我が家のメイドは刺激が強い

 朝は、いつもより少し遅い時間に目を覚ました。昨晩はいつもより早くベッドに寝転んだ。にも関わらず、どうしてか僕は寝不足だった。

 いや、理由を語る必要はない。昨晩の夜のこと、栞子ちゃんに突然頬にキスをされたこと。あれのせいで、僕は昨晩寝れなくなったのだ。


 あまりにも突然のことだった。

 真っ暗な闇の部屋の中、視界が遮られてたせいでいつもより少しだけ敏感だった頬に、柔らかいそれが触れた。未だに、思い出そうと思えば、その時の感触が頬に蘇る始末だった。


 あれは、どういう意味での行いだったのだろうか。

 栞子ちゃんは言っていた。ハレンチなことをするのは、好きな人とだけだって。なのに、その……昨日されたキスは。


「もしかしたら彼女、家族とは寝る前にいつもキスしているのかな」


 それかもしくは、お世話役になった相手には、キスをしなければならないと思い込んでいる、とか。

 そうでないと……昨日のあれ、説明つかないじゃないか。


 まだ眠い頭、考えはどうにもまとまらなかった。

 スマホを開くと、時刻は六時半。いつもならまだ寝ている時間。

 もう一眠りするか。そう考えたが、眠る気はまるで湧いてこなかった。眠いっていうのに。


 ベッドから体を起こすと、ギシギシとベッドが揺れた。小学校に入った頃にこの部屋で、一人で寝るようになって、ベッドはそれから一度も交換してない。さすがにそろそろ限界が近い、と最近では思い始めていた。

 ベッドから降りて、僕は部屋を出た。

 

 家の中は静かなものだった。早朝、少しひんやりとする空気の中、いつもより声が響くこの環境下でのこの静寂。

 栞子ちゃんは、まだ寝ているのだろう。


 昨日はずっと、僕の部屋の掃除を手伝ってもらってしまった。住み込みバイトの初日、慣れないベッド。長時間の重労働。疲れない方が可笑しい話だった。


 栞子ちゃんは、両親の寝室で眠る予定になっていた。そして、両親の寝室は、僕の部屋の隣、階段側にある。

 階段を降りる際、彼女を起こさないように静かに歩いた。


 一階に着いて、歯でも磨こうと思ったのは、ただの思い付きだった。


 廊下を歩き、脱衣所。


「……え」


 その声が漏れたのは、脱衣所からだった。

 一瞬の出来事だった。

 誰もいないはずの脱衣所の扉をガラガラと開けると、音に気付いた中にいた人がこちらを振り返ったのだ。


 振り返り越しに、長髪に付着していた水滴が何滴か飛び跳ねて、弧を描いて舞っていた。

 ただ僕は、美しい放物線を描く水滴には目も暮れることはなかった。


 僕が目にしたものは……。


 白い清潔感溢れるバスタオル。

 濡れた艶やかな黒髪。

 健康的な太腿。

 綺麗なくびれ。

 そして、豊かな二つのお山。


 バタンッ


「ごめんっ」


 慌てて、僕は脱衣所に繋がる扉を閉めた。

 さっきまで眠気でうだつの上がらなかった頭に、血液が巡っていく。ただ、思考が活性化することはなく、むしろどんどんおかしな方向に流れていっていた。


 脱衣所。

 誰もいるはずもないと思ったそこにいたのは、両親が転勤した僕にとって、ただ一人の同居人の彼女だった。


 そんな彼女の健康的な肌色を見て。きめ細かな肌を見て。滴る水滴を見て。


 僕は、あわあわと口をパクパクさせていた。

 大変なことをしてしまった。大変なものを見てしまった……。


 そんな、まさか……。


「あわあわあわあわっ」


 思わず、声に漏れていた。

 どうしようどうしよう。


 謝罪。

 自首。

 実刑。


 一体、どれを選べばいいんだろう。


「……健司さん」


 狼狽えている僕に、脱衣所の向こうの栞子ちゃんが声をかけてきた。


「は、はいっ!」


「……見ましたか?」


 見たって、何を……?

 健康的な肌のことだろうか。それとも、艶やかな髪? もしくはその……。


「見てない断じて見てない全く見てないまるで見てない一切見てない」


 捲し立てて、僕は言った。こんなの最早、自白に近かった。


「……そうですか」


 ただ僕の自白に、脱衣所の向こうの栞子ちゃんの声はあまり慌てている風ではなかった。狼狽えまくる自分と対比して、僕は少し居た堪れない気持ちになっていた。


「リビングで待っていてください」


「え」


 ど、どうして……?

 まさか、警察を呼ぶとかそういう話……?


「朝食を作るので、それまで待っていてもらえませんか?」


「……あ、うん」


 昨日と同様、栞子ちゃんの声は淡々としていた。

 まるで、僕に裸を見られたことなど、気にしていない風に。


 ……見た時間は多分、ザっとコンマ何秒。なのにも関わらず、僕は先ほど目撃した彼女のそれを、こと細かに思い出すことが出来てしまっていた。


 顔が熱くなっていくのがわかった。


「うん。わかった」


 ここにいてはいけない。

 そう思った僕は、逃げ出すようにリビングへと駆けだした。


 それからしばらくして、栞子ちゃんは脱衣所から出てきた。


「すみません。朝風呂するのが日課でして」


 まず、淡々と。栞子ちゃんは謝罪をした。


「謝る必要なんてないよ」


 むしろその……多分、謝るべきは僕なのだろう。


「いいえ、空腹を我慢させてしまって。すみません」


 ……彼女のした謝罪は、裸を見せたことに対することと勝手に解釈していた。ただどうやら、僕の胃袋の状態を想った上での謝罪だったらしい。


「ごめん」


 煩悩まみれる脳内に、僕はついに我慢できずに謝罪をしていた。


「いいえ、すぐにご飯の準備をするので、待っていてください」


 朝食の準備に取り掛かる栞子ちゃんを遠目に見ながら、栞子ちゃんが履くショートパンツから見える少し火照った太腿を鑑賞しながら、僕は脳内でもう一度謝罪した。


 ……ただ、まもなく僕は気付いた。


 裸を見られた相手をまるで意識せず、自らの仕事に没頭する。淡々とした態度を崩さない栞子ちゃんを見て、気付いたのだ。


 もしかして僕、彼女に男として見られていないのではないだろうか……?

 だとすれば、昨晩のキスは……意中の人に向けたそれではない?


「ご飯出来ましたよ」


「……まさか、家族と寝る前にキスする説が濃厚になるだなんて」


「何か言いました?」


 首を傾げる栞子ちゃんを見て、つい考察を呟いてしまっていたことに気が付いた。

 良かった。聞こえていなかったらしい。


 それに少し安堵しつつ、でもやっぱり心臓は落ち着かなかった。


 僕は、逸る気持ちを抑えながら、彼女の振舞ってくれた朝食に舌鼓を打った。

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