決して両者の中間の位置には持っていかない。あくまでこちらが観たいものなので、そこまで譲歩する気にはなれなかった。

 しかし、そうしたことで予想外の動きが生じる。

 玲愛が身を寄せて来たのだ。今までは拳一つ分くらいは空いていた距離が、なくなる。


「っ……」


 間近にある玲愛のひとみは宝石のようにキラキラとして見えた。肩に掛かる程度の髪は絹糸のようにこまやかで艶があり、ほんのりと茶色みを帯びている。

 肌はシミ一つなく磨き上げた大理石のようにツルツルで、明るく華やかな色合いをしていた。良く見ると、薄く化粧が施されている様子だ。

 ふわりと桃のような甘やかな香りまで漂ってくる。彼女の使っているシャンプーか、それとも身体が発しているのか、どちらにせよ人を惑わせる芳香だった。

 いくら同性と言えど、看過できない情報の数々が波濤はとうのように押し寄せて来る。


 彩日は頭の中が混乱に陥るのを感じながらも、何とか映画への集中を試みるのだった。

 やがて、映画を観終わり、エンドロールが流れ始めた。

 ふと隣を見ると、玲愛の顔は何かを言いたげにうずうずしていた。

 まだ静かにしてるのか、と彩日は納得する。


「別にもう喋ってもいいけど」

「面白かったね! 主人公がどんどん追い詰められていって、これからどうなっちゃうんだろうって感じだったから、最後の場面なんか凄くホッとしちゃって」


 どうやら楽しんでくれたらしい。基本的には全編観て欲しいのはもちろんだが、それでも良い作品は途中から観ても何度観ても面白い。

 彩日は映画を観終えた後の高揚感もあって、素の調子で話し始める。


「なかなか良い作品だった。尺の都合もあってか、アクション映画にありがちな雑な終わり方ではあったけど、銃に関するアクションは特に細かい部分までリアリティが感じられたし、他にも──」


 この作品を観て思ったことや考えたことをつらつらと述べていく。

 しばらくして玲愛の目が点になっていることに気がつき、慌てて止めた。


「ご、ごめんっ」


 反射的に謝った。こんなオタク語りを聞かされて、気分を害さないわけがない。

 けれど、玲愛から返ってきたのは、思わぬ問いかけだった。


「いつもそんな風に考えながら観てるの?」

「まあ……うん」

「それは、どうして?」


 いざ問われると難しい問題だ。

 彩日は頭の中で散らかっている言葉達を繋ぎ合わせていく。


「……多分だけど、色々考えて言葉にしていくと、初めはあまり良く思えなかった作品が急に良く思えてくるようなことがあったりして、むしろ反対に悪く思えてくる作品もあったりして、でも私にはそうやってたくさん言葉にした上でなお好きだって思える作品の方が、本当に好きな作品なんじゃないかって、そう思うから」

「本当に好きな……」


 玲愛は彩日の言葉の一部分をポツリと呟いた。

 その様子は先程までとは違っているように思えた。


「ねぇ、黒汐さん。お願いがあるの」


 その顔は真剣だった。切実に感じられた。

 きっとそれは彼女にとって、とても大切なことだったのだ。


「わたしにあなたの──好きを教えて」

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