碁敵と書いて友と読む
島本 葉
第1話(完結)
「池上くん、10月で辞めるんだって」
社内の休憩スペースに設置された自動販売機に少し
思わず目を向けてしまう。
彼女たちの話によると、池上が近々退職するらしいということだった。
大手の代理店に転職するとか、家庭の事情だとか、嘘かホントかわからないようなことを交えて、少し声を抑えながら話していた。
退職?
池上が?
池上は前は同じ部署で働いていた同僚で、年齢もだいたい同じくらいだった。
背が高くて爽やかで、女性社員にも気さくに話しかける、いわゆるイケメンだ。
同じ部署でも、担当範囲が違ったため、俺と池上はほとんど仕事上の絡みは無く、会えば挨拶をする程度。けれども、一時期、よく一緒に行動することがあったのだ。俺と池上は。
何も聞いていないことは不思議でもなんでもないのだが、彼が退職すると言うのを耳にしてなんとなく心がざわめいた。
──ガコン
取り出し口に缶コーヒーが転がった。
「しまった、ブラックだ」
ぼんやりと考えながらボタンを押したので、誤って無糖のコーヒーを押してしまったようだった。
お釣りの小銭がカタカタと吐き出される。仕方ない。缶を開けて一口飲んだ。
「苦い…」
「お、三澤も囲碁やるの?」
声に色がついているなら暖色系の着色がされているようなはずんだ声。
仕事ではあまり絡まなかった池上と俺の共通点は囲碁だった。少し早めに昼休憩から戻った俺は、午後の会議までの間に自席で微糖のコーヒーを飲みながら囲碁アプリを立ち上げていた。
通常の囲碁は19×19の広さの19路盤を使うが、このアプリは一辺が少し小さめの13路盤だ。盤面が小さい分、10分程度の短い時間で決着がつくため空き時間にやるにはもってこいだった。
背後からの声に振り返ると、池上が嬉しそうな顔で覗き込んでいた。同じ趣味のやつを見つけたぞ、と顔にわかりやすく書いてあるようだった。
「ああ、池上も?」
「うんうん。最近はアプリばっかりだけど、学生の頃はよく打ってたんだよ」
囲碁はゲームとしては認知されてるものの、実際に打てる人や趣味にしてる人はなかなか日常では出会わなかった。俺も池上が初めてだ。そのため、こちらの気持ちも弾んでいた。しかし対局中の盤面は制限時間があるため、視線はスマホに戻してネット対局をすすめていく。
「どれくらい打つの? 俺は弱い初段くらいだな」
「へー。俺も初段はある…はず」
対局が少し佳境に入ってきたため、じっと画面を見つめる。こっち打ったらこうきてこう…だから、ここに打って、こうこう、え? あっ、そっちか?!
無言になってしまった背後で、池上もじっと画面を覗き込んでいる気配がする。
しばらく続けていたが、さっきの読み間違いがはっきり敗着だった。地合いを数えてみたが、足りていない。逆転できそうな狙いもなかったので、悔しいが投了ボタンを押した。
ポンと肩を叩かれた。そうか。池上が見ていたんだった。
「どんまい。今度一緒に打とうぜ」
池上はひらひらと手を振りながら自分の席に戻っていった。
お互いに囲碁が趣味だとわかった池上とは、月に一、二回、就業後に会社の最寄り駅から徒歩で行ける距離にあった碁会所に行くようになった。そこでは、二人で打つこともあるし、他のお客さんと打つことも。
「この手、やっぱりやりすぎ?」
さっきの対局を振り返りながら、池上が尋ねてくる。
池上と俺の棋力はだいたい同じくらいだったので、二人で打つのは楽しかった。勝ったり負けたり。勝敗は数えてはいないが、多分同じくらいか。
「流石にそれはやりすぎなんじゃない? 実際こっちが薄くなって俺は打ちやすくなったけど」
「やっぱりなー。でも思いついたら切っちゃうんだよな」
「やる気すぎるだろ」
お互いに初段くらいなので、正しいことがわかっているわけではないけど、対局中にどんなことを考えてたのかは参考になる。池上の碁はかなり好戦的な碁で、優しげな外見とは正反対にグイグイ来る。仕事では爽やかでできる男のイメージだが、盤上ではまた別の一面を見せていた。何度痛い目を見たことか。一方の俺はじっくり構えて打つのが好きで、戦いはあまり好きではない。読みが甘いとも言うが。バランス派、としておこう。
先程の勝負は、中盤戦で池上が戦いを仕掛けてきたのだが、少々強引だったように思う。そこで形勢を悪くした池上だったが、簡単には勝たせてもらえず、その後も何度か勝敗が揺れ動いていた。結果、俺が勝ったが。
池上は俺にとってどういう存在なんだろうか。会社の同僚ではあるが、仕事では挨拶程度でほとんど絡んだことがない。だから、会社で口づてに池上の人物像を聞くものの、実際の彼の性格はよくわからない。
会社だと、「爽やか」「イケメン」「優しい」「仕事ができる」とか。そういう一面もあるかもしれないが、俺にとってはそれは池上を説明する特徴ではなかった。
盤上の彼は喧嘩っ早くて、負けず嫌い。まあまあ欲張り。そして、囲碁が好き。
俺と池上はこんなふうに繋がっていた。
池上が会社をやめるという話を聞いて幾日か過ぎたとき、エレベーターで池上に会った。彼が部署異動をしてからというもの、勤務してるフロアが変わったため、普段はほぼ顔を見なくなっていたのだ。
「スイマセン」
閉まりそうになるエレベーターを呼び止めて、滑り込んできたのが池上だった。彼も俺に気づいて、少し目を瞠る。
「久しぶり。元気にしてる?」
「ああ、そっちも」
彼が結婚したことや仕事で都合がつかないことなどがあり、二人の碁会所通いも数が少なくなっていた。そんな折、池上に異動がかかって、いつしか自然に行かなくなっていた。最後に打ったのはいつだっただろう。碁の内容は覚えている。珍しく俺が戦いを仕掛けて、返り討ちにあったはずだ。
──辞めるんだって?
そう話しかければいいのに、何故か言葉が出なかった。
微妙な沈黙をエレベーターが高所へ運んでいく。
「今週」
沈黙を破ったのは池上だった。
「今週の金曜、行かないか?」
胸がどくんとはずんだ。
「ああ。いつもの時間でいいのか?」
「うん、それで。じゃあ」
片手をさっと上げて池上がエレベータを降りる。彼はそのしなやかな指で、石をいつも静かに置く。その静かな手つきとは比べ物にならない厳しい一手を。去っていく池上を見ながら、碁番の前で向かい合った彼の手先が浮かんだ。
待ち合わせの場所に先についた俺は、飲み物を買っておこうと眼の前のコンビニに入る。飲み物とチョコレートを買って店を出ると、すぐに池上がやってきた。
「いつも缶コーヒーな。甘いやつ」
「無いとなんとなく調子が出ないんだよ。池上は飲み物は?」
「俺は碁会所のお茶でいいや」
駅前の高架をくぐって、少し奥まったところにいつもの碁会所はあった。俺自身も一人ではほとんどこなかったので、久しぶりだ。店内には満席ではないがそこそこ人の姿があった。
席料を払って店に入ると、隅の方に空いた席があった。
「あそこ、使わせてもらいますね」
お互いに言葉はかわさず、俺たちは碁盤の前に座った。
「最近、打ってる?」
荷物を脇の椅子に置き、腕時計を外す。先程買った缶コーヒーとチョコレートも脇に置いた。
「いや、ネットでたまに打つけど、あんま時間取れなくて。もっぱら通勤時間に詰碁だな」
池上は一度立ち上がると、セルフサービスの緑茶を紙コップに注いで来た。再び向かいに座った。個包装のチョコを数個渡す。
「サンキュ。三澤は? 最近来てる?」
「いや、俺もここ久しぶりで。ネットではよく打ってるけど、碁石握るのは久しぶりだ」
碁盤の中央に置かれた、白石と黒石がそれぞれ入った碁笥をお互いに引き寄せる。
白だ。
池上との対局はいつもハンデなしの互先だ。けれども俺は気分が高揚していたのか軽口を叩いてみる。
「久しぶりなら、いくつか石を置きますかね?」
「冗談。ニギリたまえよ、三澤くん」
少し探るようなお互いの空気が霧散して、懐かしい雰囲気を感じる。
姿勢を正して目を向けると、いつもの彼が碁盤の前に座っていた。
先後を決めるために、白石を持った俺が十数個を鷲掴みにして、盤上に伏せた手の中に隠す。池上は一つ石を出した。石を二つずつ数えていき、最後に一つ石が残った。
「そっちが黒だな」
個数(偶数か奇数か)を当てた池上が先手の黒だ。戦いが好きな彼は、先手で戦いが起こしやすい黒番が好きだった。望むところだ。
「おねがいします」
「おねがいします」
お互いに礼をして、池上の右手がひっそりと黒石を左下に置いた。
久しぶりに触る碁石の感触を楽しみながら、ゆったりと打ち進める。
池上も今のところは特に穏やかな打ちぶりで、様子を見ているのか、牙を研いでいるのか。コーヒーを一口飲んだ。柔らかい甘さとほんのりとした苦味が広がる。
「そういえば、辞めるらしいな。会社」
先日聞けなかったことがスルッと口から出た。
「ああ、10月まで」
「次は決まってるのか?」
「ああ」
なぜ辞めるのか?
そんなことを聞いてみようかとも思ったが、ふと顔を上げて池上を見ると、少し口角が上がっていた。彼の目は盤上に向けられていて、複雑に絡み合った碁石を睨みつけていた。
──来る。
俺の打った手に反発して、キリを入れてきた。これは戦いになる。
白を分断してきた黒石はたよりなさそうにも見えたが、はっきりと判断できない。読み進めていっても、たしかにこの黒石は捕まらない気がする。なら、どう受けるのが最善だ?
石が切れているということは、お互いに分断された形なので、ここで妥協すると一気に打ちにくくしてしまう。チョコの包装紙を開けて口に放り込んだ。
池上が打つ。俺が受ける。
俺が攻める、池上がかわす。反撃、包囲、せめ合い。
言葉はもういらなかった。池上が考えていることは、盤上で石が教えてくれる。目の前に座っている池上という男は、熱い闘志をぶつけてきていた。久しぶり? とんでもない。侮っていたわけではないが、一手一手油断がならない。負けるものか。
池上が反発してきたところから戦いが始まり、二転三転しながらも、なんとか俺のほうが勝っているようだった。
「負けました」
池上はそう言って、投了のしるしに盤の片隅に白石を置いた。
結局池上とは三局打った。
最初の一局は俺の中押し勝ち、続く二局目は池上が押し切って、俺の六目半負け。三局目は中盤で潰されて、俺の負け。一勝二敗。
「いや、久しぶりだったけどなんとかなったよ」
勝ち越した池上はご機嫌だった。負けたのは悔しかったが、頭をいっぱいに使って、心地よい疲れと充実感に満たされていた。
先程までの碁を振り返り、あそこでああしておけば、とかあれは失敗だった、あの手は読めてなかった、と思いつくままに言い合いながら駅まで歩く。改札を抜けたところで、立ち止まった。池上と俺は家が反対方向なので、ここで解散だ。
そういえば、なぜ仕事を辞めるのかを聞いてなかったことを思い出した。もうじき会社を辞める池上とは、これが最後になるのかも知れない。
「池上」
「ん?」
俺は何を言いたいのだろう。何を聞きたいのだろう。
「いや、なんでもない。じゃあまた、会社でな」
「ああ、また」
何を聞きたいのかもわからず、別れの言葉を口にする。
すると池上がスマホをかざして、碁会所にいるときと同じ笑顔を向けてきた。
「三澤、連絡先おしえろよ。俺たち、アプリのIDは知ってるけど連絡先知らなかったよな」
池上と連絡先を交換した翌日、早速メッセージが入った。
軽快な電子音が響いたのでスマホを覗くと、なにか写真が送られてきたという通知だった。
「写真?」
一体何を送ってきたのか。ロックを解除して、トーク画面を開くと、そこに現れたのは──。
「詰碁かよ!」
昨日は楽しかったとか、また行こうとか、そんな社交辞令は一切なしで、ただ碁盤の局面図が映された写真だけが送られてきていた。画面を見ていると、追加でメッセージが。
『黒先白死』
スマホをじっと見つめて、夢中で読み
何分くらい経ったのか。なんとか読み切れたので、正解のはずの座標を入力した。メッセージの受信時間を見ると、五分ほど考えていたようだ。
すぐに既読がついて、お返しにゆるいイラストの猫が『
どの詰碁を送り返してやろうか。俺はスマホのアルバムの中にいくつも保存した詰碁を眺めた。
俺たちは、やっぱり囲碁で繋がってるのがしっくりくる。
了
最後までお読みいただきありがとうございました。
碁敵と書いて友と読む 島本 葉 @shimapon
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