我が家のメイドは頭が良い
転勤前に部屋を荒らすだけ荒らしていった母達のせいで、三日三晩毎日のように栞子ちゃんと二人で家中の掃除を行う羽目になった。しかし、何とか学校が始まる前に掃除を終わらせることが出来て、二人して一安心といった具合に人心地つくのだった。
「ご馳走様」
二人で人心地と言ったが、あれは嘘だった。
栞子ちゃんは掃除の後、その日の残りの仕事である夕飯の準備をせっせと進めてくれた。男手である僕が音を上げるくらい掃除をした後なのに、タフな子である。
少しずつ慣れ始めた栞子ちゃんの手料理に舌鼓を打って、感謝の意を伝えた。
「ねえ、栞子ちゃん」
「はい」
淡々とご飯を食べていた栞子ちゃんが、淡々と応じてくれた。
「今日の皿洗いは、僕がやるよ」
それは、仕事とはいえこの数日間、我が家の掃除に付きっきりになってくれた少女に対するせめてもの謝礼だった。
「不要です。それはあたしの仕事ですので」
しかし、栞子ちゃんは頑なな態度を示すのだった。
「でも、それくらいはたまには僕がしたって。ここ数日、ずっと重労働で疲れたでしょ」
「大丈夫です。仕事ですので」
どうにも、栞子ちゃんは僕の申し出に応じる気配は見えなかった。
渋々、僕は栞子ちゃんに皿洗いを任せて、先に風呂に入ることにした。一番風呂は主の特権だと、そこも栞子ちゃんが頑として譲らなかったから、いつも僕が先に風呂を頂いていた。
数日の疲れを風呂で癒し、髪を乾かすことなくリビングへと僕は行った。
「健司さん」
そんな僕を咎めようとする人が一人。
「先日も言いましたが、髪は脱衣所でキチンと乾かしてください。フローリングが濡れて痛みます」
「あ、ごめん」
ここ三日毎日される注意を、性懲りもなく僕はまたしてしまった。元々これは、両親が我が家にいる頃からの僕の癖だった。癖、というものは、早々簡単に抜けるものではないんだな、と僕は実感していた。
「……あんまり直らないようなら、こちらとしても考えがあります」
そんな僕の呑気な考えが見え透いていたのか、淡々と栞子ちゃんは言い出した。
「考え?」
「髪、あたしが乾かします」
「んなっ!!!」
僕は頬を染めた。
風呂上りの髪を他人に乾かしてもらうだなんて、そんなの子供くらいしかされることはないだろう。髪の長い女子ならまだしも、男の僕の髪の長さなんてたかが知れているのに、だ。
「……頑張って直すよ」
「あたしは、それくらいの仕事は手間ではないのですがね」
「絶対直すからっ」
淡々と言われると、じゃあお願いと言いそうになるが、僕は声を大にしてそう宣告した。
そして、脱衣所に戻りドライヤーで髪を乾かした。
ドライヤーを脱衣所に戻した後、リビングに戻ると、机の前で栞子ちゃんは正座していた。正座する彼女の机の前には、たくさんの参考書。
「何やってるの」
「奥様に言われているのです」
「何を」
「受験が終わってからというもの、健司さんが随分と勉強に不真面目だったと」
「うぐっ」
母さんめ、余計なことを。
栞子ちゃんの言い分と、眼前の参考書で、僕はなんとなくこれから行われる行事に気が付いた。
「明後日には学校が始まりますね」
「……うん」
「学校に入れば、すぐにまず実力テストがあるそうです」
「そうなんだ」
「その時、碌な点数が取れないと、ご両親が悲しまれますよ?」
チクチクと待針で刺されるような気分だった。
まあ、栞子ちゃんの言いたいことはわかる。これから僕達が進む学校はそれなりの進学校。なのに、出鼻をくじかれたらとんとん拍子で落ちるところまで落ちるかもしれない。
律するところは、多分律するべきなんだろう。
「嫌だ」
僕は、そこまで考えて栞子ちゃんの申し出を反故にした。
「どうしてです?」
「……受験のために、一気に詰め込んだんだ。だから今は、燃え尽き症候群ってやつで……だから。中間テストから本気出す」
「健司さん」
呆れたようにため息を吐き、栞子ちゃんは続けた。
「勉強は当然するものです。燃え尽きるだなんて感覚が間違っているんです」
「……はい」
あまりに、正論だった。
それでも僕は、まだやる気が伴ってこなかった。
ふう、と栞子ちゃんはため息を吐いた。そして、立ち上がった。今日のところは折れてくれたらしい。
安堵のため息を、僕は漏らした。
ただ、そうではなかった。
しばらくして、栞子ちゃんは戻って来た。
「はい」
机に置いたのは、ホットミルクだった。
「……これは?」
「飲むと落ち着きますよ」
言外なら、飲めよ、と栞子ちゃんは僕に促していた。
「落ち着きましたか?」
「……少しは」
「それでは、勉強をしましょう」
淡々という栞子ちゃんに、僕は……不思議と、反論する気を奪われていた。温かいホットミルクを飲んでいたら、勉強程度のことでガタガタ歯向かうのが馬鹿らしいと思い始めたのだ。
「わからないところがあれば言ってください。教えます」
「……君にわかるの?」
ホットミルクで落ち付きすぎたあまり、少し酷い言い振りになっていた。しかし、僕は気付いていなかった。
「今年の入試で、あたしは学年トップの成績でした。入学式でも、入学生の言葉を読むことになっています」
「そりゃ凄い。頭良いんだね」
ズズズ、とホットミルクを啜った。
「鬼に金棒だね、それは」
「そう言ってくれて、嬉しいです」
淡々と、嬉しくなさそうに、栞子ちゃんは言った。
やはり彼女は、過去僕が知っている彼女に比べて……随分と、落ち着いた。むやみに感情を表に出さなくなったと言えようか。
それが良いのか悪いかのか。
それは、僕にはわかりようがない。ただ、寂しい気持ちはあった。僕の初恋相手が、僕より先に成長していく様を目の当たりにして、寂しくて、苦しかった。
「……勉強、教えてくれる?」
僕が、栞子ちゃんにそう言うことが出来たのは。
そんな成長していく彼女に置いていかれたくないと思ったこと。
そんな彼女に、振り向いてもらいたいと思ったこと。
そして、我儘勝手な僕のために、ホットミルクまで振舞ってくれた彼女の期待に応えたい、とそう思ったからだった。
「思えば僕は、昔から君の前だと我儘勝手だったね」
やっぱり、僕はまるで変わることが出来ていないらしい。
変われる自信はない。でも、恐らく母に変われと言われている現状を鑑みて、このままではいけないと思う気持ちも僅かに芽生え始めていた。
そんな僕の変化に一石を投じてくれるのがあの栞子ちゃんというのは、一体、僕達にはどんな縁があるのだろうか。
僕は、ホットミルクを啜って、栞子ちゃんとの勉強会を開始した。
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